ヴィエンチャン

ヴィエンチャン(ラーオ語: ວຽງຈັນ Viang chan [ʋíəŋ tɕàn]、英語・フランス語:Vientiane 英語発音: [vjɛnˈtjɑːn] フランス語発音: [vjɛ̃ˈtjan])は、ラオス人民民主共和国の首都。

 ヴィエンチャン最古の寺院であるワット・シーサケットヴィエンチャンの街は12世紀に既に形成されていた。 1560年、セーターティラート王がビルマ族のタウングー王朝の圧迫からラーンサーン王国の都をルアンパバーンからヴィエンチャンに遷都した。 ラオス政府情報文化省版「ラオスの歴史」によれば、ヴィエンチャンがラオス・ラーンサーン王国の首都になったときの正式名称は、 「プラ・ナコーン・チャンタブリー・シー・サッタナーカナフット・ウッタマ・ラーサターニー」。 「イサーン・タイ・英語辞典」では、「サッタナーカナフット」を「サタ(百)」「ナーカ(象)」「ナフット(万)」に分解して、「サッタナーカナフット」を「百万頭の象(ラーンサーン)」のパーリ語訳と言う解釈を乗せている。 ラオス情報文化省版「ラオスの歴史」では、「サッタ」を7に、「ナーカ」をナーガに解して、「7つの頭を持ったナーガ」と解釈している。 また、セーターティラート王は、ヴィエンチャンに遷都する前に、パニャー・チャンタブリー・シー・サッタンマタイロークをヴィエンチャンの領主に任じている。この領主が建てた寺院が今もヴィエンチャンにある「チャン寺」である。これは「チャンタブリー・シー・サッタンマタイローク寺」の略称である。 ラオス情報文化省版「ラオスの歴史」は、ヴィエンチャンのチャンは栴檀(せんだん)だという伝承を紹介している。プーカオクワーイに住む仙人の兄弟が、ヴィエンチャンが出来る前の土地にクーンの木とチャンの木(栴檀)で目印をつけたという。しかし、同書が正式な説として採用しているのは以下の説である。 ラオス仏教の象徴的存在であるタート・ルアンナンスー・ウランタートという本に記されているもので、釈迦と弟子のアーナンダがポーンパナオ近辺(現在のヴィエンチャン市内のポーンパナオ寺近辺)に来たときに、「ここらにはナーガや虎が多い」と言った。その後、シコータボーン王国の領主の血筋の一人がヴィエンチャン市内の北の外れのカオリヤオ地区に移住してきた時、孫娘のインタサワーンロンホートが、釈迦が「虎が多い」と言った所に住んでいたブーリーチャンという農民と結婚した。それを聞いたシコータボーン王国のパニャー・スミッタタムマヴォンサーが農民を祝福して、パークカディン以北の領有権をブーリーチャンに与えたのが、ヴィエンチャンの始まりという。1707年、ラーンサーン王国が分裂した際、ヴィエンチャン王国の首都となる。 1779年、チャクリー王国(現在のタイ)のチャオプラヤー・チャックリー将軍(チュラーローク王=のちチャクリー王朝のラーマ1世)に征服され、チャクリー王国の領土となる。 1827年、アヌ王がクーデターに失敗した際、シャム軍に滅ぼされる。 1893年、ラオスがフランスの保護国となり、1899年にその首都とされた。 第二次世界大戦中は日本に占領されるが、1945年4月にフランスが再び進駐した。 1947年にラオス王国が成立するとその首都とされた。しかし、ラオス内戦が起こるとヴィエンチャンは荒廃してしまう。 1960年8月、コーン・レー大尉がヴィエンチャンを掌握、スワンナ・プーマが首相に就いた。 1975年、パテート・ラーオが進軍しラオス人民民主共和国が誕生し、その首都となった。ベトナム戦争時には、アメリカ合衆国国際開発庁 (USAID) が置かれていた。
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Evelyneaguilera - CC BY-SA 3.0
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