のコンテキスト ボスニア・ヘルツェゴビナ

ボスニア・ヘルツェゴビナ
Bosna i Hercegovina (ボスニア語、クロアチア語)
Босна и Херцеговина (セルビア語)
国の標語:なし
国歌:インテルメツォ

ボスニア・ヘルツェゴビナは、東南ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置する共和制国家。首都はサラエヴォ。ボシュニャク人とクロアチア人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人中心のスルプスカ共和国の二つの構成体からなる連邦国家でもある。両地域にまたがるブルチコ行政区は中央政府が直轄している。

ほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側と南西側2辺でクロアチア、東側1辺でセルビア、モンテネグロと接する。クロアチア領ダルマチアに挟まれたネウムでごくわずかにアドリア海に面する。

詳細について ボスニア・ヘルツェゴビナ

基本情報
  • 通貨 兌換マルク
  • 呼び出しコード +387
  • インターネットドメイン .ba
  • Mains voltage 230V/50Hz
  • Democracy index 4.84
Population, Area & Driving side
  • 人口 3816459
  • 領域 51197
  • 駆動側 right
履歴
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    出典検索?: "ボスニア・ヘルツェゴビナ" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
    2021年4月
    古代・中世

    現在のボスニア、ヘルツェゴビナには当初インドヨーロッパ語族のイリュリア人が住んでいたが、紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入った。その後、6世紀後半からスラヴ人が定住し始め、中世の頃にはそれぞれ王国を形成していた。この地域は地理的環境から、キリスト教のカトリックと正教会の対立の最前線となり、両宗教の激しい布教争いの場となった。このため多くの人々はブルガリアから入ってきたボゴミル派に救いを求める。12世紀後半にはボスニア王国がボスニア、ヘルツェゴビナを統治した。

    近世(オスマン帝国統治時代)
     
    モスタルのスタリ・モスト。ボスニア・ヘルツェゴビナの代表的なオスマン建築のひとつ。

    15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入る。正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くはこのときイスラム教に改宗した。またこのほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んでボスニア・ヘルツェゴビナに定着したイスラム教徒などによって、この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まった。首都であるサラエボはオスマン帝国のボスニア州(英語版)(1580–1867、Bosnia Eyalet)やボスニア州(英語版)(1867–1908、Bosnia Vilayet)の中心となり、宮殿が築かれ、帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。多くの住民がイスラム教を受容していたことや、その戦略的重要性のために、ボスニア・ヘルツェゴビナでは他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネツィア共和国と戦争を行った際に、ボスニアはオスマン帝国にとって重要な前哨基地としての役目を果たしている。

    近代(オーストリア=ハンガリー帝国統治時代)

    19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となる。1831年にボスニア蜂起(英語版)(1831–1833)。1875年にヘルツェゴヴィナ蜂起が起きると、この反乱を口火としてモンテネグロ・オスマン戦争(英語版)と露土戦争が起こった。戦後、ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより1878年に開かれたベルリン会議によって、オーストリアはボスニア、ヘルツェゴビナ、サンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。オーストリアは1908年、ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。このことがセルビアの大セルビア主義や汎スラヴ主義を刺激。1914年にこの地で起きたサラエボ事件が、第一次世界大戦の引き金になった。

    第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約によりオーストリア=ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。

    第二次世界大戦

    第二次世界大戦時、ナチス・ドイツと同盟する枢軸国はユーゴスラビアに侵攻。ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分はナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれた。クロアチア独立国の支配下では、クロアチア人の民族主義組織ウスタシャによって、セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。また、これに対抗したセルビア人の民族主義組織チェトニクによって、クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。この時代、フォチャをはじめとする各地で、ウスタシャとチェトニクによる凄惨な民族浄化の応報が繰り広げられた。これらの民族主義者や、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア等に対して、多民族混成の抵抗組織としてパルチザンが結成され、ボスニア各地で戦いを繰り広げた。パルチザンによるユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の第1回の会合はビハチで、第2回の会合はヤイツェで行われた。

    社会主義時代
     
    ユーゴスラビア社会主義連邦共和国とその構成国
     
    ユーゴスラビア解体のプロセス

    ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生した。戦後、共産主義国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、クロアチアやセルビアなどが民族ごとの国家として誕生したが、多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。ユーゴスラビアがソビエト連邦と決別してからは、ユーゴスラビア独自の自主管理社会主義が導入され、経済活動や政治的権利はより下位の単位に移管されていった。

    ボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒(ムスリム)たちは多くの場面でセルビア人、クロアチア人、あるいはトルコ人と名乗っていたが、固有の民族「ボスニア人」としての扱いを求めていた。1974年にユーゴスラビア連邦の憲法が改定された際、ボスニアのムスリムは「ムスリム人」の呼称で独自の民族とされた。これは、連邦の中央政府の意向によって、ボスニア・ヘルツェゴビナを多民族混住の純粋に地理的な単位とみなす上で、ムスリム(ボシュニャク人)のみが「ボスニア」の呼称を使用することに対する懸念によるものである。

    長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進んだ。また、いわゆる東側諸国とは一線を画したユーゴスラビア独自の路線によって、言論や文化的活動に関して他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められていた。体制批判的な映画も製作され、サラエボはユーゴスラビアのロック (音楽)やポップスの一大拠点となった。一方、1984年にはサラエボオリンピックが開催された。

    ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
     
    破壊された国立図書館でチェロを演奏するヴェドラン・スマイロヴィッチ(1992年、サラエボでミハイル・エフスタフィエフ撮影)

    1990年に共産主義独裁が公式に放棄され、多党制が認められると、ボスニア・ヘルツェゴビナではそれぞれの民族を代表する政党が議会の大半を占めるようになった。1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言し、クロアチアではクロアチア紛争が始まった。相次ぐ独立宣言や隣国での民族間紛争の勃発によって、次第にボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には緊張・不信が広がり、一部では武器を準備する動きも進んでいた。

