のコンテキスト ナバラ州

ナバラ州(ナバラしゅう、スペイン語: Navarra)またはナファロア州(ナファロアしゅう、バスク語: Nafarroa)は、スペインの自治州である。一県一州の自治州であり、ナバラ県単独で構成される。州都はパンプローナ。スペイン語では第2音節にアクセントがあるため、ナバーラ州とも表記される。

中世のこの地域にはナバラ王国が存在し、スペイン帝国に併合された後も副王領として一定の自治権を得ていた。歴史的にはバスク地方の一部ではあるものの、フランコ体制後の民政移管期(1975-1982)にはバスク州への合流を望まず、1982年にナバラ県単独でナバラ州が発足した。歴史的背景が考慮されて大きな自治権を得ており、スペインの全17自治州のうち課税自主権が認められているのはナバラ州とバスク州のみである。国家公用語であるスペイン語に加えて、一部地域では地域言語のバスク語も公用語に指定されている。

詳細について ナバラ州

基本情報
  • 母国語表記 Nafarroa Garaia
Population, Area & Driving side
  • 人口 661537
  • 領域 10391
履歴
  • 先史時代・古代
     
    古代ローマの影響を示す硬貨

    ナバラに残る最古の考古学遺跡は、後期旧石器時代のマドレーヌ文化期(18,000年前 - 11,000年前)のものである[1]。北西部のアララール山地には金属器時代初期の巨石記念物(ドルメン、メンヒル、ストーンサークル)が見られ、南部からは鉄器時代の集落が発見されている[2]。

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    先史時代・古代
     
    古代ローマの影響を示す硬貨

    ナバラに残る最古の考古学遺跡は、後期旧石器時代のマドレーヌ文化期(18,000年前 - 11,000年前)のものである[1]。北西部のアララール山地には金属器時代初期の巨石記念物(ドルメン、メンヒル、ストーンサークル)が見られ、南部からは鉄器時代の集落が発見されている[2]。

    その後やってきたケルト人はバスク地方に金属加工術や火葬の習慣をもたらし、紀元前3世紀にはカルタゴ人がピレネー山麓に達した[3]。紀元前133年のヌマンティア(英語版)の攻囲戦で古代ローマ人がケルト人を破ると、紀元前75年にはグナエウス・ポンペイウスが自身の名に因んだ都市ポンパエロ(現・パンプローナ)を建設した[4]。ポンパエロには神殿、公衆浴場、邸宅などが築かれてローマ的な都市となり[5][6]、ブドウ、オリーブ、小麦などのローマ作物の大規模農場が作られた。東部のサングエサやルンビエル(スペイン語版)など、アラゴン川やアルガ川河畔の町はローマ化が著しく、逆に山間部の谷はほとんどローマの影響を受けなかった[5]。ローマ時代にキリスト教がバスク地方に定着していたとする有力な証拠はないが、伝承によれば、レイレ修道院の建設は435年、イラチェ修道院の建設は西ゴート時代、ロンセスバーリェス修道院の建設は638年とされている[7]。

    ナバラ王国
     
    ナバラ王国の最大版図(1030年)

    主要なサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路である「フランスの道」は2つの峠によってピレネー山脈を超え、ナバラ地方のプエンテ・ラ・レイナで合流する[8]。サンティアゴの巡礼路は850年以後に人気を得て、巡礼者の往来は11世紀にピークに達した。ナバラは巡礼者と接する中でキリスト教を受け入れていった。

    西ゴート族もフランク族も、この地域を完全に征服するには至らなかった。778年、カール大帝率いるフランク族の軍隊はパンプローナの城壁を破壊したが、これに憤慨したバスク人との戦い(ロンセスバーリェスの戦い)には大敗し、この戦いは叙事詩ローランの歌のモデルとなった。824年にはバスク人の族長イニゴ・アリスタがイスラーム勢力と手を組んでフランク族に勝利し、イニゴ・アリスタはパンプローナ王国(後のナバラ王国)を興した[9][10]。

