のコンテキスト バスク地方

歴史的な領域としてのバスク地方(バスクちほう、バスク語:Euskal Herria)は、バスク人とバスク語の歴史的な故国を指す概念である。ピレネー山脈の両麓に位置してビスケー湾に面し、フランスとスペインの両国にまたがっている。

スペイン側にはバスク州の3県とナバーラ州の計4領域があり、フランス側にはフランス領バスクの3領域がある。バスク・ナショナリズム運動の中で「サスピアク・バット」(7つは1つ)というスローガンが掲げられ、7領域からなるバスク地方の地理的範囲が示された。バスク地方全体の旗としてイクリニャ(バスク国旗)が、バスク地方のシンボルとしてラウブル(バスク十字)がある。

詳細について バスク地方

基本情報
  • 母国語表記 Euskal Herria
Population, Area & Driving side
  • 人口 3193513
  • 領域 20870
履歴
  • 先史時代  フランコ・カンタブリア美術の洞窟絵画の分布。

    バスク地方で前期旧石器時代の痕跡は見られず、バスク地方に人類が居住し始めたのは約15万年前の中期旧石器時代であるとされる[1]。ネアンデルタール人は温暖な時代には河川に近い屋外の段丘面に住み、寒冷な時代になると奥行きのある洞窟に住んで寒さから身を守っていた[1]。イステュリッツ洞窟、オーシュリュック遺跡(以上がフランス領バスク)などで硬石製の道具が発掘されており、イステュリッツ洞窟ではムスティエ文化期(300,000年前 - 30,000年前)のネアンデルタール人の下顎が発掘されている[2]。

    後期旧石器時代、オーリニャック文化期(32,000年前 - 26,000年前)の遺跡としてはサール遺跡(ラブール)、イステュリッツ洞窟、サンティマミニェ洞窟(ビスカヤ県)などがあり、ソリュートレ文化期(21,000年前 - 17,000年前)の遺跡としてはオーシュリュック遺跡、ボリンコバ遺跡(ビスカヤ県)、エルミティア遺跡(ギプスコア県)、イステュリッツ洞窟、サンティマミニェ洞窟などが、マドレーヌ文化期(18,000年前 - 11,000年前)の遺跡としてはサンティマミニェ洞窟、ボリンコバ遺跡、イステュリッツ洞窟、エルミティア遺跡、アイツビタルテ遺跡、ウルティアガ遺跡(ギプスコア県)、ルメンチャ遺跡(ビスカヤ県)などの遺跡がある[2]。

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    先史時代  フランコ・カンタブリア美術の洞窟絵画の分布。

    バスク地方で前期旧石器時代の痕跡は見られず、バスク地方に人類が居住し始めたのは約15万年前の中期旧石器時代であるとされる[1]。ネアンデルタール人は温暖な時代には河川に近い屋外の段丘面に住み、寒冷な時代になると奥行きのある洞窟に住んで寒さから身を守っていた[1]。イステュリッツ洞窟、オーシュリュック遺跡(以上がフランス領バスク)などで硬石製の道具が発掘されており、イステュリッツ洞窟ではムスティエ文化期(300,000年前 - 30,000年前)のネアンデルタール人の下顎が発掘されている[2]。

    後期旧石器時代、オーリニャック文化期(32,000年前 - 26,000年前)の遺跡としてはサール遺跡(ラブール)、イステュリッツ洞窟、サンティマミニェ洞窟(ビスカヤ県)などがあり、ソリュートレ文化期(21,000年前 - 17,000年前)の遺跡としてはオーシュリュック遺跡、ボリンコバ遺跡(ビスカヤ県)、エルミティア遺跡(ギプスコア県)、イステュリッツ洞窟、サンティマミニェ洞窟などが、マドレーヌ文化期(18,000年前 - 11,000年前)の遺跡としてはサンティマミニェ洞窟、ボリンコバ遺跡、イステュリッツ洞窟、エルミティア遺跡、アイツビタルテ遺跡、ウルティアガ遺跡(ギプスコア県)、ルメンチャ遺跡(ビスカヤ県)などの遺跡がある[2]。

    イステュリッツ洞窟、アルケルディ遺跡(ナバーラ州)、アルチェリ洞窟、サンティマミニェ洞窟などの洞窟絵画はフランコ・カンタブリア美術に属し、他地域のアルタミラ洞窟(スペイン・カンタブリア州)やラスコー洞窟(フランス・ドルドーニュ県)と同時代である。ベンタ・ラペラ洞窟の洞窟壁画には抽象的な記号とともにバイソンやクマなどの動物が描かれ、サンティマミニェの壁画には雌鹿やバイソンなど大型の野生生物が描かれた[3]。イステュリッツ洞窟やサンティマミニェ洞窟などでは彫刻作品も発掘されている[2]。2008年、サンティマミニェ洞窟は世界遺産である「アルタミラ洞窟とスペイン北部の旧石器洞窟美術」に追加登録された[4]。

