モスタル

モスタル(ボスニア語: Mostar、クロアチア語: Mostar、セルビア語: Мостар) は、ボスニア・ヘルツェゴビナの都市およびそれを中心とした基礎自治体で同国を構成する構成体のうちボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属する。また、ヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県の県都 でヘルツェゴビナ地方 では最大の中心都市である。ボスニア・ヘルツェゴビナでは5番目に大きな都市で、市内をネレトヴァ川が流れている。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争期には事実上独立したヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の首都と定められていた。ただし政治情勢によって、事実上の首都はモスタル近郊のグルデであった。

今日、モスタルには新石器時代、青銅器時代、鉄器時代など先史時代より広く人が生活していた跡が確認されている。もっとも古い集落はブナ川上の泉の洞窟であった。鉄器時代には農業や牧畜も発展し、周辺地域との交易が行われていた。また、ローマ化以前のイリュリア人の生活の跡も残されており、墓地や要塞の跡も見つかっている。ローマ以前の人が住んでいた洞窟や、貨幣、武器なども残されていた。ローマ時代この地域は属州ダルマチアに含まれていた。モスタル周辺では初期キリスト教のバシリカが3つ発見されている。その中でも5世紀から6世紀に遡るシムバシリカ (en) はボスニア・ヘルツェゴビナの文化財となっておりこの地域にキリスト教が広がっていたことを示している。ローマ帝国崩壊後は、スラヴ人がやって来るようになる。[1]

中世

中世初期、モスタル周辺はザクルミア (en) またはザフムリェと呼ばれる公国の領域に含まれていた。ザフムリェは自治に関しフランク王国の影響を強く受けていたが、ザフムリェ公ミハイロ・ヴィシェヴィッチ (en) (Michael Višević 910 - 950)の時期には確実な自治を得ていた。13世紀になるとザフムリェは一時的にネマニッチ朝に吸収される。14世紀に入り1320年代になると、ザフムリェはボスニア王国の一部となる。14世紀から15世紀にかけフムの君主は力があった。その中のスチェパン・ヴクチッチ公 (en) がモスタル近郊のブラガイに居住し、1448年にヘルツェグの称号を得ている。ヘルツェグの称号は聖サヴァ公国 (en) や聖サヴァに関連したものとされ、今日のヘルツェゴビナ、ヘルツェグ・ノヴィなどの地名とも関連する。モスタルの成立に関連して、おそらくスチェパン公時代の1440年代に2つの塔と要塞が築かれた。右岸に築かれた要塞はタラ(Tara)と呼ばれ、左岸はヘレビヤ(Helebija)と呼ばれていた。ヘレツグサ塔はタラ塔の隣に築かれた。塔は防御のために築かれ、以前からある木製の吊り橋も引き続いて使われた。これも、スチェパン公の時代に築かれている。アルファンソ5世の特許状にも間接的に言及されていた。居住地としてモスタルが最初に文書に記録されたのは1452年4月3日からで、ドゥブロヴニク出身者がジョルジェ・ブランコビッチ(Đorđe Branković)に仕えていた同郷者に手紙を記した時、ヴラディスラヴ・ヘルツェゴヴィッチ(Vladislav Hercegović)が彼の父親であるスティパン公に抵抗し、ブラガイ(Blagaj)の町や2つの要塞、ネレトヴァの橋(“Duo Castelli al ponte de Neretua.”)を含む他の場所を占領したと述べている。[2]