     
    「ナバラ王国の心臓」と称えられたレイレ修道院

    905年にサンチョ1世によってヒメネス王朝が始まると、イスラーム教徒との間で領土の奪い合いが繰り返された[11]。耕地が少ないナバラ地方は人口過剰の問題に悩まされていたが、サンチョ1世は8世紀初頭からイスラーム教徒の手にあったリオハ地方を併合して社会・経済基盤を拡充した[12]。10世紀半ばにはレオン王国、アラバ領主、カスティーリャ王国などと婚姻関係を結んでいる[13]。10世紀末にはサンチョ2世(在位970年-994年)が娘のウラカ・サンチェスを後ウマイヤ朝の宰相アル・マンスール・ビッ・ラーヒ(英語版)に与えて平和を確保しており、アル・マンスールとウラカ・サンチェスの間には後ウマイヤ朝最後のアミールであるアブド・アッラフマーン・サンチュエロ(英語版)が生まれている[14]。パンプローナ王国は首都を持ち司教区を為す主権王国となり、1000年までにはナバラ王国として知られるようになった[15]。

    1004年に即位したサンチョ3世(大王)は、キリスト教諸国との政略結婚を繰り返して、カスティーリャ、ラ・リオハ、アラゴン、バスクの諸地域と次々と同盟関係を結んで王国の地位を強固なものとした[16][9][17]。ピレネー山脈以南(イベリア半島)のキリスト教圏の大部分を支配した[18]、イベリア半島におけるキリスト教勢力の「覇権国家」となった[12]。サンチョ3世は西ヨーロッパとの経済・文化的交流を活発化させ、サンティアゴの巡礼路の整備と管理に力を注いだ[17][12]。レコンキスタの過程でキリスト教勢力の軍事力がイスラーム教勢力を上回ったのはこの時期である[17]。

    1035年にサンチョ3世が亡くなると王国は息子たちに分割され、その政治力はサンチョ3世時代まで回復することはなかった[19]。サンチョ3世の長子であるガルシア3世はカスティーリャ王フェルナンド1世に敗れ、西部の国境地域を失っている[20]。1076年にはアラゴン王サンチョ1世がナバラ王国を併合し、ナバラ王国はアラゴン王国と同君連合を結ぶと、サンティアゴ巡礼の活況に合わせてパンプローナ、ハカ、エステーリャなどの町が成長した[20]。ガルシア6世(復興王)が王位に就いた1134年にはアラゴン王国から独立して再び主権を建てたが[21]、カスティーリャ=レオン王国への臣従とリオハ地方の割譲を余儀なくされている[20]。イベリア半島における政治的影響力を低下させた一方で、巡礼路を通じて貿易商や巡礼者が流入したため、ナバラ王国の商業的重要性は増した[19]。ナバラ王国時代にはイスラーム美術が持ち込まれ、トゥデラのモスクの廃墟、レイレ修道院やフィテロ(英語版)修道院の象牙細工の小箱などが残っている[2]。

     
    ナバラ博物館に所蔵されているイスラーム時代の象牙箱

    12世紀末にはカスティーリャ王アルフォンソ8世とアラゴン王アルフォンソ2世が結託してナバラ王国に攻め込み、1200年にはビスケー湾岸のアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3地域を奪われた[22]。ナバラ王国は海岸部を失って内陸国となり[23]、ピレネー山麓の小国へ地位を落とした[22]。1212年にカトリック諸国連合軍がムワッヒド朝に挑んだナバス・デ・トロサの戦いでは、サンチョ7世(不屈王)が率いる重装騎士団がカトリック勢力の勝利に貢献した[24][25]。この戦いはレコンキスタ(再征服運動)における転換点であり、ムワッヒド朝の衰退の決定的な要因となっている[26]。

    1234年に死去したサンチョ7世には嗣子がおらず、シャンパーニュ家のテオバルド1世が即位してフランス王朝が始まった[27][28]。国王は概してフランスに住み、実質的にはナバラ総督がナバラ王国を統治した[29]。テオバルド1世はフランス貴族を要職に付け、ナバラ貴族の特権を侵害した[22]ため、歴代の総督はナバラ人に快く思われなかった。そのためフランスから召喚を受けた際には代表者を送ることを拒んだり、王権を主張する国王候補をコルテス(身分制議会)が拒んだこともあった[29]。ナバラ王国のフエロは女性の王位継承に寛容だったが、女子継承に否定的なフランスの伝統法はナバラ王国にも適用された[29]。ナバラ地方のトゥデラにはレコンキスタ後もムデハル(再征服地域のイスラーム教徒)やユダヤ人が残り、トゥデラ出身のベンヤミンは初めて東方を旅行したヨーロッパ人として『オリエント旅行記』を書き残している[22]。

