中銀カプセルタワービル
施主は中銀マンシオンの渡辺酉蔵[1]。渡辺は貸しビルの案件を担当したことをきっかけに弁護士から不動産業に転身し、中央区銀座から名前を取った中銀建物と中銀マンシオンという2つの会社の社長をしていた[1][2][3]。アメリカ旅行でセカンドハウスに触発された渡辺は別荘の民主化を提唱し、別荘が作りや値段において一般的な住宅と同様の売られ方をしていた時代に、大衆に手が届きやすいものを提供しようとしていた[4]。
一方、建築運動・メタボリズムグループの中で、最低限の機能のみで構成された居住空間「カプセル」という手法に強い関心を持っていたのが黒川紀章だった[5][6]。黒川は機能を分割したカプセルを組み合わせた「カプセル建築」で建築を捉え直し、メタボリズムの生命の原理、代謝といった考え方を表現しようとした[7][8]。カプセル建築のプロトタイプである、黒川の設計による大阪万博の「空中テーマ館」や「タカラ・ビューティリオン」に感心した渡辺は、新しく建築予定だった銀座8丁目のマンションの設計を黒川に依頼することにした[9]。特別な建物を所望する依頼主に対し、黒川は都心型のセカンドハウスをカプセル建築で実現しようとした[10]。
社内ではコストが通常の2倍かかることから強い反対意見があったものの、渡辺の伝記「空を買った男」には「個人財産を費やしてでも実現する」という強い思いを持っていたことや、社員を説得するために「カプセル一つで広告費はいくらになるだろうか」と問いかけたと記述されており、最終的にチャレンジ精神を重んじる社風が優先されている[11][12][13]。
設計まず黒川がデザインしたスケッチを元に、事務所スタッフの阿部暢夫と上田憲二郎が詳細な設計図作成を担当した[14]。建物のコアの部分は下沢康二、カプセルは茂木愛子が担当した[15]。工場から輸送できる限界の大きさを逆算しカプセルの寸法が決まると、最大で140個のカプセルが取り付けられることが分かり、渡辺が重要視する採算性もクリアできると確信した[10][16]。若いスタッフが担当していたこともありカプセルの重量に苦労していたが、事務所を訪れていた松井源吾が構造設計を手助けすると重量は半分まで削減された[15]。阿部と上田らスタッフが模型の製作をしていくうちに、見た目も美しいカプセルの組み合わせ方が固まっていき、黒川の承認を得たことでデザインが確定した[16][17][18]。実際に製造されるカプセルが140個ということもあり、量産化のための金型を作るわけにもいかず製造を請け負う会社を見つけるのに苦労したが、海上用コンテナを製造していたアルナ工機がカプセル本体を、内装はYS-11も手掛けたことがある大丸装工部が担当することに決まった[18][11][注釈 1]。施工を担当する大成建設はエレベーターや配管の設置が特殊なこともあり、カプセルタワーのためだけの技術委員会を新たに設置し対応しようとした[19][20]。
設計中には、渡辺の心変わりにより予定地に自社ビルを建てることになり、建設中止の連絡が来たことがあった[21][22]。渡辺と直接話し合う中で黒川はカプセルタワー内にオフィスフロアを新しく盛り込むことを提案し、その案に渡辺が納得したので建築計画は続行されることになった[23]。建築許可を得るため都庁や建設省との折衝を担当していた上田は、この修正により設計案の見直しをしなければならなかったが、既に申請から1年半経過していることもありなんとか承認を得て着工できることになった[21][23]。申請に時間がかかった理由について建築の特殊性があり、階数や床面積をどのように定めるかの検討、防火認定を得るための実証実験、防災・避難計画の策定が行われた[11]。また建築関係以外にも、税金や保険、カプセルを取り外した場合の所有権がどうなるのかといった法律面の課題や、カプセルが工場で完成した時点から発生する金利を誰が負担するのかといった論点があった[11][注釈 2]。
建設あらかじめ工場で作成されたコンクリートパーツ、エレベーター、階段などを現地へ輸送し、軸となる2本のシャフトが完成すると1971年11月8日からカプセルの取り付けが始まった[24]。カプセルは、450キロ離れた滋賀の工場からその日ごとに取り付ける分だけ順次輸送されていった[24][25]。カプセルの保存場所に余裕がなく、輸送に使う大型車両の通行時間の規制もあったため、前日の夕方に出発し当日の朝に到着する段取りだった[24]。クレーンで吊り上げられたカプセルはボルトでシャフトに固定されていった[26]。作業員も最初は固定作業に1時間ほどかかっていたが、カプセルの固定は反復作業なので慣れると15分ほどに短縮されていた[26]。大成建設は、工期短縮を図りながらも全行程の15万5000時間を無事故で完遂している[27]。1971年12月24日に最後のカプセルが取り付けられると、残りの配管や内装工事は1972年4月5日に終了しついに竣工した[28][29]。