    先史時代の主な遺跡名称 地域名 時代 サンティマミニェ洞窟 ビスカヤ県 中期旧石器時代から青銅器時代まですべて。洞窟壁画を有する。 ボリンコバ遺跡(Bolinkoba) ビスカヤ県 後期旧石器時代(グラヴェット、ソリュートレ) エルミティア遺跡(Ermitia) ギプスコア県 後期旧石器時代(ソリュートレ、マドレーヌ) アイツビタルテ遺跡(Aitzbitarte) ギプスコア県 後期旧石器時代(オーリニャック、グラヴェット、ソリュートレ、マドレーヌ) パライレアイツ遺跡(Paraileaitz) ギプスコア県 後期旧石器時代(ソリュートレ、マドレーヌ)。洞窟壁画を有する。 イステュリッツ洞窟(Isturitz) バス=ナヴァール 中期旧石器時代、後期旧石器時代。洞窟壁画を有する。 アルチェリ洞窟(Altxerri) ギプスコア県 後期旧石器時代(マドレーヌ)。洞窟壁画を有する。

    中石器時代のアジール文化(英語版)期(10,500年前 - 9,000年前)には、上述の旧石器時代からの遺跡の大半やレセチキ遺跡、ベロベリア遺跡などで人間の頭蓋骨などが出土している[2]。新石器時代(紀元前3,500年 – 紀元前2,000年)の痕跡はサンティマミニェ洞窟、ルメンチャ遺跡、エルミティア遺跡、ウルティアガ遺跡、ベロベリア遺跡などにあり、貝塚などが出土している[2]。人類は洞窟ではなく平野に住居を建てはじめ、狩猟に加えて果実の収穫や野生動物の家畜化などを行いはじめた[5]。

    青銅器時代(紀元前1,200年 – 紀元前600年)に先駆けてドルメンなどの巨石記念物が登場し、東方と南方からやってきた民族によって埋葬の儀式とともに普及したとされる[2]。これらの巨石記念物は、山地や牧畜地帯に建立された古典的な羨道墳、アルタホナ遺跡(ナバーラ州)に見られる巨大な通廊墳、ロンカル遺跡に見られるカタルーニャ風の通廊墳の3つの潮流に分類される[2]。巨石記念物や高地に埋まっている建造物はバスク全土で400以上も記録されており、銅製や青銅製の遺物が出土している[6]。

    鉄器時代(紀元前600年以降)にはケルト人と推定される民族がバスク地方を横断し、製鉄、動物による車の牽引、優れた農耕法、新たな作物、牛馬の飼育などの技術をもたらした[2]。銅器時代までは断続的な居住地跡しか発見されていないが、鉄器時代には定住的になり、川べりの小高い丘を中心にした永住地跡が発見されている[7]。

    古代  古代のバスク系部族

    紀元前3世紀にはカルタゴ人がピレネー山脈の麓に達したが、征服や植民を行うことはなくバスク人との関係は良好であり、多くのバスク人がカルタゴ人の傭兵となった[8]。この頃のバスク人たちは長老会議や戦士団を持ち、女性は農業を、男性は狩猟や略奪を行った。何らかの言語を話していたが、その言語を文字にすることはなかった[9]。

    紀元前133年のヌマンティア(英語版)の攻囲戦でローマ人がケルト人を破ると、紀元前75年にはポンペイウスが自身の名に因んだ都市ポンパエロ(現パンプローナ)を建設し[10]、ピレネー山脈に向かう際の強力な防衛地点として使用した[11]。ポンパエロには神殿、公共浴場、邸宅などが築かれてローマ的な都市となり、バスク地方南部ではオリーブや小麦やブドウなどローマ的な農作物が生産されるようになった[11][12]。土地がやせている北部では鉱山や避難港などがローマ人に利用された[12]。この頃のバスク人はいくつかの部族にわかれて広い領域に分布しており、カエサルはポンペイウスの軍隊を解散させて近ヒスパニア[注 1] 全域の統治を確立した[10]。

    紀元前1世紀にはバスク地方にもローマ人が到着したが[9]、アウグストゥスはバスク人が住むピレネー山脈の山岳民やアクイタニアを平定させることができず[10]、これらの地域はローマ法、ラテン語、キリスト教などのローマの影響をほとんど受けなかった[11]。ローマ人とバスク人は協力関係にあったとされ、イタリアのブレシアには「すべてのバスク民族はローマと友好関係を保ち、直ちに兵士としてローマ軍に加わった」と刻まれた1世紀の石碑が残っている[12]。ローマ人はバスク人をヴァスコニア(Vasconia)と呼んでおり、バスク人は自らのことをエウスカルドゥナク(バスク語を話す人々)と呼んでいた[12]。ヴァスコニアは現在のバスクという統一的な名称の創始であり、またガスコーニュという地名の語源にもなっている。