     
    現在のオリテ市街地と王宮(奥)

    1305年にはフランス王がナバラ王を兼ねたカペー朝が始まったが[22]、やはりフランス貴族が要職を独占したため、1328年にナバラのコルテス(身分制議会)はフアナ2世をナバラ王に選出した[22]。フアナ2世の治世の1328年には、王国内でも生産的で開明的だったユダヤ人を迫害し、6,000人を死に追いやった[30]。1348年から1349年には黒死病がナバラ王国にも蔓延し、人口の60%を失った[30]。これらのことが重なり、14世紀半ば以降のナバラ王国は国力が弱体化し、独立の喪失に向かい始めた[30]。フアナ2世を継いだカルロス2世の治世にはカスティーリャ軍やフランス軍のナバラ王国への侵攻を受けた[31]。1379年にはトゥデラ城やエステーリャ城を含む20の砦をカスティーリャ王国に占領され[30]、カルロス2世はフランスにあるほぼすべての領地を喪失した[31]。

    1418年にはカルロス3世がオリテにオリテ王宮(スペイン語版)を完成させたが、彼が1425年に亡くなった後の王国はもっとも混乱した時代を迎えた[32]。1441年に女王のブランカ1世が死去すると、共同君主だった夫のフアン2世は長男カルロスに王位を譲らず、1451年にはナバラ王国の貴族間でナバラ内戦が発生した[33][34]。1479年に、近隣のアラゴン王国とカスティーリャ王国が統合されてスペイン王国になると、イスラーム勢力下にある地域とナバラ王国を除きイベリア半島をほぼ領有していたので、1492年にグラナダを攻略した後には、ナバラ王国の獲得に関心を集中させた[35]。

    スペイン王国の中の王国
     
    フランシスコ・ザビエルが育ったハビエル城

    1512年にはカスティーリャ摂政フェルナンド5世がナバラ王国に侵攻して併合し[36][37]、ナバラ王国はカスティーリャ王国の副王領となったが、立法・行政・司法の各機構はナバラ王国に残された[38]。ナバラ人はフランス王朝の終焉をそれほど残念には思わず、カスティーリャ王国内での自治権の保持に力を注いだ[39]。1530年時点で、現在のナバラ州に相当する地域はスペイン全体の2.5%の人口を有していたが、スペイン王国に統合された影響もあり、1591年には1.9%にまで減少している[40]。

    ナバラ王位にあったカタリナとフアン3世はピレネー山脈北部に逃れ、1555年までに、アルブレ家の女王ジャンヌ・ダルブレが率いるナヴァール王国(ナヴァール=ベアルン王国)が確立された。ピレネー山脈の南側では、1610年にアンリ4世がスペイン側のナバラ王国に進軍の準備を行うまで、副王領としての王国は不安定なバランスの上にあった。ナヴァール王エンリケ3世が1589年にフランス王アンリ4世として即位すると、歴代のフランス王はナヴァール王を兼ねた。フランス側のナヴァール王国は1620年にフランス王国の一部となったが、1789年まで独自の制度と権限を有していた[41]。

    17世紀のナバラでは農業がほぼ唯一の経済であり、穀物やブドウの生産、家畜の飼育などが行われ、小麦・羊毛・ワインなど小規模の輸出貿易をおこなった[42]。スペイン海軍の船にはナバラ産の材木が使用され、隣接するギプスコアに鉄鉱石を運んだ[42]。17世紀におけるナバラとバスク全体の人口は約35万人だった。この世紀には黒死病の再流行によってスペイン全体の人口が850万人から700万人に減少しており、ナバラやバスクは黒死病による死者は少なかったが、社会的流出が多かったために人口は増加しなかった[42]。

