トレビニェ(セルビア語: Требиње, ボスニア語: Trebinje, クロアチア語: Trebinje)はボスニア・ヘルツェゴビナの都市およびそれを中心とした基礎自治体で、同国を構成する構成体のうちスルプスカ共和国に属する。トレビニェはヘルツェゴヴィナ南東部にあり、アドリア海からは内陸に10数km入った場所に位置する。

トレビニェの語源はビザンツ帝国期のトラヴニア(Travunia)に由来し、最初にセルビア人によって支配されたビザンツ領でもある。9世紀半ば、セルビア公クネズ・ヴラスティミル(Knez Vlastimir)より都市国家(Župania)としての権利が与えられ、ヴラスティミルの娘婿であるクライナ(Krajina)が領有していた。ラグーサからコンスタンティノープルに至る道を押さえ、1096年にはレーモン4世と十字軍が横切っている。トラヴュニアの名の下、1355年までセルビア帝国の領有下にあった。その後、トレビニェは中世ボスニア王国のトヴルトゥコ1世により1373年その支配下に入る。トヴルドシュ修道院(Tvrdoš)は15世紀に遡る。

1482年、ヘルツェゴビナの他の領域と共にオスマン帝国の支配下に入る。旧市街であるカステルはオスマンによって造られ、中世の要塞であるバン・ヴィールが位置しトレビシュニツァ川の西岸に面する。城壁や旧市街の広場、二つのモスクは18世紀にレスルベゴヴィッチ家(Resulbegović)によって造られた。アルスラナギッチ橋(Arslanagić)はもともと16世紀にトレビニェの北5kmのアルスラナギッチ村にソコルル・メフメト・パシャとアルスラナギッチ家によって造られており、ボスニア・ヘルツェゴビナではオスマン期の橋として最も興味をひく橋の一つで大小2つずつの半円形のアーチがある。

1878年から1918年にかけてはオーストリア=ハンガリー帝国の支配となり、この間丘の上にはいくつかの要塞が築かれ町には駐屯地が置かれた。また、町の近代化も進み町の西側への開発、現在ある主要な通りや、いくつかの広場、公園、新たな学校やタバコ農園などが造られている。トレビニェが力強く成長したのは、1945年から1980年代にかけてのヨシップ・ブロズ・チトーによるユーゴスラビア社会主義連邦共和国の時代であった。水力発電ダムや人造湖、トンネルなどの開発が行われ、工業化が進むとトレビニェの人口は増加した。1992年から1995年にかけて起こったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、セルビア人勢力や警察部隊によってモスクの多くが破壊されている。ラヴノは紛争以前はトレビニェ基礎自治体に含まれていたが、紛争後はボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の自治体となっている。

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