    3世紀末にはバスク地方南部の都市にキリスト教が伝播されたが、ローマ時代にはキリスト教は浸透せず、太陽・月・天などケルト文化の影響を受けた自然崇拝が主流だった[13]。

    中世 中世前期

    5世紀には西ゴート族がバスク地方に侵入し、バスク地方にいた種族は連合して異民族に抵抗した[14]。

    714年にはウマイヤ朝のイスラーム勢力がバスク地方に侵入し、718年にはパンプローナが征服されたが、732年にはフランク王国の宮宰カール・マルテルがトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラーム勢力を撃退し、イスラーム勢力はイベリア半島南部に戻った[15]。11世紀までは断続的にバスク人とイスラーム勢力との間で諍いが起こったが、おおむね平和に共存した[15]。

    7世紀以降にはフランク族のメロヴィング朝の家臣によるヴァスコニア公爵領が存在し、西ゴート族、イスラーム勢力、フランク王国に対してピレネー山脈の両側のバスク人は連合した[16]。778年のロンセスバーリェスの戦いではカール大帝軍に勝利したが、この戦いは叙事詩『ローランの歌』のモデルとなった[17][18]。ヴァスコニアは西ヨーロッパの人々によって野蛮性が強調され[19]、「破壊者」「浮浪者」「略奪者」などと呼ばれた[20]。

    バスク人は基本的に山岳地帯の散村で生活していたことから、広い領域との関わりを持たず、バスク人全体を統一する権力者は長らく登場しなかった[21]。

    北バスク

    封建時代初期の北バスクは3つの独立した組織体で構成されていた[22]。東部(現スール)はガスコーニュ公爵とビゴール伯爵の支配下にスール子爵領があったが、1078年にベアルン子爵の支配下にはいった[22]。中央部(現バス=ナヴァール)は11世紀初頭になってアルベルー、オスタバレ、オッセス、シーズ、ミクス、バイゴリの封地が確立したが、13世紀にはナバーラ王国の一地域としてウルトラ・プエルトス代官区を構成した[22]。西部(現ラブール)は11世紀初頭にナバーラ王国のサンチョ3世に質権が渡されていたが、1033年にはガスコーニュ公爵の庇護化に入った[22]。この3地域のいずれも自由地として自治権を有しており、農奴制の範囲外だった[22]。1155年にはイギリスのプランタジネット朝のヘンリー2世がアキテーヌ公爵を兼ねるようになったが、ラブールとスールの諸権利が譲渡されたことをバスク地方の貴族は好まずに敵対し、12世紀末にリチャード1世(獅子心王)がバイヨンヌを攻囲して占領する結果となった[22]。1204年にはカスティーリャ王アルフォンソ8世がラブールとスールに進攻してバイヨンヌを焼き払った。14世紀初頭にはスールでフランス人の子爵がイギリスに反旗を翻したが、子爵に占領された領土はナバーラ王経由でイギリスに返還された[22]。

    南バスク  1030年頃のイベリア半島。ナバーラ王国(濃橙)の最大版図。

    824年、イニゴ・アリスタらがフランク王国のルイ1世(敬虔王)に勝利したことでパンプローナ王朝(後のナバーラ王国)が誕生し、その息子のガルシア・イニゲスはアストゥリアス王国との戦いの後に和平を結んだ[23]。イニゴ家の起源については定かでないが、ピレネー山脈北部から出てナバーラのサラサール谷に定住していた可能性がある[23]。イニゴ・アリスタ朝は3代続き、905年にはヒメノ家のサンチョ・ガルセス1世がパンプローナ王となってヒメノ朝が開始された[24]。922年にはアラゴン伯領を保護領とし、924年には後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世によってパンプローナが略奪・焼き討ちに遭うが、937年にはアストゥリアス・レオン王国と同盟を結び、939年にはシマンカスの戦いに勝利してイスラーム勢力を撃退した[25]。フランク王国のカール大帝によって自然崇拝が禁じられていたが、パンプローナに修道院や司教区が設置されるようになったのは9世紀になってからであり、11世紀になってようやくビスカヤやギプスコアにも修道院が急増した[26]。

