鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社。鎌倉八幡宮とも呼ばれる。11世紀後半に、源氏の守り神として創建された。以後、鎌倉武士の守護神となる。現代では全国の八幡宮の中で、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝ゆかりの神社として関東方面で知名度が高い。境内は国の史跡に指定されている。旧社格は国幣中社で現在は神社本庁の別表神社。

概史  廃仏毀釈で撤去された大塔 関東大震災で倒壊した舞殿。前面の建造物はまだない。

河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義は、長元9年(1036年)に相模守に任じられた時期に、平直方の女婿となり、鎌倉の大蔵にあった邸宅や所領、桓武平氏嫡流伝来の郎党を譲り受けた。

1063年 8月に源頼義が、前九年の役に際して戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現 材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請した。1081年2月に河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。これが鶴岡八幡宮の始まりとなった。

1180年10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。1191年に、社殿の焼損を機に、上宮(本宮)と下宮(若宮)の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。1208年には神宮寺が創建される。

源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源頼義・義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退する。戦国時代には里見氏により焼き討ちにあうも(鶴岡八幡宮の戦い)、北条氏綱が再建を果たす。江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂などを建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。また、境内には方五間の多宝大塔や、東照宮も存在した。

江戸幕府崩壊後、1868年3月13日に「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が明治政府から出され、また1870年に大教宣布[1]がなされると、鶴岡八幡宮においてもいわゆる廃仏毀釈の動きが始まった。同年中に多宝大塔などの仏堂は破壊され、仏像、仏具、什宝、経典なども破壊・焼却処分されるか散佚した。ただし一部は現存し、鎌倉寿福寺、浅草の社僧が中心となって行った。また、一部残存していた仏堂も、その後真が残されている。

明治の近代社格制度では県社に列し、1882年に国幣中社に昇格。戦後は神社本庁の別表神社に列している。近年は全国一の宮会に加盟しており、相模国の一宮と扱われることもある(ただし歴史的には一宮は寒川神社である)。

年表  源頼朝の放生会。月岡芳年筆康平6年(1063年)8月、源頼義が河内源氏氏神の壷井八幡宮あるいは京都の石清水八幡宮を勧請(鶴岡若宮)[2] 永保元年(1081年)2月、源義家が修復[2] 治承4年(1180年)10月12日、源頼朝が現在の小林郷北山に遷座し、専光房良暹が臨時別当に就任[2] 養和2年(1182年)4月24日、専光房良暹と大庭景義が源平池を造営 建久3年(1192年)、源頼朝が征夷大将軍に就任 承元2年(1208年)、神宮寺創建 承久元年(1219年)、源実朝が甥の公暁に襲われ落命[3] 文明10年(1479年)1月27日、江戸城西方の守護として太田道灌が鶴岡八幡を江戸番町に勧請 大永6年(1526年)11月12日、里見義豊・実堯と北条氏綱の間の合戦で社殿が焼失(鶴岡八幡宮の戦い) 天文9年(1540年)、大永の戦乱で焼失した社殿を北条氏綱が再建 文政11年(1828年)、江戸幕府11代将軍、徳川家斉の命により本殿などが造営 明治元年(1868年)3月、神仏分離令により廃仏毀釈開始 4月24日、仏教的神号の八幡大菩薩が明治政府により廃止 7月19日、石清水八幡宮以下、鶴岡八幡宮などの放生会は中秋祭に変更 明治4年(1871年)5月14日、社格制度制定 大正6年(1917年)1月、段葛の八幡宮境内編入が許可[4] 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災で、楼門・下拝殿(舞殿)・一ノ鳥居・二ノ鳥居・三ノ鳥居・太鼓橋・白旗神社の拝殿等が全壊、本殿・拝殿・若宮・白旗神社本殿等が小破、源平池の護岸や大臣山が崩壊、太鼓橋が崩落[5]。 昭和3年(1928年)4月3日、鎌倉国宝館が開館 昭和26年(1951年)11月17日、平家池のほとりに神奈川県立近代美術館が開館 平成22年(2010年)3月10日、4時40分頃に、強風のために大銀杏は根元から倒壊^ 安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想大系5 宗教と国家』431ページ ^ a b c 新編鎌倉志 1915, p. 3. ^ 奥富敬之『鎌倉史跡事典』新人物往来社、1997年3月15日、222頁。ISBN 4404024525。  ^ 『鎌倉千年の歩み -段葛からのオマージュ-』、13-14頁。 ^ “関東大震災の鎌倉 その23”. kcn-net.org (2005年). 2021年6月21日閲覧。
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