サラエヴォ(ボスニア語:Sarajevo [sǎrajeʋo] ( 音声ファイル)、クロアチア語:Sarajevo、セルビア語:Сарајево)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都。同国の構成体のひとつであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都でもある。ボスニア・ヘルツェゴビナで最多の人口をもつ都市。
日本語表記においては、一般に「サラエボ」や「サライェヴォ」などの表記も多く見られる(以下、本項では「サラエヴォ」とする。呼称と表記も参照)。
サラエヴォ渓谷には、ブトミル文化が栄えた先史時代にさかのぼる長く豊かな歴史がある。ローマ帝国に征服される前は、複数のイリュリア人の集落がこの地域にあった[1]。
ローマ帝国統治時代、町の名前はアクアエ・スルプラエ(Aquae Sulphurae、硫黄温泉)と呼ばれ、現代のサラエヴォの郊外の町イリジャにあった[2]。ローマ帝国に次いで、7世紀にはゴート族、次いでスラヴ人が進入した[3]。町はヴルフ=ボスナ(Vrh-Bosna)と呼ばれ、スラヴ人の城塞として1263年から、町がオスマン帝国に征服される1429年まで存続した[4]。
近世1461年、オスマン帝国のルメリア州(1365–1867)のヴルフ=ボスナ(Vrhbosna)に、sr:Скопско крајиште知事(パシャルク)のイーサ=ベグ・イサコヴィッチ(Isa-Beg Isaković)は、町を建設してボスニア・サンジャク(1463–1878)を置いた。彼の統治下で、町は大きく発展した。1461年以降、イーサ=ベグ・イサコヴィッチは町の旧市街の建設を監督し、水の供給システムやモスク、屋根つきのバザール、公衆浴場、知事宮殿なども作られた。町はボスナ・サライ(Bosna-Saraj)と名づけられ、大都市へと成長した。この地方は、トルコ語で「宮殿のある平地」を意味するサライ・オヴァス(saray ovası)と呼ばれた[5]。
ガジ・フスレヴ=ベグ(Gazi Husrev-beg)は1521年、ボスニア州の2代目の知事に就任し、町で最初の図書館、マドラサ、スーフィズムの学校、サハト・クラ時計塔(Sahat Kula)などを建設した。1580年、ボスニア州(1580–1867)となる。
1697年、大トルコ戦争の間、ハプスブルク君主国のプリンツ・オイゲンによる襲撃によってサラエヴォは制圧され、町には疫病がもたらされるとともに焼き払われた。町は後に再建に向かったものの、完全に復旧されることはなかった。オスマン帝国は1850年、サラエヴォを重要な行政の拠点としたものの、オーストリア=ハンガリー帝国に征服され、1878年にベルリン条約によって共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(Condominium of Bosnia and Herzegovina、1878年 - 1918年)の統治権はオーストリア=ハンガリー帝国へと移された。ボスニア・ヘルツェゴビナは1908年にオーストリア=ハンガリー帝国に併合された。町は、路面電車などの新しい開発をウィーンに導入する前の試験導入に使用された[3][6]。
近代第一次世界大戦のきっかけとなったフランツ・フェルディナント大公とその妻ゾフィー・ホテクに対する暗殺事件は1914年6月28日に、ボスニア出身のボスニア系セルビア人の民族主義者ガヴリロ・プリンツィプによって、サラエヴォにて引き起こされた。戦争に突入すると、バルカン半島での攻勢の多くはベオグラード周辺で起き、サラエヴォは戦時中、大規模な破壊を免れた。第一次世界大戦が終わると、バルカン半島西部はユーゴスラビア王国のもとに統合され、サラエヴォはドリナ州(1929–1941)の州都となった。
1939年にユーゴスラビア王国はクロアチア自治州を作っていたが、1941年4月1日のウスタシャによるザグレブの蜂起でクロアチア独立国(1941–1945)建国宣言が発され、サラエヴォを含むボスニア・ヘルツェゴビナの領土は、クロアチア独立国の領土に編入された。1941年4月8日、ナチス・ドイツはユーゴスラビアに侵攻し、サラエヴォを爆撃した。この時、およそ10,500人のユダヤ人、ならびにロマ、正教徒のセルビア人が居住していた。
