のコンテキスト ドゥブロヴニク

ドゥブロヴニク(クロアチア語: Dubrovnik、イタリア語: Ragusa、ラテン語: Ragusium、ドイツ語: Ragusa, Ragus)は、クロアチア、アドリア海沿岸のダルマチア最南部に位置する都市及び基礎自治体で、ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の郡都である。日本語でドブロブニクドブロヴニクとも表記される。ボスニア・ヘルツェゴビナの唯一の海港であるネウムが回廊状態で分断しているため、クロアチア本土とは陸続きではない状態が長らく続いた。しかし2022年7月26日に本土側とペリェシャツ半島を結ぶペリェシャツ橋が開通し、両地区は陸続きとなった。

1979年に世界遺産に登録された旧市街は「アドリア海の真珠」とも謳われる美しい町並みを誇る。アドリア海沿岸でも傑出した観光地であり、多数のクルーズ船が寄港する他、地中海各都市とフェリーで結ばれドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の中心都市となっている。人口は2011年に行われた国勢調査で42,641人である。そのうち、約28,000人はドゥブロヴニク市街に居住している。2001年の国勢調査ではクロアチア人は住民の88.39%を占めていた。

ドゥブロヴニクは歴史的に海洋貿易によって栄えた都市で、中世のラグーサ共和国はアマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどと共に5つの海洋共和国に数えられ、アドリア海ではドゥブロヴニクのライバルとなりうる都市国家はヴェネツィア共和国だけであった。巧みな外交術と豊富な富に支えられ15世紀から16世紀にかけてはとくに発展している。1970年代、恒久的に戦争による破壊から守るために非武装化されたが、1991年のユーゴスラビア崩壊に伴う紛争でセルビア・モンテネグロ勢力によって7ヶ月間包囲(ドゥブロヴニク包囲)され砲撃により多大な損害を蒙った。

詳細について ドゥブロヴニク

Population, Area & Driving side
  • 人口 41562
  • 領域 142
履歴
  • 町の起源は古くローマ帝国時代、あるいはそれ以前に溯るとされている。町のイタリア語名ラグーザ[1] は、当時のラテン語名ラグシウムに由来する。歴史的に7世紀頃ラウス (Laus) と名付けられていた岩島に近くの都市エピダウロス (Epidaurus) からのダルマチア人の避難民が、スラヴ人の侵略から逃れるために成立したとされる[2] 他、8世紀からのビザンチンのバジリカや城壁の一部などの新たな考古学的な発見を基にした説もあり、従来からの説が異議を唱えられることもある。バジリカは当時、相当に大きな居住地が形成されていたことを示している。また、科学的な類似性によってラグーサは紀元以前に大規模な建築が行われた説も増えてきている。「ギリシャ説」は最近の発見によって増えてきており、ドゥブロヴニク港周辺での発掘で多くのギリシャ様式の遺物が発見されている。市内の主要道路の穴からは自然な砂が現れ、ラウス (Laus)、ラウサ島 (Lausa) 説は否定された。

    アントゥン・ニチェティッチ博士 (Antun Ničetić) の「ドゥブロヴニク港の歴史」(Povijest dubrovačke luke) によれば、ドゥブロヴニクはギリシャ人船員によって成立されたとしている。鍵となる要素は古代船は1日当たり45-50海里の航海をし、夜間は休息と停泊するための砂浜が必要であったことである。停泊地の理想としては新鮮な水源が付近にあることであった。ドゥブロヴニクは2つを兼ね備えており、ギリシャ人の居住地として知られたブドヴァとコルチュラ島の95海里離れた2つの地点を結ぶ中間に位置していた。

    ラグーサ共和国

    東ゴート王国崩壊後、町はビザンティン帝国の下保護国の都市国家として沿岸部のセルビア人などと交流があった。十字軍の後、ラグーサはヴェネチア主権(1205年-1358年)の下に入り、ダルマチアの都市として権利を得ている。1358年、ザダル平和条約が結ばれ隷属関係にあったハンガリー王国から独立を果たす。14世紀から1808年までラグーサは自由国として存続した。15世紀から16世紀にかけて最盛期を迎えヴェネツィア共和国や他のイタリアの海洋都市国家がライバルであった。1272年にラグーサ共和国は自治権を獲得し、ローマ法や地元の慣習を成文化している。法令には都市計画や公衆衛生上の検疫に関する規則も含まれていた[3]。