    1004年に即位したサンチョ3世(大王)はバスクの諸地域を次々と従えた[27]。ラブールとバス=ナヴァールの質権を受け取り、婚姻によってビスカヤとアラバを併合し、スールも間接的にナバーラ王国に従属していた[27]。サンチョ3世の死後、正嫡の長男が王国を相続すると言う当時のイベリア半島の慣習[28] に反して、ナバーラ王国はサンチョ3世の遺言どおりにアラゴン、ナバーラ、カスティーリャ、ソブラルベ(英語版)リバゴルサ(英語版)に分割されて4人の息子たちに与えられたが、兄弟は敵対して領地争いが起こった[29]。ナバーラ王国は1076年にはアラゴン王国の一地方となったが、ガルシア6世(復興王)が王位に就いた1134年にはアラゴン王国から独立して再び主権を建てた[29]。1212年にはサンチョ7世(不屈王)がキリスト教連合軍の一員としてラス・ナバス・デ・トロサの戦いに参加し、レコンキスタにおける重要な役割を果たしたが[30][31]、1234年に死去したサンチョ7世には正当後継者がいなかったため、シャンパーニュ家のテオバルド1世がナバーラ王となり、フランス王朝が始まった[32]。11世紀以後にはナバーラ王国内部をサンティアゴの巡礼路が通るようになり、いくつかの都市が巡礼路沿いに建設された[33]。巡礼路はバスク地方のキリスト教化に貢献し、15世紀末にはバイオナ司教区、オロロン司教区、ダックス司教区、イルニャ司教区、ガステイス司教区の5司教区がバスク地方を所轄していた[33]。

    バスクの他地方を見ると、9世紀にはアラバとビスカヤの名称が、11世紀にはギプスコアの名称が初めて文献に登場した。アラバはナバーラ王国内の領主領や伯爵領として9世紀中頃から独立を保ったが[34]、1076年にアラゴン=ナバーラ連合王国に吸収され、1200年にはアルフォンソ8世によってカスティーリャ王国に併合された[27][35]。ギプスコアはいったんカスティーリャ王国の支配下にはいったが1076年に分離独立し、1180年にはサン・セバスティアンがナバーラ王国のサンチョ6世からフエロを得ていたものの、1200年に再びカスティーリャ王国のアルフォンソ8世によって併合された[27][35]。ビトリア=ガステイスやサン・セバスティアンだけでなく、1330年代前半にはアラバとギプスコアのほぼ全領域がカスティーリャ王国に飲み込まれている[33]。ビスカヤは11世紀半ばからナバーラ王国のビスカヤ領主による封建体制が続き、1379年にカスティーリャ王国に併合された[35]。カスティーリャ王国はトレビニョ(英語版)を除いたアラバ、ビスカヤ、ギプスコアにフエロ(特権)を認め、バスク3地方は政治的独立、国税免除、兵役免除などの権利を得た[35]。カスティーリャ王はビスカヤ領主に就任するとゲルニカに出向き、ゲルニカのオークの木の前でフエロの遵守を宣誓する義務を負っていた[33]。1483年にカスティーリャ女王イサベル1世がゲルニカの木の下で宣誓を行ってから、1839年まではこの宣誓なしにはビスカヤ領主として認められなかった[36]。1181年にサン・セバスティアンが建設されたのを発端として、オンダリビア、ゲタリア、サラウツ、ベルメオなどの港湾都市が誕生し、1300年には14世紀後半以後にバスク地方の中核都市となるビルバオが建設された[33]。

    近世  オニャティ大学があった建物。

    1512年にはカスティーリャ王フェルナンド5世の軍隊がナバーラ王国に侵攻し、首都パンプローナをはじめとするピレネー以南のナバーラ王国領を占領して併合した[33]。ナバーラ王国はカスティーリャ王国の副王領となったが、立法・行政・司法の各機構はナバーラ王国に残された[30]。ピレネー以北のバス=ナヴァールはナバーラ王国から分離し、フランス王国と連合するなどして1620年まで政治的独立を保ち[33]、1620年にフランス王国に編入されて州となった。少なくとも16世紀初頭には、バスク人が北米大陸のニューファンドランド島沿岸まで航海して捕鯨や遠洋漁業を行っていたことが判明している[37]。バスク人はスペイン帝国の植民活動で重用され、航海中に死去したフェルディナンド・マゼランの後を継いで史上初めて世界一周を達成したフアン・セバスティアン・エルカーノはバスク人であったし[注 2]、メキシコのサカテカス銀山やボリビアのポトシ銀山を主に開発したのもバスク人だった[38]。多くのバスク人聖職者が新世界で布教活動を行っており、イエズス会の創始者であるイグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルもやはりバスク人だった[38]。1545年にはボルドーで司祭のベルナト・エチェパレがバスク語最古の出版物である『バスク初文集』を刊行し[38][39]、同年にはバスク地方初の大学としてオニャティ大学が創設された[38]。1545年以後のトリエント公会議は土着の言語での布教を推奨しており、1571年にはラ・ロシェルでヨハネス・レイサラガが新約聖書のバスク語訳を刊行した[38][40]。バスク地方には王立造船所があり、この造船所で建造された船がカスティーリャ王に献上された[41]。ビルバオはカスティーリャ王国の羊毛の積み出し港であり、16世紀前半にはビルバオに海事領事所が設置された[41]。

