お台場

お台場(おだいば)は、東京都の特別区南部東京港に位置するエリア。

港区台場・品川区東八潮・江東区青海からなる埋立地「東京港埋立第13号地」北部の商業地を指す。南部全域を占める青海三丁目・四丁目を除く。

また、広義では、隣接する「東京港埋立第10号地」北部を含む「東京臨海副都心」全体や、「東京港埋立第13号地」全体を指す。

お台場(おだいば)は、東京都の特別区南部東京港に位置するエリア。

港区台場・品川区東八潮・江東区青海からなる埋立地「東京港埋立第13号地」北部の商業地を指す。南部全域を占める青海三丁目・四丁目を除く。

また、広義では、隣接する「東京港埋立第10号地」北部を含む「東京臨海副都心」全体や、「東京港埋立第13号地」全体を指す。

 品川台場に設置されていた80ポンド青銅製カノン砲(遊就館蔵)江戸時代

1853年(嘉永6年)、ペリー艦隊が来航して幕府に開国要求を迫る。これに脅威を感じた幕府は、老中首座の阿部正弘の命で品川台場(お台場)を築造した[1]。江戸の直接防衛のために海防の建議書を提出した伊豆韮山代官の江川英龍に命じて、洋式の海上砲台を建設させた。品川沖に11基ないし12基[2] の台場を一定の間隔で築造する計画であった。工事は急ピッチで進められ[注釈 1]、およそ8か月の工期で1854年にペリーが2度目の来航をするまでに砲台の一部は完成し、品川台場(品海砲台)と呼ばれた[2]。お台場という呼び方は、幕府に敬意を払って台場に「御」をつけ、御台場と称したことが由来である[注釈 2] 。埋め立てに用いる土は高輪の八ツ山や御殿山を切り崩して調達した。また、そのために東海道の高輪通りを昼間は通行止めにした[3]。

ペリー艦隊は品川沖まで来たが、この砲台のおかげで横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになった。台場は石垣で囲まれた正方形や五角形の洋式砲台で、まず海上に第一台場から第三台場が完成、その後に第五台場と第六台場が完成した[2]。第七台場は未完成、第八台場以降は未着手で終わった[2]。第四台場は7割ほど完成していたが工事は一旦中断され、7年後に工事が再開されて完成した[2]。第四台場は後日、造船所の敷地となった。また第四台場の代わりに品川の御殿山のふもとに御殿山下台場が建設され、結局、合計8つの台場が建設された。[要出典]現在は台場公園として開放されている第三台場と、他の埠頭などとつながっていない第六台場が残されている。

完成した台場の防衛は江戸湾の海防を担当していた譜代大名の川越藩(第一台場)、会津藩(第二台場)、忍藩(第三台場)の3藩が担った。

この砲台は十字砲火に対応しており、敵船を正面から砲撃するだけではなく、側面からも攻撃を加えることで敵船の損傷を激しくすることを狙ったものである。2度目の黒船来襲に対し、幕府はこの品川台場建設を急がせ、佐賀藩で作らせた洋式砲を据えたが、結局この砲台は一度も火を噴くことなく開国することとなった。