ヨシップ・ブロズ・チトーに率いられたパルチザンによる抵抗によって、1945年4月6日にサラエヴォはナチスによる占領から解放された。その後、サラエヴォは急速に発展し、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国における地域の産業の拠点となった。1945年の都市一般開発計画の一部として、サラエヴォ西部にて現代へと続く町の区画が策定され、サラエヴォの都市域が拡大された。サラエヴォの成長がピークを迎えたのは1980年代の初期の、サラエヴォで冬季オリンピックが開催されたときであった[7]。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争におけるサラエヴォ包囲は、現代の戦争の中で最も長期にわたる都市包囲であった。包囲していたのはセルビア人勢力(スルプスカ共和国)のスルプスカ共和国軍 (VRS) と、ユーゴスラビア人民軍 (JNA) であり、1992年4月5日から1996年2月29日まで続いた。
サラエヴォ包囲は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の間に発生した都市包囲であり、ユーゴスラビアからの独立を宣言し、新しく組織されたばかりのボスニア・ヘルツェゴビナ政府の軍(ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍; ARBiH)に対して、ボスニアのセルビア人の武装勢力(スルプスカ共和国軍)は丘の上に陣取ってサラエヴォを包囲した。セルビア人勢力は、新たに独立したばかりのボスニア・ヘルツェゴビナへの参加を拒否し、セルビア人による国家・スルプスカ共和国の樹立を目指していた[8]。
その結果として、大規模な破壊と人的な被害を生み出した。包囲戦の過程で、12,000人以上が殺害され、50,000人以上が負傷したものと推測されている。死傷者の85%は軍人ではない市民であった。多くの市民が殺害されたり、移住を余儀なくされたことにより、1995年の時点での人口は紛争前の64%に相当する334,663人にまで減っていた[9]。多くの市民が包囲された町から地下トンネル等を使って脱出した。また、サラエヴォのセルビア人市民の中には、セルビア人勢力支配地域へ逃げ込む者もいた[8]。他方で、セルビア人勢力の占領下となった地域では、ボシュニャク人(ムスリム人)を主体とする非セルビア人の市民が殺害されたり、強制的に追放されるといった民族浄化が行われた[8]。
2003年1月、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷の法廷では、スルプスカ共和国軍のサラエヴォ=ロマニヤ軍団の第一司令官であったスタニスラヴ・ガリッチ(Stanislav Galić)は、サラエヴォに対する包囲と恐怖狙撃によって、人道に対する罪の罪を認定され、終身刑を言い渡された[10]。罪状の中には、第1次マルカレ虐殺での罪も含まれていた[11]。2007年、ガリッチに代わってサラエヴォ=ロマニヤ軍団の指揮官となったセルビア人の将軍、ドラゴミル・ミロシェヴィッチ(Dragomir Milošević)は、第2次マルカレ虐殺を含む、サラエヴォの包囲と市民への恐怖狙撃によって有罪を認定され、懲役33年を言い渡された。法廷では、マルカレ市場は1995年8月28日に、サラエヴォ=ロマニヤ軍団の地点から120mm迫撃砲弾で砲撃されたものと認定された[12]。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後サラエヴォの復興開発はデイトン合意が結ばれた1995年11月以降に始まった。
2003年の時点で、町のほとんどの部分は再興されるか再開発され、紛争による目に見える破壊された建物の痕跡は町の中心ではわずかとなった。第二次世界大戦時に使用された砲弾筒が発掘され、サラエヴォにて洗浄・装飾され、工芸品として売られている。現代的なオフィス・ビルディングや高層建築物が各地で建設されている[13]。
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