    正教徒主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちは、セルビアやモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいたが、イスラム教徒中心のボシュニャク人(旧ムスリム人)や、ローマ・カトリック教徒主体のクロアチア人はユーゴスラビアからの独立を望んだ。この3つの民族は互いに近い言語を使っていたものの、民族的アイデンティティや宗教を異にしていた。

    1992年、ボスニア政府はセルビア人がボイコットする中で国民投票(英語版)を強行し、独立を決定した。3月に独立を宣言してユーゴスラビアから独立した。アリヤ・イゼトベゴヴィッチ大統領などの数の上で最多となるボシュニャク人の指導者たちは、ボスニア・ヘルツェゴビナを統一的な国家とすることによって自民族が実質的に国家を支配できると考えていた。これに対して、セルビア人やクロアチア人は、ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗した。クロアチア人によるヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体や、セルビア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体はそれぞれ独自の議会を持ち、武装を進めた。

    ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、ラドヴァン・カラジッチを大統領とする「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」としてボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。1992年5月にユーゴスラビア人民軍が公式に撤退すると、その兵員や兵器の一部はそのままスルプスカ共和国軍となった。また、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体も、マテ・ボバンの指導下、「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の樹立を宣言し、同国の軍としてクロアチア防衛評議会を設立し、クロアチア人による統一的な軍事組織とした。

    2つの民族ごとの分離主義国家、および事実上ボシュニャク人主導となったボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、それぞれ自勢力から異民族を排除する目的で虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う民族浄化が繰り広げられた。

    1994年にはアメリカ合衆国の主導でボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立した。これによって両勢力はセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、またNATOによる空爆などの軍事介入も行われた。1995年に国際連合の調停で和平協定(デイトン合意)に調印し、紛争は終結した。

    ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後
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    スレブレニツァ虐殺記念碑

    デイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナはボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国)という2つの構成体から成る連合国家となった。民生面を上級代表事務所(OHR)、軍事面をNATO中心の多国籍部隊(平和安定化部隊、SFOR)が担当し、停戦の監視と和平の履行を進めた。また、紛争中の戦争犯罪者の逮捕と起訴、民族浄化によって移住を強いられた人々の帰還支援や民族間の和解に向けた取り組みが続けられているが、住民の強い抵抗によって帰還は遅々として進んでいない。選挙では民族主義政党が勝利し、民族間対立によって政治が行き詰まり、国外から派遣されるボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表の強権発動によって政治的困難を打破せざるを得ない事態も度々起こっている。国政に対して3民族が事実上の拒否権を持ち、大統領が輪番制であることもあって、ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表が実質的な最高権力者となっている[1]。

    2004年6月のNATO首脳会合で、各国首脳はボスニアの治安改善を考慮しSFORの展開を2004年末で終了させることで合意した。2004年12月からはEUが編成した欧州連合部隊「アルテア」(EUFOR Althea)がボスニアの治安を維持する目的で展開している。アルテアは順次部隊を縮小しており、当初7,000名であった兵力は2008年時点で約2,200名となっている。

    2013年10月1日から10月15日[注釈 1]に掛けて、独立後初の国勢調査が行われることになった(質問項目は主に誕生日、生まれた場所、職業、学歴など)。過去に2001年と2011年にも実施しようとしたものの、民族間の対立に伴い実現しなかった。国勢調査の実施は今後のEU加盟や政策立案のために必要不可欠ではあるものの、民族構成によって政府の主要ポストや公務員の数を振り分ける[注釈 2]など国の根幹に関わるため、政治利用されるばかりか危うい民族バランスの均衡が崩れる可能性もはらんでいる。事実、この国勢調査を利用し、各勢力が自民族に有利に働くため、教会・モスクにいる聖職者を通じて働きかけと称した誘導を行うといった事態も見受けられた。また各民族が働きかけた不正行為も明らかになった。一方で、民族の色分けや少数民族差別(主にユダヤ人やロマ)を嫌った人々によるコスモポリタニズムの胎動がどこまで進行しているのかもポイントになっていた[2][3]。国勢調査の結果は11月10日まで行われる不正調査の報告と修正を経て、2014年1月に判明する予定とされ、非公式速報値では人口は370万~380万程度で、ボシャニク人54%、セルビア人32.5%、クロアチア人11.5%、その他2%となった[4]。

    ^ "ボスニア 分断の現在地/バレンティン・インツコ上級代表に聞く「行革・法支配の確立 最後の機会」". 朝日新聞. 朝日新聞朝刊2021年2月27日(国際面). 2021年3月2日閲覧 ^ “ボスニア:紛争後初の国勢調査 「民族色分け」で揺れる”. 毎日.jp (毎日新聞). (2013年10月15日). オリジナルの2013年11月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131112051500/http://mainichi.jp/select/news/20131016k0000m030010000c.html 2013年11月3日閲覧。  ^ “「民族色分け」に揺れるボスニア・ヘルツェゴビナ”. NHK ONLINE (日本放送協会). (2013年10月22日). オリジナルの2013年11月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131104061718/http://www.nhk.or.jp/worldwave/marugoto/2013/10/1022.html 2013年11月3日閲覧。  ^ “EKSKLUZIVNO O REZULTATIMA POPISA: Bošnjaci 54%, Hrvati 11,5%, Srbi 32,5%, Ostali 2%!?” (クロアチア語). doznajemo online magagine. (2013年10月30日). オリジナルの2021年11月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131104051530/http://doznajemo.com/2013/10/30/httpwp-mep3cnyx-jbk-2/ 2013年11月3日閲覧。 


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