のコンテキスト カンタブリア州

カンタブリア州(カンタブリアしゅう、Cantabria)は、スペインを構成する自治州。かつてサンタンデール県と呼ばれたカンタブリア県のみで構成される。州都はサンタンデール。

東はバスク州、南はカスティーリャ・イ・レオン州、西はアストゥリアス州と接しており、北は大西洋のカンタブリア海に面している。

カンタブリア州はカンタブリア海とカンタブリア山脈に挟まれたエスパーニャ・ベルデ(緑のスペイン)に含まれている。緑と呼ばれる所以は、山脈にはね返される大西洋からの風で強く影響を受ける、湿潤な海洋性気候だからである。平均の降雨量は1,200mmで、これが豊富な植物の生長を可能にしている。

カンタブリアは、歴史的には定冠詞のついた大文字の「ラ・モンターニャ」(la Montaña)と呼ばれていた。

詳細について カンタブリア州

Population, Area & Driving side
  • 人口 584507
  • 領域 5321
履歴
  • ローマ帝国

    カンタブリアという名前に言及し初めて書かれたのは紀元前195年、歴史家大カトは自著の中で、カンタブリ族(ケルト系かバスク系とされる)の国にあるエブロ川の水源についてふれている。

    ... fluvium Hiberum; is oritur ex Cantabris; magnus atque pulcher, pisculentus.
    —Cato the Elder、Origenes: VII

    [1]

    その時以来、カンタブリ族がイベリア半島内外での多様な衝突において傭兵として用いられたので、CantabriまたはCantabriaと連続して言及された。シリウス・イタリクス(Book III)、ホラティウス(Book IV, Ode XIV)の記述から、彼らが第二次ポエニ戦争において、ローマと戦ったカルタゴ側に参加していたことは確かである。さらに、彼らはガイウス・ホスティリウス・マンシヌスによって行われたヌマンティア包囲中にも言及された。マンシヌスは都市の包囲で出世したと言われており、カンタブリ人とヴァッカエイ人(ヒスパニア北部にいたケルティベリア人の一つ)が彼の援軍の中にいたと知らされたことで、危機から逃れられたという。

     
    カンタブリア戦争時代のカンタブリア

    その後の期間の参照の大半は、紀元29年に始まった反ローマのカンタブリア戦争と関係している。およそ150の参照がギリシャ語とラテン語の文献の中で見つかっており、カンタブリ族の悪評を証明しているのである。彼らの領域は現在のカンタブリア州より著しく大きく、カンタブリア海が北の境界で(カンタブリア海の名はローマ人がビスケー湾を指すため用いた)、セッラ川谷の西端が西の境界であった(現在はアストゥリアス州に属す)。南はペーニャ・アマヤの丘砦(現在のブルゴス県)ほど遠くまで伸び、東はアグエラ川に近接するカストロ・ウルディアレスまで伸びていた。

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    ローマ帝国

    カンタブリアという名前に言及し初めて書かれたのは紀元前195年、歴史家大カトは自著の中で、カンタブリ族(ケルト系かバスク系とされる)の国にあるエブロ川の水源についてふれている。

    ... fluvium Hiberum; is oritur ex Cantabris; magnus atque pulcher, pisculentus.
    —Cato the Elder、Origenes: VII

    [1]

    その時以来、カンタブリ族がイベリア半島内外での多様な衝突において傭兵として用いられたので、CantabriまたはCantabriaと連続して言及された。シリウス・イタリクス(Book III)、ホラティウス(Book IV, Ode XIV)の記述から、彼らが第二次ポエニ戦争において、ローマと戦ったカルタゴ側に参加していたことは確かである。さらに、彼らはガイウス・ホスティリウス・マンシヌスによって行われたヌマンティア包囲中にも言及された。マンシヌスは都市の包囲で出世したと言われており、カンタブリ人とヴァッカエイ人(ヒスパニア北部にいたケルティベリア人の一つ)が彼の援軍の中にいたと知らされたことで、危機から逃れられたという。

     
    カンタブリア戦争時代のカンタブリア

    その後の期間の参照の大半は、紀元29年に始まった反ローマのカンタブリア戦争と関係している。およそ150の参照がギリシャ語とラテン語の文献の中で見つかっており、カンタブリ族の悪評を証明しているのである。彼らの領域は現在のカンタブリア州より著しく大きく、カンタブリア海が北の境界で(カンタブリア海の名はローマ人がビスケー湾を指すため用いた)、セッラ川谷の西端が西の境界であった(現在はアストゥリアス州に属す)。南はペーニャ・アマヤの丘砦(現在のブルゴス県)ほど遠くまで伸び、東はアグエラ川に近接するカストロ・ウルディアレスまで伸びていた。