入居開始全体工事終了の2日後には早速住民の入居が始まった[29]。カタログの挿絵は、カーグラフィックで車の内装を担当しているイラストレーターに依頼し、ベッドに横たわりながら電話をかけるビジネスマンの写真が使われ、キャッチコピーの「ビジネスに遅れをとらない」ことが強調されたものとなった[30][15]。1日1000件の問い合わせが来る大反響で、年末には100室ほどが売約、予約済となった[31][32]。土地は中銀マンシオンが所有しており、カプセルの所有権が380万から486万円で分譲された[33]。管理費は月額で1万3900円ほどだった[33]。
売れ行き好調の理由について雑誌「都市開発」では、銀座、新橋、羽田空港に近く交通の便が良いこと、オフィス街に近く会社の会議室や休憩室としての需要もあったと分析されており、分譲についても好意的に取り上げられている[27]。中銀マンシオンによると購入者の74%が男性、平均年齢が42.9歳、7割が会社員であり、利用目的では、半数以上が「寝る場所」としていた[32]。当初予測では、都内在住者の購入は20~30%ほどだろうと考えていたが、目論見とは違い60%の購入者が都内在住者であった[27]。また、都内のマンション建築は一定数投資目的で購入されるものの、カプセルタワーはそれらと比較して著しく低い割合だった[27]。
建設当初は、郊外や遠方に住んでいる利用者の事務所機能や、本社が地方都市にある企業の宿泊施設として利用されることが多かったものの、バブル期には投資物件として注目が集まった[31][34][35]。1987年に行われた管理会社である中銀ハウジングへの取材では、オフィス利用者が半数で残りは投機目的であり住居としてほとんど使われておらず、年間1割の所有者が入れ替わることで地価が高騰し、当初の販売価格から3倍に上昇していることが語られている[31]。また、不動産データを扱う東京カンテイによれば、1990年にはカプセルの面積10 m2あたり4000万円まで価格が上昇した記録が残っている[36]。
建て替え決議バブル崩壊後に老朽化が進み配管設備の漏水が深刻化し、隣のビルの増築の影響で日が射さなくなると屋根の腐食で雨漏りにも悩まされることになった[37][35]。設計上カプセルを取り外さないと共用部の配管の交換が行えなかったため、修繕も行われなかった[38]。1997年の植田実の取材によると、オーナーの所在地がそれぞれ全国に散らばっていることや、カプセル所有者間で維持管理への関心の違いにより対応に苦労し、管理組合を設立したカプセル所持者の弁護士が管理会社である中銀ハウジングを巻き込む形で話し合いの場を設けた[39]。集中冷暖房や24時間対応の給湯設備を一括で管理会社が請け負うのはコストに見合わず、個人で冷房を導入する対応が必要になり、スラム化の危機と隣り合わせだった[39][40]。
多数のオーナーが建て替えに賛成する中、法改正された建築基準に適合しないことから解体されれば同じような建築は不可能なため、黒川は修繕案を提案し建て替えに反対した[37][41]。建て替え推進派の試算によると、建築申請を再び提出しなければならないものの費用は一戸あたり511万円になる一方、黒川の修繕案ではカプセルの交換に一戸あたり880万円が必要になり部屋の広さも変わらなかった[41]。一方、黒川の試算ではカプセル交換の方が安く、建て替えに5年ほどかかるのに比べ工期も8カ月で終わるとしている[42]。2006年9月に行われた臨時総会では、所有者119人のうち委任状を含む81人が参加し、その内61人が建て替えに賛成した[43]。2007年4月に行われた決議では80%以上のオーナーが賛成し建て替えが決定したものの、その後のリーマンショックの影響で解体業者が倒産し実施までいかず、決議も無効になった[44][45][46]。
黒川は生前のインタビューで問いかけられた「メンテナンスについての話し合いはなかったのか」という質問に対し、1997年から黒川と大成建設でカプセル交換の要望書を提出していたと答えている[47]。黒川は個人でもカプセルを買い取り、可能ならば全ての所有権を手に入れて改修を成し遂げたいという思いを持っていた[47]。一方、2003年に発足した建て替え推進委員会は、2004年9月に黒川事務所と大成建設に補修案の提出依頼を打診しているが、回答は無かったと答えている[48]。
訴訟2005年9月号の週刊新潮に掲載された、カプセルタワーがアスベストに汚染されているという記事に対して、黒川は名誉棄損の訴訟を起こしている[49]。記事では、住民の一人の要望により行われた調査により、露出したアスベストがエアコンの風で部屋中に飛散していた可能性が指摘され、テーブルや床にも落ちていたことが確認されている[48]。カプセルは鉄骨構造だが、内側の腐食を防ぐためアスベストの1種である「アモサイト」が吹き付けられていた[50]。2005年6月のクボタの情報公開によりアスベスト問題が全国的に大きく取り上げられていた時期だが、カプセルタワーは吹付アスベストが禁止される1975年、アスベストが含まれた素材の利用が禁止される2004年より以前に建てられているので、法的に問題はなかった[49][48]。黒川は話し合いの場で「カプセルタワーは世界遺産候補になっているから、一時的な補修で済ませたい」と発言したが、候補になるには築50年以上で文化財になっていることが条件なのだから間違っていると強く批判する記事だった[48]。黒川は記事に協力したカプセルの所有者が、アスベスト問題の象徴として悪評を広めようとしているのではないかと疑い訴訟に踏み切った[49]。