    17世紀にはカスティーリャ王国の衰退が顕著になったが、特にビルバオでは造船業や海運業が繁栄し、ビスカヤとギプスコアではヨーロッパに輸出する武器製造業が発展した[42]。1659年に結ばれたフランス・スペイン戦争の終戦条約であるピレネー条約では、スペインとフランスとの国境がほぼ確定し、バスク地方は北バスクと南バスクに完全に分断された[38]。18世紀初頭のスペイン継承戦争後にはスペイン各地でフエロが撤廃されたが、ブルボン家に味方したバスク地方ではフエロの存続が認められ、特にアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3領域は一体性を喚起する枠組みが与えられた[38]。1728年には王立カラカス・ギプスコア会社が設立され、金・銀・タバコ・皮革・カカオなどを取引する新大陸貿易で大きな利益を得た[42]。18世紀後半のバスク地方では農業と牧畜業の均衡が崩れ、伝統的な製鉄業は産業革命を経たイギリスに後れを取って競争力を失ったが[38]、それまでに経済活動で蓄積していた資本が経済復興に役立った[42]。1765年には科学・技術・芸術を通じて経済振興を目指すバスク地方友の会が創設され、「イルラク・バット」(3つは1つ)をスローガンに3領域の一体性を主張した[38]。

    近代 フランス領バスク  高級保養地となったビアリッツ

    1789年に開催された三部会において、ラブールとスールから参加した代議員は地方特権廃止に票を投じ、北バスクが享受してきた自由や特権は廃止された[43]。北バスクはフランスという集合体への融合を受け入れ、バス=ピレネー県(現ピレネー=アトランティック県)に統合された[43]。バスク県は存在しなかったが、バス=ピレネー県のユスタリッツ郡、サン=パレ郡、モーレオン郡がそれぞれラブール、バス=ナヴァール、スールの3地方をほぼそのまま継承した[43]。いくつかの地名が新体制風となり、例えばサン=ジャン=ピエ=ド=ポルはニヴ=フランシュに、サン=ジャン=ド=リュズはショーヴァン=ドラゴンに改名された。18世紀末にはピレネー山脈を挟んでフランスとスペインが衝突し、1794年にはフランス軍がナバーラ県北部とギプスコア県を占拠し、1795年にはアラバ県とビスカヤ県を占拠した[44]。1807年にはナポレオン・ボナパルトとカルロス4世がフランス領バスクで対決し、半島戦争(スペイン独立戦争)中の1813年から1814年にはウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー軍とナポレオン軍の対決の舞台となった[44]。19世紀前半以降、フランス領バスクではビアリッツの海岸やカンボ=レ=バン鉱泉などのリゾート化が進行し、フランス有数の避暑地・保養地として発展した[45]。外部資本によるサービス産業が基幹産業となり、海岸部には非バスク語話者が流入した[45]。ナポレオン3世は王妃ウジェニー・ド・モンティジョのためにビアリッツに離宮を建設し、この離宮は現在では高級ホテルとして使用されている。

    スペイン・バスク  バスク・ナショナリズムの存在を示すペインティング。 バスク自治政府初代レンダカリのアギーレ。

    19世紀のスペインでは国民国家形成が進められ、中央集権化と均一化が図られるとともに自由主義的な改革が試みられた。同じ王国内にありながら法域が異なって関税がかかる状況を改めることは、バスク側にとっては中世以来のさまざまな協定や慣習によって守られてきた権利や独自性を脅かすものにほかならなかった。1833年には社会制度や経済構造の維持を唱えるカルロス5世と、自由主義を標榜するイサベル2世との間での王位継承問題を発端とする第一次カルリスタ戦争が勃発し[46]、フエロの維持を求めるスペイン・バスクは旧体制を支持して自由主義勢力と戦ったが、1839年に敗北が決定してスペイン・バスクのフエロは縮小された[47]。1841年にはナバーラ県のフエロが撤廃されて数百の町がスペインに統合され、ナバーラのスペイン化が完了した[48]。その後第二次カルリスタ戦争を挟んで第三次カルリスタ戦争が起こり、1876年7月21日法でバスク地方のフエロは実質的に撤廃された[47][49]。バスク地方はスペイン国家の中の一地域に位置付けられ、納税や兵役の義務が課せられた[47]。関税境界はバスクとスペインの境界からスペイン・フランス国境に移動し、スペイン・バスクとフランス領バスクを分断した。このため、パンプローナとバイヨンヌを結ぶ歴史ある街道は分断され、バスク内陸部を潤していた旨みのある密輸商売は消滅したが、バスク沿岸部は比較的恵まれていた。また、工業発展を遂げた19世紀末のバスク地方には他地域から労働者が多数流入し、1900年時点ではビスカヤ県、ギプスコア県、アラバ県のバスク3県における人口の6割が他地域出身者となった[50]。バスク地方では非バスク語化が進行し、バスク人の伝統的価値観や規範が脅かされた[51][52]。