    中世

    ローマ帝国の衰退にともない、カンタブリアは西ゴート族支配からその自治を再獲得した。574年、西ゴート王リウヴィギルド王(en:Liuvigild)がカンタブリアを攻撃し、アマヤ(現在はブルゴス県)を含む南部を落として勢力下におさめ、カンタブリア公国という西ゴートの州を設置した。そこは、カンタブリ族同様にヴァスコン族を含む国境防衛線またはリーメスにされたのである。しかし、この非常線の北で、カンタブリ族はアラブ人の侵攻まで独立を保ち生き延びた。

    714年、イスラム教徒のアラブ人とベルベル人の混成軍がエブロ川谷上流を侵略し、カンタブリア公国の首都アマヤを陥落させた。彼らは自分たちの防衛制度を整備するため、カンタブリア人に従来の国境防衛線にとどまるよう強いた。カンタブリア人は初期のアストゥリアス王国に合流した。

    レコンキスタ初期の年代記において、カンタブリアはまだ地方として認められているように見えた。アルベンデンセ年代記の中で、アストゥリアス王アルフォンソ1世は“iste Petri Cantabriae ducis filius fuit[2]”と、カンタブリア公ペドロとカンタブリア公の称号、彼の公国の領域の確認を述べたとある。

     
    カンタブリア公国の境

    この時期から、文献となる公文書は辛うじて、アストゥリアスという名称によってカンタブリアへ言及するようになった。アストゥリアス・デ・サンティリャナ、アストゥリアス・デ・トラスミエラ、アストゥリアス・デ・ラレードと呼ばれたコマルカの言及においてアストゥリアスの名が優勢であった。

    4つの兄弟都市(サンタンデール、ラレード、カストロ・ウルディアレス、サン・ビセンテ・デ・ラ・バルケーラ)を中核として、沼地の兄弟会(es:Hermandad de las marismas、カンタブリア主要都市が抱える艦船の連合。カスティーリャ海軍の一翼を担った。対外ビジネスにおいて自治が維持され、一部のケースでは対フランス、対イングランドとの海戦に参加した)が創設され、アストゥリアス東部の重要海港全てを兄弟会のために結合した。

    レコンキスタ時代、4都市はアンダルシア再征圧に人と船を派遣し、積極的に参加した。カディス、エル・プエルト・デ・サンタ・マリアといった海岸の港湾都市へは、カンタブリア海沿岸の港からやってきた一家が再入植した。4都市から来た船はさらにセビリャへの攻撃に加わり、トリアナとセビリャの間をつなぐ橋を破壊したこと、カンタブリアの大帆船、セビリャのトーレ・デル・オロなどでの戦争実績は、サンタンデール、カンタブリア州、アビレスなどの紋章に描かれた。

    16世紀から18世紀

    16世紀、ラ・モンターニャ(La Montaña、山地)という名が一般的な使用法そして文学において広まった。これは古いカンタブリアを指すものとして、もっぱら半島のメセタ中央部を指していたカスティーリャという名称に相対するものであった。この区別は現代になるまで残った。

    カトリック両王の台頭で、沼地の兄弟会は消滅し、ほぼカンタブリア全体に等しい4都市の古い兄弟会の影響を含め、クアトロ・ビラス(4都市)王室代官区(Corregimiento de las Cuatro Villas)がその代わりを務めた。

    アンシャン・レジームの間、カンタブリア最大の裁判管轄区域は、主としてスペインの大貴族(en:Grandee)3家によって管理された。メンドーサ家(インファンタド公、サンティリャーナ侯)、マンリケ・デ・ララ家(アギラール・デ・カンポー侯、カスタニェーダ伯)、そしてより小さなベラスコ家(フリアース公、カスティーリャ軍総司令官)である。

    16世紀以降、カンタブリアとカンタブリ族に関する研究への関心が再出現した。特にカンタブリ族が占領した領土の正確な位置の問題においてである。18世紀まで、古代のカンタブリアの位置及び拡大についての議論は定まらなかった。アウグスティヌス会の神父で歴史家のエンリケ・フロレス・デ・セティエーンによる『ラ・カンタブリア』のような、地方の歴史の知識について重要な仕事がなされたおかげであった[3]。カンタブリアへのこの関心の再熱と、前述の論争の解明と同時に、山脈地方での多くの機関、組織と裁判権に、『カンタブリア人の』または『カンタブリアの』という名が受け入れられた。

