渋谷スクランブル交差点

渋谷スクランブル交差点(しぶやスクランブルこうさてん、英: Shibuya Crossing)は、東京都渋谷区の東日本旅客鉄道(JR東日本)渋谷駅の北西側にあるスクランブル交差点。正式名称は渋谷駅前交差点で、「渋谷駅前のスクランブル交差点」などの表記もある。

東京都内屈指の繁華街であり流行の発信地でもある渋谷で最も人が多く行き交う場所で、日本の都市風景を象徴する存在として「世界で最も有名な交差点」ともいわれている。また、1回の歩行青信号で1000人以上が行き交うため「世界で最も混雑している交差点」ともいわれる。日本における流行の発信地であるとともに、外国人観光客に人気のスポットでもある。

この交差点を東西に走る道は、古くは大山街道、大山道中、さらに古くは矢倉沢往還と呼ばれ、西は秦野、小田原を経て東海道に合していた[1]。江戸時代におけるいわば東海道の主要なバイパスの一つであるが、馬が牽く荷車がようやくすれ違える程度の道幅しかなく、秦野の葉タバコ、多摩川の鮎を江戸市中に運ぶなど、産業道路として機能していた[1]。明治初年においても、江戸から改称された東京市の市街地は、渋谷東方の青山かせいぜい宮益町のあたりまでに留まっていた[2]。

鉄道開通から空襲まで

1885年(明治18年)3月、東海道線と東北線を接続する品川駅-赤羽駅間の品川線開通と共に、渋谷駅がひっそりと開業したが[3]、当時の駅舎は現在の位置より200メートルほど南に置かれ[4]、一帯は渋谷川に沿って南北に開けた農村集落に過ぎなかった[5]。しかし日清・日露戦争を経験した明治半ば以降になると、手狭になった東京都心から郊外への陸軍兵営の移転や、郊外での兵営の新設が相次ぐようになり、目黒や駒場の大山街道沿いには騎兵実施学校、近衛輜重兵営、騎兵第一連隊兵営、陸軍獣医学校などが、さらに先の世田谷には陸軍第二衛戍病院、野戦砲兵第一旅団司令部、近衛野戦砲兵営、野戦砲兵第十三、十四、十五連隊兵営などが続々と設置されるようになった[6]。そしてそれらの兵士たちが休日に繰り出す歓楽地として、また渋谷駅があり地方からの便がよいことから入営・除隊の送迎に集う場として、この交差点を含め道玄坂から宮益坂にかけての一帯は東京西郊の盛り場に発展し始めた[6][7]。1907年に玉電がそれらの兵営をつなぐようにして渋谷まで開業したことも、そうした渋谷の賑わいを後押しした[6]。

 駅周辺の地図(1921年)

1921年(大正10年)、山手線の旅客輸送力増強を目的とする旅客線と貨物線の分離工事および宮益坂下の踏切の高架化工事に伴ない[8]、渋谷駅はほぼ現在の位置に造られた新駅舎へ移動し、この交差点は初めて渋谷駅と相対して行き来できるようになった[9]。さらに高架化によって大山街道の往来が自由になったため、それまで宮益坂下を終点としていた東京市電は1922年に山手線のガードをくぐるように延長され、渋谷駅西口正面(現在のハチ公前広場)が新しい終点になった[9]。これにより渋谷駅近傍から青山・都心方面への便が格段に向上し[9]、国電と市電の乗り継ぎ場として多くの人が行き交うようになったガード下周辺には飲食店が立ち並んだ[4]。

… しかし(市電の)開通一年後になって、駅付近の人通りが多くなったこと、通行人の構成が変って来たことが子供にも意識されるようになる。国電と市電から吐き出される人数が、いちどに街頭に溢れるということは、これまで渋谷のどこにもなかった。 … — 大岡昇平、『少年』[4]
 駅周辺の地図(1945年)

かくして渋谷駅前からこの交差点を経て宇田川町、「渋谷の浅草」と呼ばれた百軒店[10]を擁する道玄坂にかけての一帯は明治末から昭和にかけて渋谷の発展をリードし、旧態依然な家屋の密集地帯になっていた[11]。しかし太平洋戦争末期には建物の強制疎開と空襲によって、鉄筋コンクリートだった一部の建物を除き、それらはほぼ一面が瓦礫と化した[11]。

戦後  闇市が立ち並んだ1945年に渋谷駅前から写した道玄坂方面

1945年8月に終戦を迎えると、ターミナル駅として人が集まる渋谷駅周辺はたちまち闇市で埋め尽くされ[12][13]、特に台湾人グループが第三国人としての特権的立場を利用して勢力を伸ばした[14]。彼らは「駅前マーケット」と呼ばれた闇市を統制するのみならず、駅前ロータリーからこの交差点を経て渋谷消防署に至る一帯を「中国租界」にしようと画策したが、警察および新橋の松田組と武力衝突し、1946年7月の渋谷事件によって摘発され、台湾人の駅前マーケットは姿を消した[14]。