    「バスク民族主義の父」と呼ばれる[53]サビノ・アラナはバルセロナ大学で学ぶうちにカタルーニャ・ナショナリズムに共感し、ビスカヤ地方の精神的独立の復活を訴えて政治活動を開始した[54][55]。アラナは「血族、言語(バスク語)、統治と法(フエロ)、気質と習慣、歴史的人格」の5つをバスク民族の独自性を定義づける要素に挙げ、特に血の純潔によってバスク人はスペイン人に優越するとした[55]。1895年にはバスク民族主義党(PNV)が設立され[56]、アラナの主張は近代的工業化から除外された中小ブルジョワ層に受容された[57]。アラナは分離主義者ではなく地域主義者であると主張し、名称(エウスカディ)と旗(イクリニャ)を持つ、7地域[注 3] がひとつにまとまった国を提起した[58]。初期のバスク・ナショナリズムは反工業化を唱え[59]、第一次世界大戦後には近代化の余波が及び始めた農村部にも伝播していった[60]。初期のバスク・ナショナリズムはバスク地方の独立や分離を訴えたが、やがてスペイン国家内での地方自治の訴えに変化していった[61]。

    1931年には第二共和政が成立し、バスク民族主義党はカトリックを基調とし、バスク4県をほぼ独立した国家として扱うエステーリャ憲章(バスク自治憲章案)を採択して国会に提出したが、特にスペイン社会労働党(PSOE)による反対運動で廃案となった[62][63][64]。この一方で、1933年にはカトリックを基調としないバスク自治憲章案(修正版)がナバーラ県を除くバスク3県の住民投票によって承認され、バスクの歴史上初めてアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3県が法制的にまとめられた[65][66]。第二共和政下では各政治勢力の主張が交錯し、バスク民族主義党はアラバ県やナバーラ県の支持を取り付けることに失敗したことで、バスクの地方自治の実現が遅れたとされる[67]。1932年には「祖国の日」が制定され、バスク地方では例年復活祭と同時期にバスク国の復活が祝われている[68]。1936年には共和国議会でバスク自治憲章の公布が認められ、ホセ・アントニオ・アギーレをレンダカリ(政府首班)とするバスク自治政府が承認された[69]。バスク自治政府はバスク大学の設立に着手し、グアルディア・シビル(治安警察)やグアルディア・アサルト(治安突撃隊)を解体してバスク警察を設立し、バスク軍を再編した[70]。1930年代後半のスペイン内戦では、ビスカヤ県とギプスコア県のバスク民族主義党は共和国側に立ってフランシスコ・フランコの反乱軍と戦ったが、アラバ県とナバーラ県は反乱軍に味方した[69][71]。ナバーラ王国を継ぐナバーラ県はバスク地方の中心的存在だったが、ナバーラ県内の住民投票でもバスク3県への併合を拒否してバスク3県から分離された[66]。1937年4月にはバスクの自治の象徴であるゲルニカが、反乱軍と組んだドイツ軍によるゲルニカ爆撃を受け、1937年6月にはバスク軍最後の拠点であるビルバオが陥落した[72][73]。バスク自治政府は支配領域をすべて失い、政治的独立の試みが頓挫して亡命政府となった[72][73]。

    スペイン内戦では15万人以上のバスク人が難民となり、その後のフランコ政権下ではバスク語の使用禁止やイクリニャ(バスク国旗)の掲揚禁止などの政策が取られた[74][75][76]。1946年にはアギーレがニューヨークでバスク亡命政府を編成し、亡命政府のバスク民族主義党が主導したビスカヤ県での労働争議は功を奏したが、反共産主義の立場を取る西側勢力はフランコを容認するようになり、1960年のアギーレの死もあってバスク亡命政府は政治的影響力を低下させた[75]。1952年に地下組織として結成されたEKINは、バスク民族主義党青年部から分離したグループなどを加えて1959年にバスク祖国と自由(ETA)に発展し、バスク語の民族語としての擁立、バスク大学の創設などバスク民族の政治的自立や民主的諸権利の認知を訴えた[77]。発足当初のETAは民族文化復興運動団体の色彩が強かったが、やがて政治的独立を掲げる集団が主流派となり、1968年には武力闘争が開始されて世界的に知られるようになった[78]。それまでは穏健派のバスク民族主義党がバスク・ナショナリズム運動を独占していたが、ETAの登場で状況が変わった[79]。1960年代末には全国的にフランコへの反体制運動が高まり、1970年代になるとバスク民族主義党が保守層の支持を背景に組織を拡大した[80]。