黒川はアスベストは室内を汚染しておらず、世界遺産候補と説明した事実はないと主張し1億円の損害賠償と謝罪広告を求めたが、東京地方裁判所は2007年4月11日、アスベスト汚染、虚偽説明に関する主要部分が事実であると認定し週刊新潮側の全面勝訴で終わった[51][52]。
老朽化・解体 カプセル間のすき間一旦は解体決議が無効になったものの2010年ごろに給湯管が破裂し、配管が張り巡らされていたこととカプセル間が狭いことから修理ができず、建物全体で給湯機能が停止した[53][54]。1階にある簡易的なシャワースペースを交代交代で使わなければならず[50]、浴槽は洗濯機置き場にして近くの銭湯に通う利用者も複数いた[55][56][57][58]。セントラルヒーティングも故障しているため、カプセルの5面が外気と接していることからカプセル内は熱しやすく冷めやすい状態で各部屋で対処が必要だった[54]。元住人の証言では、雨漏りで垂れてくる水にはサビが混じっている状態で、景気が上向いていたことから中止された建て替えの声が再び大きくなり、管理組合側の買い増しが進められた[59][60]。
一方、2008年に住民による「中銀カプセルタワー応援団」というブログが開設されると、メディアから注目を集め取材を受けるようになっていった[61]。2010年から2011年にかけてブログを通して連絡を取った前田達之がカプセルを購入していき、「中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト」を立ち上げた[62]。前田は、カプセルを手放すオーナーから買い取ることで所有カプセルを増やし、建て替えに反対できる数を得ようとしていた[63]。
屋根にダメージのあるカプセル保存・再生プロジェクトの2015年の調査では、140のカプセルの内使用されているのは半分ほどで、35名が住居として利用していた[54]。プロジェクトが行ったアンケートによると、メリットとして交通の利便性が挙げられ、デメリットには特に空調やエレベーターの不具合を挙げる利用者が多かった[64]。改善点については、洗濯機の設置[注釈 3]、女性用シャワー、Wi-Fiのような共用設備の充実と大規模修繕が望まれていた[64]。平成17年からカプセルタワーを扱っていた不動産会社のメイツホームでは、雨漏りが酷く給湯や空調に問題があることを事前に伝えた上で物件紹介をしていた[66]。
住居と事務所の利用率は半々ほどで、毎日の住処にしている住人や気分転換のために月に4~5回しか使わない利用者もいれば、カプセル解体の危機感から部屋でパフォーマンスや展示を行ったりする利用者もいた[54][67][68][69]。知人・友人にカプセルを体験してもらいたいと積極的に来客を招く所有者もいれば[70]、オリジナルに近い形で残っているカプセルで、外国人向けの見学ツアーも開催された[71]。保存・再生プロジェクトは所有するカプセルをマンスリーで貸し出し体験できる取り組みを行い、その中には無印良品がインテリアコーディネートしている無印カプセルと呼ばれる一室もあった[72][73]。2016年には7人の所有者が、合計11個のカプセルに対し独自で防水工事を行った[47]。掛かった費用は1カプセル30万円ほどで、損傷個所をシーリング材、ブチルテープ、板金を用いて塞ぎ、カプセル屋根部分にはウレタン材で防水加工を施した[47]。保存・再生プロジェクトが運営するFacebookページには工事終了の報告と共に、修繕のための積立金1億円が使用されないとして、1/3の議決権を持つ中銀グループを批判するメッセージが発信された[47]。
2018年に中銀グループが建物と敷地を売却し、新型コロナの流行をきっかけに経済的な理由で所有者がカプセルを手放していった[74][75]。2021年3月22日に管理組合は臨時総会を開き売却を決議し、2022年4月21日に解体が始まった[74][60]。解体は東京ビルドが担当し、まず内装を解体しカプセル内のアスベストを除去してから、骨組みだけになったカプセルを取り外していった[74]。カプセル間は非常に狭く、解体作業は困難だった[74]。カプセルは比較的状態の良いものから崩壊寸前のものまで老朽化具合は様々であり、状態の悪いものの中には「床板を剥がしたら、外壁が外れていたカプセルもあった」と東京ビルドの荒川課長は語っている[74][76]。
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