 第三台場 台場公園の一部明治時代 1875年(明治8年):海上の7つの台場が陸軍省の所管となる。明治中期には東京湾要塞の建設が始まったこともあって台場の重要性が減り、以後徐々に払い下げられることとなる。 1878年(明治11年):芝区の成立に伴い、海上の7つの台場(第一 - 第七台場)は芝区に所属し、それぞれ東京府芝区大字品川沖1 - 7番地となる。大正の初めまでに町名の品川沖は品海砲台に変更となる(詳しい時期は不明)。大正・昭和  第六台場 無人島1912年(大正元年):第四台場が民間人に払い下げられ、造船所となる。 1915年(大正4年):第三台場・第六台場が東京市に払い下げられ、史跡公園として整備されることになる。 1917年(大正6年):第一台場が民間人に払い下げられる。 1928年(昭和3年):第三台場が東京市により整備され、台場公園として市民に開放される。 1934年(昭和9年):第二台場・第五台場が東京市に払い下げられる。 1939年(昭和14年):第四台場が新しく完成した埋立地(品川区天王洲町・現在の品川区東品川)に埋没して消滅する。 1941年(昭和16年):東京港が開港する。 1947年(昭和22年)3月15日:芝区・麻布区・赤坂区が合併して港区が成立し、台場地区は東京都港区芝品海砲台となる。 1955年(昭和30年):品川区と地続きになっていた旧第四台場の土地が、港区より品川区に割譲される。 1957年(昭和32年):8つの台場のうち唯一陸上に造られた御殿山下台場が撤去され、跡地に品川区立台場小学校が開校する。 1961年(昭和36年):東京港の開港に伴い船舶が増加したため、航路を塞ぐ形で浮かぶ第二台場が撤去される。 1962年(昭和37年):第五台場が新しく完成した埋立地(港区品川埠頭・現在の港区港南)に埋没して消滅する。 1963年(昭和38年):第一台場が新しく完成した埋立地(港区品川埠頭・現在の港区港南)に埋没して消滅する。 1965年(昭和40年):第七台場が撤去される。これにより、現存する第三台場と第六台場以外のすべての台場が消滅する。なお、第七台場は最初から未完成のまま海面下に水没した状態で残されていた。 1965年(昭和40年)3月1日:台場地区に住居表示が実施され、港区芝品海砲台(第三・第六台場)が町名変更により港南五丁目となる。 1974年(昭和49年)6月:品川区東八潮に船の科学館が開館する。お台場で最初の大規模建築物である。 1989年撮影の13号埋立地。船の科学館以外は空き地が広がる。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 1976年(昭和51年)8月12日:首都高速湾岸線の大井 - 13号地(当時)間の開通により、東京港トンネルが供用開始される。 1978年(昭和53年)7月16日 - 1979年(昭和54年)1月15日:船の科学館周辺で宇宙科学博覧会の第一期が開催される。 1979年(昭和54年)3月24日 - 9月2日:宇宙科学博覧会の第二期が開催される。 1979年(昭和54年):東京港の海底を掘削した際の残土により埋立が進められ、13号埋立地が完成する。そのうち北部は幕府が築いた台場にちなんで、お台場と呼ばれた。完成当時、13号埋立地はいずれの区にも属していなかったが、北部は港区、西部は品川区、南部は江東区にそれぞれ帰属した。平成

東京都は、都心の混雑を緩和するため、東京臨海副都心として臨海部の開発を進めた[注釈 3]。レインボーブリッジの建設や世界都市博覧会の開催予定により、企業進出が誘致された。

1995年(平成7年):世界都市博覧会の中止が決定される。これによって企業の進出や移転のキャンセルが相次ぎ、13号地は空き地だらけとなったため、発展に暗雲が垂れ込めた。また、東京テレポートセンター、東京臨海副都心建設、竹芝地域開発など、この地域を中心に事業を行っていた第三セクターは大幅な赤字となり、事実上破綻した。11月1日、ゆりかもめの新橋駅 - 有明駅間が開業。 1996年(平成8年):臨海副都心開発により新たに港区台場が13号地北部に成立する。これに伴い、第三台場・第六台場が港区港南五丁目から港区台場一丁目に変更される。 1997年(平成9年):フジテレビの本社が新宿区河田町からFCGビルに移転、同局のテレビドラマ『踊る大捜査線』の舞台になったり、FCGビルが観光地となるなど、お台場の知名度が上がった[4]。2002年のりんかい線の全線開通もあって、オフィスや商業施設のみならず居住施設やランドマークも続々と誕生した。さらに東京都知事の石原慎太郎がカジノ構想を提唱したため、注目度は一層高まった。 2007年(平成19年):首都高速湾岸線の13号地出入口が臨海副都心出入口に改称される。 2007年(平成19年):乃村工藝社本社ビルと台場ガーデンシティビルの竣工をもって港区台場の開発が完了する。 2013年(平成25年):青海・台場クロスウォークの供用開始。 2017年(平成29年):続日本100名城(124番)に「品川台場」として選定された[5]。^ すみだゆかりの人々 1985, p. 45. ^ a b c d e 石崎正和「文献から見た品川台場」『土木史研究』第12巻、土木学会、1992年、403-408頁、doi:10.2208/journalhs1990.12.403。  ^ “日本財団図書館のサイト内の『台場(だいば)の歴史-台場の建設から消滅まで』”. 2013年3月13日閲覧。 ^ 第11回「フジテレビ物語(後編)」 ^ 「『続日本100名城』を10年ぶりに選定、今回は古代の城柵や世界遺産も…」産経新聞、2017年4月6日


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