    16世紀終盤、疫病の流行を前にして無防備であったカンタブリア人口は、以前の1/10にまで減少するという後退の危機に見舞われた。18世紀に入るまで、カンタブリアの諸都市は経済と人口の衰退が長引いた。

    1727年、その後カンタブリア州となる地域を統一する、最初の試みが行われた。これにもかかわらず州としてまとまることはなかった。カンタブリアの散り散りになった土地が小さく自治体として実在することで高度な自治を享受したため、よく知られた財源不足と結合し、引き続きカンタブリアの弱点の主因となり続けた。これはスペイン・ブルボン家の中央集権主義および、その管理能力の発達により悪化した。

    ラレードとサンタンデールが競い合った結果として、サンタンデール市は事実上19世紀初頭に設置された州の名をカンタブリアとすることが許された。どちらが州都になったかは疑いがなく、サンタンデールが後で自らの市名を州名とするよう要求したのである。1821年、州議会においてサンタンデール市側は『州はサンタンデールの名を保ち続けるべきだ』と答えた。

    19世紀
     
    半島戦争の英雄、ペドロ・ベラルデ・イ・サンティリャーン像

    ナポレオン支配に対するスペイン独立戦争の間(1808年-1814年)、司教ラファエル・トマス・メネンデス・デ・ルアルカは専制主義の強力な支持者で、自分自身を『カンタブリア摂政』と表明し、サンタンデールにカンタブリア人軍備を確立した。それはセントラル台地からやってきて全ての山道を移動するフランス軍を拘留する目的の、軍の一部門であった。軍はフランスに敗退したが、司教は将軍フアン・ディアス・ポルリエル指揮下のリエバナでの再編を支持し、それをカンタブリア師団と呼んだ。師団はカンタブリア騎兵隊、またはカンタブリア歩兵連隊のような多種の大隊で成り立っていた。

    20世紀
     
    ベリアのビーチ

    18世紀及び19世紀を通じて、先祖伝来の共感を共有するカンタブリアという用語の使用に込められた感情は、20世紀の間継続し、1936年まではカンタブリアという名称が政治的な調子を帯びることは明確な分離主義者とみなされた。事実、その年に共和連邦党は、カンタブリア=カスティーリャ連邦国家のための自治州を設置しようとした。それは現在のカンタブリア、カスティーリャとアストゥリアスの近接する地域を含んでいた。スペイン内戦のために自治州設置の案は通らなかった。ファランヘ党が勝利した結果、フランコ独裁政権下でこれらの努力が片隅に追いやられ、カンタブリアの名の使用が減少した。

    1963年、州議会の議長ペドロ・エスカランテ・イ・ウイドブロは、年代記作者トマス・マサ・ソラーノによって書かれた学究的な報告書に従い、サンタンデール県に替えてカンタブリアの名を採用するよう提案した。積極的な進展を得、郡区から賛成投票を得たにもかかわらず、請願は、サンタンデール市議会の反対のためほぼ不成功に終わった。

    カンタブリアは、憲法指針の上での権利を要求する基盤をつくった。それは『歴史的な地域の特性を備えた州』のための自治政府を準備したものであった。

    県議会議員と国会議員から構成された混成会議が、1979年9月10日、カンタブリア自治法令の編成の作業を開始した。1981年12月15日にコルテス(国会)の承認後、国王フアン・カルロス1世が同年12月30日のカンタブリア自治法令に相当する基本法に署名した。このように、サンタンデール県はカスティーリャとのつながりを断ち、そして当時まで属していたカスティーリャ=レオンの準自治体制から脱した。

    1982年2月20日、初めての地方議会(現在は州議会)が州の地位となるよう整えられた。その時以来、旧サンタンデール県はカンタブリア州として知られるようになり、歴史的ある名称を回復した。最初の地方自治選挙は1983年5月に実施された。

    4度目の地方選挙で成立した立法府(1995年-1999年)は、全ての州議会内グループの承認を受け、カンタブリア自治制定法の最初の大きな改革を実行した。

    ^ エブロ川はカンタブリ族の国で始まる。そこは広くて美しく、魚が豊富である ^ これはカンタブリア公ペドロの息子だった ^ Enrique Flórez. La Cantabria. Disertación sobre el sitio y extensión que tuvo en tiempos de los romanos la región de los cántabros, con noticia de las regiones cofinantes y de varias poblaciones Antiguas (The Cantabria. Dissertation of the place and extension that that the land of the Cantabri had in times of the Romans, with notice of the adjacent regions and of several Ancient villages. Madrid. 1768
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