その後、公道上の露店は GHQ の指示により交通保安、防火活動、衛生管理、都市美観保持を理由として1949年から整理が行なわれることになり[15]、それらの露店は代替地や厚生資金を斡旋することでマーケット化を図るものとして[16]、飲食系の露店は「屋台飲食店街」(のんべい横丁)へ、物品販売系の露店は「渋谷地下街」(しぶちか)を建設し移転すると決まり、渋谷の露店整理事業が進められた[17]。都内の常時露店は1951年末までに全て撤去されたが[16]、渋谷の露店は特例的に西口広場での営業認可を受けるなどして存続し[18]、最終的に、1957年12月11日に開業した「しぶちか」へ移転した[19]。「しぶちか」は日本最初の本格的な大型地下商店街[20]として多くの客を惹きつけた[21]。

 1952年の駅前交差点

終戦後に建てられたバラックが撤去された後、一帯は区画整理が行なわれた[11]。戦災復興が進むにつれ駅周辺の交通渋滞は深刻化し、特に駅前広場の拡張と、宮益坂からのこの交差点を経て道玄坂に至る区間の道路拡幅がなかなかままならなかったが、1956年3月末までにはビルの取り壊しや家屋の移転により拡幅の見通しが立った[22]。他に当時の当交差点周辺には以下のような変化があった。

2代目ハチ公像完成除幕。当初は交差点の南西側に設置された(1948年8月) 交差点角地にあった山一証券ビルが曳家によって玉電ビル脇へ移設(1950年頃。その後1956年に解体)[11] ハチ公像のあった交差点南西に駐車スペースを開設し、ハチ公は交差点南東側(現在の「ハチ公前広場」)に移設(1950年頃) 交差点周辺にて「しぶちか」建設工事(1956年9月20日[23]〜) 現在のハチ公前広場にあった都電の終点を駅東口の都電ターミナルに移設(1957年3月)[24] 「しぶちか」完成(1957年12月)。広場のレイアウトも変更され、広場内に駐車スペースが新設された。ハチ公は再度移設。

1960年代半ばまでは交差点の周囲は2-3階建てのビルがほとんどだった[25]。

高度成長期の発展

1964年の東京オリンピックが近づくと、それを名目として広場のレイアウトは再度変更された。駐車スペースは7年たらずで廃止され、方形の噴水を備えた待ち合わせエリアが新たに整備された。

1960年代半ばになると、経済成長と交通網の整備が進んだことにより、都心の百貨店には他県近郊からの客層が大幅に増えるようになった[26]。もともと渋谷は谷あいの狭隘な地のため消費者を受け入れる商業地としての力が弱く[26]、沿線の若者は渋谷を素通りして新宿や銀座へ遊びに行ってしまうことが多かったが[27]、ここにきて渋谷にも百貨店進出の機運が高まった。まず最初に、丸井渋谷店が1967年2月に開業し、次いで渋谷を本拠とする東急が大向小学校跡地に東急百貨店本店を1967年11月に開業した[26]。そして、堤清二が1966年に社長へ就任してから拡大路線をとっていた西武が1968年4月19日に、この交差点のすぐ北100メートルの井之頭通り入口に西武百貨店を開業した[26]。西武百貨店は多くの媒体を駆使したコマーシャル展開を行ない[26]、それまでせいぜい盛り場の北限に過ぎなかったその一帯が[27]にわかに活況を呈し始めた。西武百貨店が開業したことで地下街入口の通行量は3-5割増加し、開業1か月前には峰岸ビル前(現在の QFRONT 前)の人通りは平日22,000人、休日21,000人だったが、開業1か月後にはそれぞれ74,000人、125,000人に激増した[28]。1973年、さらに北にオープンした渋谷パルコも爆発的人気を呼んで[29]周辺を活性化させ[27]、センター街にも若者が集まるようになり[27]、急増する通行人に対応するため1973年にこの交差点はスクランブル化された[30]。この頃から「流行の発信地」という渋谷のブランドイメージが確立するようになった[29]。

現代  1992年の交差点(正面が峰岸ビル)

1989年、平成時代の始まりとほぼ前後して、広場レイアウトには再度の変更が行われた。これにより噴水は廃止され、ハチ公像は広場西寄りで東を向いて駅舎に対面する現在の形となった。

1998年の意識調査によると当時、渋谷の象徴と見做されていたのは専ら渋谷109、ハチ公、センター街であり、この交差点の認知度は高いとは言えなかったが[31]、21世紀に入りサッカーW杯やハロウィンでこの交差点に集う群衆がマスメディアやSNSで度々取り上げられ、この交差点は渋谷のシンボルとして内外に広く知られるようになった。

2027年完成を目指し進められている渋谷駅周辺の再開発の一環として、現在のハチ公前広場は西口駅前広場として2027年までに拡張される予定である[32]。

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