    現代 日本におけるバスクの認知

    1968年には梅棹忠夫らの京都大学ヨーロッパ学術調査隊がバスク地方に3-4カ月滞在して調査を行い、桑原武夫の編集による一般向け書籍がバスク人の生活を伝えた[81]。1983年に司馬遼太郎が書いた『街道をゆく 22 南蛮のみち1』などがバスク・ブームを喚起し[82]、1980年代にはバスクへの関心が飛躍的に高まったとされている[81]。司馬はフランシスコ・ザビエルの訪日を起点に南蛮文化のルーツを求め、カンドウ神父の功績やバスク語・バスクの風習などを紹介した[82]。1990年代になると日本人のバスクに対する関心が多様化し、バスク語や独立問題への関心より文化的関心(スポーツ・芸術・料理)に主流が移った[83]。1997年のビルバオ・グッゲンハイム美術館の開館によってバスクのイメージは完全に刷新され、多くの観光ガイドブックにビルバオが掲載されるようになった[84]。2006年には日本バスク友好会という任意団体が東京に設立され、2009年にはバスク州が公認する国外バスク系コミュニティが東京に設立された[83]。

    フランス領バスク

    フランス領バスクは19世紀から1980年代まで経済が低迷しており、若年層を中心に人口が都市部に流出した[45]。1945年には北部バスク地方自治憲章案が策定されて自治権を求める動きがあったが、バスク・ナショナリズムの発現度は南バスクに比べて低かった[45]。1980年代末までには左派祖国バスク主義運動(EMA)、バスク統一(EB)、バスク連帯(英語版)(EA)の3派の政治団体が存在していたが、各州選挙でのこれらバスク・ナショナリスト勢力の得票率は最大でも9%にとどまった[45]。バスク連帯はバスク県創設を求め、1981年のフランス大統領選挙ではバスク県設置とバスク語使用の擁護を公約に掲げたフランソワ・ミッテランが立候補したが、いざ就任するとバスク県設置の公約は反故にされた[45][44]。しかし、その後もフランス政府は地方分権化に積極的であり、1990年代後半以降には「ペイ」(pays=地方、地理的・文化的・経済的・社会的なまとまり)が法的に制度化され、1997年には地域整備政策上の行政区分単位として「バスク地方」が定義された[45]。1993年には左派祖国バスク主義運動とバスク統一が連携して祖国バスク主義者統一(英語版)(AB)となり、バスク・ナショナリスト勢力として初めて10%を超す得票率をあげた[45]。2007年には祖国バスク主義者統一やバスク連帯などのバスク・ナショナリスト勢力が結集し、EH Bai(バスク地方・Yes)として地方選挙で躍進した[45]。スペイン・バスクを本拠とするバスク民族主義党(PNV)はフランス領バスクにも拠点を置いているが、満足な結果は得られていない[45]。2013年にはフランス領バスクにおける地域振興事業が満了し、「バスク地方」という行政区分は消失した[45]。

    スペイン・バスク

    1975年にフランコが死去するとスペインでは民主化への移行(英語版)が開始され、1978年には国民投票が行われてスペイン1978年憲法(現行憲法)が制定された。憲法にはスペイン国家の不可分一体性が明記され、バスク人は民族を構成するには至らない民族体と位置付けられたが[85]、1979年にはスペイン国会でゲルニカ憲章(英語版)(バスク自治憲章)が承認された後に住民投票でも承認され、アラバ、ビスカヤ、ギプスコアの歴史的3領域の自治組織としてのバスク自治州が発足した[86]。憲法の規定でナバーラ県はバスク州への統合が可能とされたが、結局1982年に単独でナバーラ州に昇格した[86]。バスク人とナバーラ人の分離はスペイン政府の意図するところであり、バスク地方とスペイン国家の係争解決に向けた大きな障害となっている[43]。ETAは1968年の暴力活動開始以後に800人以上を殺害し、1990年代頃にバスク経済が一定程度回復するとテロリズムの克服がバスク地方最大の懸念事項となったが、2000年代後半以降には軍事的・政治的に弱体化したとされている[87]。2003年にはバスク民族主義党のフアン・ホセ・イバレチェがゲルニカ憲章改正案(イバレチェ・プラン(英語版))をスペイン国会に提出してバスク地方の自治拡大を狙ったが、スペインの不可分一体性を崩しかねないこのプランはスペイン下院に否決された[88]。