    1659年にはピレネー条約でスペイン・フランスの国境が確定し、北ナバラと南ナバラの分断によって長年燻っていたナバラ問題は立ち消えた[43]。スペイン内でフエロを持つ他地域、アラゴン、カタルーニャ、バスクと比べても、ナバラは高い水準の自治権を有しており[44]、ナバラのみは例外的に司法権の維持を許された[45]。

     
    第一次カルリスタ戦争中のメンディゴリアの戦い

    18世紀初頭でもナバラは、なお「王国」と呼ばれていた[46]。1722年にスペイン・フランス間の税関がエブロ川に移されたおかげでフランスとの貿易が盛んとなり、18世紀のナバラでは商業が発達した[47]。農民はスペインの他地方よりも豊かな暮らしをし、人口の5-10%を占める貴族の割合はスペインでもっとも高かった[47]。18世紀半ばには道路網の整備が着手され、現在のパンプローナ市庁舎を含む壮大なバロック様式の建物が至るところに建てられた[47]。18世紀末時点で、スペイン王国内で独自の司法機関、副王、議員団、会計院を持っていた地域はナバラのみだった[48]。

    フランスとスペインを含む連合軍の間でスペイン独立戦争が起こった19世紀初頭、フランスの憲法起草者[誰?]はナバラ、スペイン・バスク、フランス領バスクを統合して新フェニキアという名称のバスク統一国を作ることを計画した[49]。ナポレオン自身は、エブロ川以北をスペインと分断させてフランスに編入させることを計画した[49]。1813年のスペイン独立戦争後のスペインでは自由主義的な思想が目立つようになり、中央集権体制の支持者が増加した[50]。19世紀のスペインでは王位継承権をめぐる内乱(カルリスタ戦争)が三度に渡って起こっており、この内乱はブルジョアなどの自由主義勢力と教会や貴族などの絶対主義勢力(カルリスタ)間の代理戦争の意味合いを呈していた。マドリードの中央政府は自由主義的な政策を打ち出していたため、伝統的な諸特権を享受したいバスク地方やナバラ地方にはドン・カルロスの支持者(カルリスタ)が多かったが[51][52]、第一次カルリスタ戦争(1833-1839)はベルガラ協定(英語版)でカルリスタ側の敗北が決定した。この敗北でカルリスタは強大な軍事力は失ったものの政治的重要性は保ち、後のバスク地方やカタルーニャ地方で起こる民族主義運動につなげた[52]。同時期にスペイン政府は行政改革の一環として県の設置を進めており、ナバラ王国に相当する領域にはナバラ県が設置されている。

    ナバラ王国の廃止
     
    ガマサダ後にパンプローナに建てられたフエロの記念碑

    1833年スペイン地方行政区分再編ではスペイン全土に49県が設置され、ナバラ地域にはナバラ県のみが設置された。1841年にはナバラ特権政府の代表が妥協法に署名し[53]、旧来のフエロが廃止されてスペイン憲法の枠組みによるフエロの再編が行われた[54][55]。関税境界がバスクとスペインの境界(エブロ川)からスペイン・フランス国境(ピレネー山脈)に移動すると、ピレネー山脈を挟んだナバラの貿易の慣習が崩壊し、税関を経由しない密輸が勃興した。ビスカヤ県やギプスコア県とは異なり、ナバラ県ではこの時期に製造業が発展せず、基本的には農村経済が残っていた。1872年から1876年の第三次カルリスタ戦争中では再びカルリスタ勢力が敗北[55]。1876年7月21日法はスペイン国家に対する兵役や納税などを規定しており、事実上フエロが撤廃された法律と解釈されている[55]。1877年には一般評議会と特権議会が廃止され、バスク地方全域のスペインへの統合が完了した[55]。

    1893年から1894年にはパンプローナ中心部でガマサダ(スペイン語版)と呼ばれる民衆蜂起が起こり、1841年の特権規定や1876年の財政保証廃止などのマドリード政府の決定に抵抗した。アルフォンシノスと呼ばれる小規模な派閥を除き、ナバラのすべての政党は、ラウラク・バット(英語版)(4つは1つ、スペイン・バスクの4県の統合を目指す考え方)を合言葉とする地方自治に基づいた新たな政治的枠組みの必要性について合意した。