オスマン支配期

モスタルの名称が最初に表れたのはオスマントルコによる1468年から1469年の調査で、ネレトヴァ川河畔にあった村の2つの塔を言及したもので、ラグーサ共和国議会の文書により1474年明らかになった。モスタルの地名は実在した市場から左岸に向けて架かっていた木製の橋を守る「橋の番人」を意味するモスタリ(mostari)から来ているとされている。オスマン帝国がモスタルを支配し始めたのは1468年頃とされ、35人のオスマン兵が滞在し土地は分割され住民は農奴にされた。モスタルはオスマン帝国の支配下に入ると[2] 居住地の都市化が始まるが、最初はカディルク(カーディー)と呼ばれる法・行政管区の中心として整備された。この時以来、モスタルは鉱物資源が豊富な中央ボスニアからアドリア海への交易ルートの中継地として発展し、ネレトヴァ川右岸の居住地の広がりをみせた。[1]オリエンタル支配については記されていないが、町は市場であるチャルシア(čaršija)や手工業、商業中心地とマハラ(近隣住区)や住宅地区の2つの異なった地区に組織された。1468年、モスタルはトルコ語で橋のそばの要塞を意味するキョプリュヒサール(Köprühisar)の名を得ており、当時中心部には15軒の住居があった。[3]16世紀、ネレトヴァ川を渡る重要な交通路であることからネレトヴァサンジャクの首府となり、ヘルツェゴビナ地域の行政の中心都市となった。現在に至るまでモスタルの象徴的な存在であるスタリ・モストは1566年には木製の橋から石橋に代わり、建築家ミマール・スィナンの門下生であったミマール・ハイルッディンにより造られオスマン時代の重要な建築物の一つとなっている。スタリ・モストは全長28m、高さ20mを誇り当時直ぐに驚嘆する物となった。著名なオスマンの旅行家エヴリヤ・チェレビは17世紀に「橋は一方の崖から他の崖へ延び、空まで舞い上がる虹のようだ・・・。私はアッラーの一人の貧しく惨めな従属者に過ぎず、16カ国も巡ったが今までこのような高い橋は見たことがない。橋は空と同じような高さを岩から岩へ架けられている。」と記している。[4]

16世紀から17世紀にかけ急速に町は発展し、この間モスタルの人口は10,000人に達した。町は典型的なオスマン帝国の町として通りや近隣が開発された。旧市街は一番古くモスタルを表す橋に次いで最も重要な物で、ネレトヴァ川の両側に広がる。興味深い記録として17世紀から18世紀初期にはモスタルには24のモスクと22のマハラがあった。オスマン様式の町の発展は17世紀後半から18世紀初期にはピークを迎え、オスマンの支配力も19世紀半ばには衰えていき、これに代わってキリスト教が主要な役割を担うようになってきた。宗教の寛容から町でのキリスト教の宗教施設やコミュニティの建設が受け入れられた。もっとも古い正教の教会は1834年に町の東側の山の斜面に建てられている。その後、カトリックも自らのスペースを確保している。

近世・近現代

1878年から第一次世界大戦後の1918年までモスタルはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあった。1881年にはモスタル・ドゥヴノ司教管轄区の中心地となり、1939年にはユーゴスラビア王国のクロアチア自治州の一部となっている。第二次世界大戦時、モスタルはナチスの傀儡政権であるクロアチア独立国の重要都市でもあった。第二次世界大戦後、モスタルはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の下、工業都市として開発が進められプラスティック、タバコ、ボーキサイト、ワイン、飛行機、アルミニュウム製品が製造されグラボヴィツァ(Grabovica)、サラコヴァツ(Salakovac)、モスタルなどのダムがネレトヴァ川に建設され水力発電が行われている。モスタルはこの間ユーゴスラビアの著名な工業、観光の中心都市であった。

 再建中のスタリ・モスト 2003年6月 再建後のスタリ・モスト 2008年9月ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