    ^ a b 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「michi3」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ a b c d e f g h アリエール(1992)、pp.21-24 ^ 大泉陽一(2007)、pp.2-7 ^ “Cueva de Santimamiñe”. Rutas Con Historia. 2014年11月11日閲覧。 ^ 大泉陽一(2007)、p.6 ^ バード(1995)、pp.11-16 ^ バード(1995)、pp.16-17 ^ バード(1995)、pp.19-20 ^ a b バード(1995)、pp.20-23 ^ a b c アリエール(1992)、pp.41-43 ^ a b c バード(1995)、pp.25-28 ^ a b c d 大泉陽一(2007)、p.9 ^ 大泉陽一(2007)、p.10 ^ バード(1995)、pp.28-31 ^ a b バード(1995)、pp.31-34 ^ バード(1995)、pp.34-36 ^ 渡部(1984)、p.31 ^ 大泉光一(1993)、p.23 ^ 渡部(1984)、p.32 ^ 大泉陽一(2007)、p.16 ^ 渡部(1984)、p.33 ^ a b c d e f g アリエール(1992)、pp.50-52 ^ a b バード(1995)、pp.42-45 ^ バード(1995)、pp.45-46 ^ アリエール(1992)、pp.45-46 ^ 大泉陽一(2007)、p.11 ^ a b c d アリエール(1992)、pp.46-50 ^ バード(1995)、pp.92-94 ^ a b バード(1995)、pp.64-68 ^ a b 渡部(1984)、p.36 ^ 大泉光一(1993)、p.25 ^ バード(1995)、pp.97-99 ^ a b c d e f g 萩尾ほか(2012)、pp.71-75 ^ バード(1995)、pp.46-48 ^ a b c d 関ほか(2008)、pp.340-343 ^ アギーレ(1989)、p.7 ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「hagio2428」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ a b c d e f g h i 萩尾ほか(2012)、pp.76-80 ^ 下宮(1979)、p.34 ^ 下宮(1979)、p.36 ^ a b 渡部(1984)、p.37 ^ a b c 渡部(1984)、p.38 ^ a b c d アリエール(1992)、p.65 ^ a b c アリエール(1992)、p.67 ^ a b c d e f g h i j k 萩尾ほか(2012)、pp.156-160 ^ 大泉光一(1993)、p.28 ^ a b c 立石ほか(2002)、p.151 ^ 大泉陽一(2007)、p.20 ^ アリエール(1992)、p.62 ^ 立石ほか(2002)、p.153 ^ 大泉光一(1993)、p.32 ^ 立石ほか(2002)、p.154 ^ 大泉陽一(2007)、p.23 ^ 大泉光一(1993)、p.37 ^ a b 立石ほか(2002)、pp.155-156 ^ 立石ほか(2002)、p.156 ^ 立石ほか(2002)、p.157 ^ ヴィラール(1993)、p.26 ^ 立石ほか(2002)、pp.158-159 ^ 立石ほか(2002)、pp.161-163 ^ 渡部(1984)、p.57 ^ 大泉光一(1993)、p.44 ^ 立石ほか(2002)、p.167 ^ 大泉陽一(2007)、p.28 ^ 大泉光一(1993)、p.45 ^ a b 大泉陽一(2007)、p.29 ^ 立石ほか(2002)、p.169 ^ アリエール(1992)、p.63 ^ a b アリエール(1992)、p.64 ^ 狩野(2003)、pp.54-55 ^ 狩野(2003)、p.26 ^ a b 大泉光一(1993)、p.51 ^ a b 立石ほか(2002)、p.170 ^ 大泉光一(1993)、p.52 ^ a b 立石ほか(2002)、p.171 ^ ビーヴァー(2011)、p.243 ^ 立石ほか(2002)、p.172 ^ 立石ほか(2002)、pp.174-176 ^ 立石博高 編『スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年、p.326 ^ 立石博高 編『スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年、p.332 ^ a b 萩尾ほか(2012)、p.5 ^ a b 渡部(2004)、pp.11-12 ^ a b 萩尾ほか(2012)、p.7 ^ 萩尾ほか(2012)、p.6 ^ 関ほか(2008)、pp.385-387 ^ a b 関ほか(2008)、pp.387-391 ^ “「バスク祖国と自由」(ETA)”. 公安調査庁. 2014年10月10日閲覧。 ^ 関ほか(2008)、pp.393-396


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