    絶対主義勢力がカルリスタ戦争に敗北すると、バスク地方の他地域ではバスク民族主義が台頭したが、ナバラでは状況が異なった[56]。ナバラでは敗戦後もカルリスタの影響力が大きく、フエロの存続を大義として保ち、1936年までは一定の政治力を発揮している[57]。

    第二共和政下(1931年-1936年)の1931年には地域自治を認める共和政憲法が議会で承認されたため[58]、バスク地方では1932年にはバスク自治憲章案が各自治体代表者の投票にかけられたが、ナバラでの支持率はスペイン・バスク4地域でもっとも低く50%以下であり、1933年にはナバラを分離した自治憲章草案が共和国議会にかけられた[59]。1933年10月には数千人の労働者が裕福な地主の土地を占領し、地主は労働者に怨恨の念を抱いた[60]。

    1936年7月にスペイン内戦が勃発すると、北部方面司令官だったエミリオ・モラ(スペイン語版)将軍の下でナバラ県は即座に反乱軍の支配下に置かれた[61]。その初期にはナショナリスト派の強硬派によってテロ活動が相次ぎ、共産主義者などがテロの対象となった[62]。第二共和政期には反教権主義が広まったが、フランコは共和国政府とは対照的にカトリック教会を擁護したため、カトリック教会はフランコ率いるナショナリスト派を「十字軍」とさえ呼んだ[63]。特にナバラ南部のエブロ河岸に沿った地域で大規模な粛清が行われ、聖職者らは自発的に謀略に加担した[64]。少なくとも2,857人が殺害され、さらに305人が虐待や栄養失調などの理由により刑務所で死亡した[65]。死者は集団墓地に埋められるか、ウルバサ山などの中央丘陵地にある峡谷に廃棄された。バスク民族主義者はより劣った地に追い払われ、エステーリャ市長でありCAオサスナの共同創設者だったフォルトゥナト・アギーレは1936年9月に死刑に処された。パンプローナは1937年4月以降の北方作戦時に、反乱軍の作戦開始地点となった。

    現代
     
    オプス・デイが設立した私立のナバラ大学

    スペイン内戦後の1939年にはフランコ独裁政権が成立し、アラバやナバラは内戦時の支援の報酬として、フエロを想起させる特権の数々の維持が認められた[66]。内戦後には物資の欠乏、飢饉、密輸などが深刻化し、経済は小麦、ブドウ、オリーブ、大麦などの農業に依存し、人的移動は負の方向に傾いた。戦争の勝利者はカルリスタとファランヒスタ(ファランヘ党支持者)というふたつの主要な派閥に集まった[66]。カトリック教会に関連する組織であるオプス・デイは、1952年にパンプローナにナバラ大学を設立した[67]。今日のナバラ大学はもはやオプス・デイの所有物ではないが、世界規模で活動するオプス・デイにとって最大の「お抱え」大学である[67]。

    1950年頃にはギプスコア県やビスカヤ県のように工業誘致を行い、化学工業、製紙業、製鉄業、鉄鋼業などの企業がナバラ県に進出した[68]。ナバラ県第一の産業は農業から工業に入れ替わり、1950年からの20年間で、農業従事者割合は55%から26%に低下した[68]。特にパンプローナの人口・企業増加が大きく、1978年にはナバラ県全体の45%の人口と60%の企業を集めていた[68]。フランコ政権末期の民主化準備段階において、ナバラ県ではバスク祖国と自由(ETA)、警察、県が後援する民兵組織による暴力活動が行われ、その風潮は1980年代以降まで続いた。

    1975年にはフランシスコ・フランコが死去し、カルロス・アリアス・ナバーロ政権がスペインの民主化を推し進めた[69]。ビスカヤ県、ギプスコア県、アラバ県のバスク3県は1979年にバスク自治憲章を成立させてバスク自治州を発足させたが、ナバラ県では民主中道連合(UCD)とナバラ住民連合(UPN)がナバラ県のバスク州への統合に反対した[70]。1982年にはナバラ県単独でナバラ州に昇格し、ナバラ州とバスク州の分断が決定的となった[70]。1987年には公共高等教育の機会を与えることを目的としてナバラ州立大学が創設された[71]。

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