ボスニア・ヘルツェゴビナによるユーゴスラビアからの独立宣言後の1992年から1993年にかけ18か月間、包囲下にあった。ユーゴスラビア人民軍 (JNA) が最初にモスタルを爆撃したのは1992年4月3日で、続いて徐々に町を支配下に置いていった。1992年6月12日、クロアチア防衛評議会 (HVO) はJNAをモスタルから追いやる十分な力を集めた。JNAは報復として砲撃を行い、フランシスコ会修道院やカトリックの大聖堂、5万冊の蔵書がある図書館を含む司教宮殿、カラドジョズ・ベイモスク (Karadžoz-bey) や他の13のモスクを破壊している。1992年6月半ばには戦線は東側に移動し、HVOはセルビア正教会のジトミスリッツ修道院や1863年から1873年にかけ建てられた正教の至聖三者大聖堂(Саборна црква Св. Тројице、通称「正教の古い大聖堂」)、生神女誕生聖堂(Црква Рођења Пресвете Богородице/Crkva Rođenja Presvete Bogorodice、通称「正教の新しい聖堂」)など19世紀中頃以来の建物を破壊している[5][6]。ボスニア・ヘルツェゴビナ閣僚理事会の議長であるニコラ・シュピリッチ (Nikola Špirić) によれば、2008年春に大聖堂は再建を開始するとされ、チャールズ3世(当時皇太子)も資金を拠出している[7]。1991年11月18日、クロアチア民主同盟 (HDZ) のボスニア・ヘルツェゴビナの姉妹政党であるHDZ BiHはヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の存在を宣言し、政治、文化、経済、領土のすべてのボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言している。モスタルは東西に分断され、西側はクロアチア勢力が、東側はボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の軍が集まりそれぞれ支配することになった。1993年11月8日には両勢力の対峙により、クロアチア勢力側によりスタリ・モストは破壊されている。紛争後、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷 (ICYT) はヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の指導者を人道に反する罪やスタリ・モストの破壊を含め他の戦時中の犯罪に対して訴追している。

紛争終結後

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結の1995年以降、モスタルの復興は急速に進むこととなった。紛争で廃墟となった場所には新たに住宅やショッピングセンターなどが整備されている。モスタルは欧州連合の監視団による直接的な監視の下、各選挙が行われ民族間の調停や都市の政治的な統制が考えられた。また、復興には1,500万ドル以上が使われている。破壊されたスタリ・モストや周辺の歴史的な建物の再建も1999年には開始され、2004年にはほとんど完成している。復興にはスペイン、アメリカ、トルコ、オランダ、クロアチアが資金援助を行っている。グランドオープンは2004年7月23日に厳重な警戒の下執り行われた。 スタリ・モストの再建と並行してアガ・ハーン文化財団(AKTC)とワールド・モニュメント財団(WFMN)は5年間で歴史的なモスタルを再建、復興する努力を引き受けている。[8] モスタル旧市街の復興がない限り、橋の復興だけでは意味が欠けることが早い段階から理解され、歴史的なモスタル特にスタリ・モスト周辺の再建を助ける為の旧市街の保存スキームや個々の再建計画が形作られた。プロジェクトの結果、計画に基づき復興された旧市街の建築物群の運営や維持、文化、観光地としてのモスタルの広報を行うなど重要な役割を担うスタリ・グラードエージェンシー(Stari Grad Agency)が設立された。公式にはスタリグラードエージェンシーは橋の開業式典と同時に業務を開始している。[9]2005年7月、ユネスコはスタリ・モストとその周辺を世界遺産に登録している。

 旧市街 聖ペーター教会 コスキ・メフメッドパサモスク^ a b UNESCO: Old Bridge Area of the Old City of Mostar ^ a b Mujezinović, 1998, p. 144 ^ Institute for Regional Planning, Mostar, 1982, p. 21 ^ http://www.saudiaramcoworld.com/issue/199805/hearts.and.stones.htm ^ ICTY indictment against the Croat Herzeg-Bosnia leadership Archived 2005年2月12日, at the Wayback Machine., Statement of the Case, Article 27, 2003. ^ Prof. Michael Sells' page documenting the destruction Archived 2006年10月21日, at the Wayback Machine. ^ Шпирић: Tреба се окренути будућности да би сви заједно успјели ^ “Conservation and Revitalisation of Historic Mostar - AKTC” (PDF). 2006年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年11月15日閲覧。 ^ “Resurgence of Mostar’s Historic City Centre”. 2006年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年11月29日閲覧。
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