Iruñeko Sanferminak

( サン・フェルミン祭 )

サン・フェルミン祭(サン・フェルミンさい、スペイン語: Fiesta de San Fermín, バスク語 : Iruñeko Sanferminak)は、スペイン・ナバーラ州の州都パンプローナで7月に開催される祭礼。バレンシアの火祭り(3月中旬)、セビリアの春祭り(主に4月後半)と並び、スペイン3大祭りのひとつに数えられる。アーネスト・ヘミングウェイの小説『日はまた昇る』(1926年)で英語圏の人々に知られるようになり、世界的にもっとも有名なスペインの祭礼のひとつである。毎年約100万人の観光客を集める。

祭礼の起源は12世紀初頭に遡る。エンシエロ(牛追い)が有名で、牛追い祭りの別名で知られる。ただし、エンシエロはスペインで闘牛の前に広く行われていた催しで、特にナバーラ州には数多くの祭礼でエンシエロが実施されている。また、イベリア半島には牛が登場する守護聖人祭が多くみられ、これらはキリスト教の侵入以前に存在した雄牛信仰の残存または変容とされている。スペイン人はケルト・イベロ族の時代から雄牛に対する崇拝精神を持ち、闘牛には願掛け儀式的要素が加わった。有能な闘牛士には英雄としての名誉が与えられることも、勇敢さそのもののエンシエロにスペイン人が夢中になった要因のひとつである。

パンプローナの守護聖人である聖フェルミンを称える宗教儀式が起源である。毎年、聖フェルミンの記念日である7月7日をメインの日とし、7月6日の正午から7月14日の24時(15日の0時)までの9日間開催される。ただし7月6日は前夜祭的なスケジュールでエンシエロなどはないため、7月7日からと紹介されることもある。2008年には310万ユーロの予算で開催されたが、世界同時不況の影響により、2012年の予算は95.2万ユーロにまで減少した。

 聖フェルミン(左)と聖ザビエル聖フェルミン

フェルミン(英語版)(272年 - 303年)はパンプローナから選出された古代ローマ元老院議員の息子で、3世紀に聖サトゥルニヌス(英語版)[注釈 1]とその弟子の聖オネストゥス(英語版)によってキリスト教徒に改宗したとされている。伝承によれば、現在は「聖セルニンの小井戸」[注釈 2]として知られている場所で、フェルミンは聖サトゥルニヌスによって洗礼を受けた[1]。フェルミンはトゥールーズ(現フランス)で聖職者に叙任され、パンプローナに戻ると初の司教となった[2]。ナバーラ地方のキリスト教化に貢献したとされているが、後に行われた伝道目的の航海の途中、アミアン(現フランス)で斬首されてカトリック教会の殉教者となった[1][3]。

サン・フェルミン祭の参加者が首に赤いスカーフを巻くのは、斬首刑となったフェルミンの受難を思い出すためとされる[4]。フェルミンは303年9月25日に死去したと信じられており、遺骨は1196年にパンプローナに帰ってきた。12世紀にはパンプローナの守護聖人として崇拝されたという記録が残っており、聖フランシスコ・ザビエルが聖フェルミン同様にパンプローナの守護聖人となる以前から敬われてきた[5]。聖フェルミンと聖ザビエルはナバーラの守護聖人でもある[1]。なお、実際にはバスク地方にキリスト教がもたらされたのは伝承よりも遅いとされており、隅々まで広まったのは10世紀近くだったとされている[2]。[6]

起源  闘牛場外にあるヘミングウェイの石像

サン・フェルミン祭は中世に行われていたふたつの行事に起源をもっている[7]。長年にわたって、パンプローナでは夏の初めに商業見本市が開催されており、牛などを連れた家畜商人が訪れては、やがて祭礼の伝統の一部となる闘牛が行われた[7]。具体的には14世紀に闘牛が行われたという記録が残っている。

商業見本市のほかに、10月10日には町の守護聖人を称える宗教儀式が行われていた[7][5][注釈 3]。1591年には商業見本市と宗教儀式を同時に行うため、また気候の良い時期に変更したほうがよいという声が大きかったため、宗教儀式は7月7日に変更された[7][5]。ふたつの行事が合体したこの年がサン・フェルミン祭の始まりであると考えられている。中世のサン・フェルミン祭では、開会宣言、音楽イベント、スポーツ大会、劇場でのイベント、闘牛、ダンス、花火などが行われた[7]。13世紀のパンプローナは3体の巨大人形を所有し、17世紀までには6体の巨大人形が大聖堂に属していたことが知られている[8]。エンシエロは17世紀に現れ、18世紀には外国人が祭礼に参加したことや、祭礼中の過度の飲酒や自堕落なふるまいへの懸念が記録されている[7]。巨大人形のパレード[注釈 4]は19世紀半ばの終わりまでに行われるようになった[7]。1844年にはパンプローナ市初の闘牛場が建設された。

現代

現代の祭礼は世界的な名声を博し、毎年多くの外国人観光客を受け入れている。これにはジャーナリストでもあったアメリカ人作家アーネスト・ヘミングウェイの小説『日はまた昇る』(1926年)[注釈 5]の舞台となったことが深く関連している[9]。ヘミングウェイは1923年にパンプローナを初めて訪れると、サン・フェルミン祭のエンシエロに魅了され[5]、滞在中にはラ・ペルラ・ホテル[9]やイルニャ・カフェなどに足を運んでいる。彼は牛追いや闘牛に入れ込んだが、地元住民に交じって走ることはしなかった。ヘミングウェイは1959年までに何度もパンプローナを訪れており[9]、闘牛場の脇には死後の1968年に建てられた石像があるほか[10][5][11]、石像周辺はヘミングウェイ遊歩道と名付けられている。ヘミングウェイはパンプローナやスペインの他都市での闘牛観戦経験を基にし、1932年には闘牛の解説書である『午後の死』(Death in the Afternoon)を著している。現在の形式は1981年に始まったものであり、パンプローナ市長、市議会議員、巨大人形の製作責任者、若者集団、警察、赤十字、商工会議所、起業家団体、慈善事業団体などで構成される委員会によって運営されている[5]。


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^ a b c “History of... The saint”. ナバーラ州観光局. 2009年7月23日閲覧。 ^ a b 板倉 (2009)、p.156 ^ 浜本ほか (2003)、p.235 ^ 水谷 (2000)、p.46 ^ a b c d e f 水谷 (2000)、p.44 ^ San FerminArroba Spain ^ a b c d e f g “History of... The fiesta of San Fermín Saint San Fermin festival”. ナバーラ州観光局. 2009年7月29日閲覧。 ^ 水谷 (2000)、p.49 ^ a b c “History of... Ernest Hemingway-Saint San Fermin festival”. ナバーラ州観光局. 2009年7月29日閲覧。 ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「未知の国スペイン99」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ 谷口ほか (1998)、p.89
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