    ラグサ共和国の時代、この町ではイタリア系とスラヴ系の住民が一貫して共存し、共に繁栄を支えていた。もともとイタリア系住民が住んでいた島の部分とスラヴ系住民の住む対岸の集落の間にある海峡を埋め立てることによって、両者の一体化はさらに進んだ。共和国では早い段階から現代的な法体系が整備されており、1301年には医療制度が確立しており1317年に現在でも営業している最初の薬局が開業している。1347年に養老院が1377年には隔離病棟が開かれた。1418年には奴隷貿易は廃止され、1432年に孤児院が開かれている。1436年に約20kmの水道施設が完成している。そもそもこの町は後背地であるボスニアやセルビアで産出される鉱石の積出港として栄えていたが、15世紀にオスマン帝国がバルカン半島の内部へと進出してくるとその宗主権を認め、ヴェネツィアがオスマン帝国と度々戦争状態に入りその都度停滞したのとは裏腹に、かつてヴェネツィアが独占的に果たしていた東西交易の中での役割をより確かなものとしていった。貴族階級を含め、17世紀まで共和国の住人のほとんどはラテン由来の人々であったが周辺部からクロアチア人が移住するようになった。 同時期、スラヴ系とラテン系の住民が一緒に住むようになり、スラヴの要素とルネサンス期のイタリア文化が影響しあいラグーサはクロアチア文学のゆりかごとなった。

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    町の起源は古くローマ帝国時代、あるいはそれ以前に溯るとされている。町のイタリア語名ラグーザ[1] は、当時のラテン語名ラグシウムに由来する。歴史的に7世紀頃ラウス (Laus) と名付けられていた岩島に近くの都市エピダウロス (Epidaurus) からのダルマチア人の避難民が、スラヴ人の侵略から逃れるために成立したとされる[2] 他、8世紀からのビザンチンのバジリカや城壁の一部などの新たな考古学的な発見を基にした説もあり、従来からの説が異議を唱えられることもある。バジリカは当時、相当に大きな居住地が形成されていたことを示している。また、科学的な類似性によってラグーサは紀元以前に大規模な建築が行われた説も増えてきている。「ギリシャ説」は最近の発見によって増えてきており、ドゥブロヴニク港周辺での発掘で多くのギリシャ様式の遺物が発見されている。市内の主要道路の穴からは自然な砂が現れ、ラウス (Laus)、ラウサ島 (Lausa) 説は否定された。

    アントゥン・ニチェティッチ博士 (Antun Ničetić) の「ドゥブロヴニク港の歴史」(Povijest dubrovačke luke) によれば、ドゥブロヴニクはギリシャ人船員によって成立されたとしている。鍵となる要素は古代船は1日当たり45-50海里の航海をし、夜間は休息と停泊するための砂浜が必要であったことである。停泊地の理想としては新鮮な水源が付近にあることであった。ドゥブロヴニクは2つを兼ね備えており、ギリシャ人の居住地として知られたブドヴァとコルチュラ島の95海里離れた2つの地点を結ぶ中間に位置していた。

    ラグーサ共和国

    東ゴート王国崩壊後、町はビザンティン帝国の下保護国の都市国家として沿岸部のセルビア人などと交流があった。十字軍の後、ラグーサはヴェネチア主権(1205年-1358年)の下に入り、ダルマチアの都市として権利を得ている。1358年、ザダル平和条約が結ばれ隷属関係にあったハンガリー王国から独立を果たす。14世紀から1808年までラグーサは自由国として存続した。15世紀から16世紀にかけて最盛期を迎えヴェネツィア共和国や他のイタリアの海洋都市国家がライバルであった。1272年にラグーサ共和国は自治権を獲得し、ローマ法や地元の慣習を成文化している。法令には都市計画や公衆衛生上の検疫に関する規則も含まれていた[3]。

    ラグサ共和国の時代、この町ではイタリア系とスラヴ系の住民が一貫して共存し、共に繁栄を支えていた。もともとイタリア系住民が住んでいた島の部分とスラヴ系住民の住む対岸の集落の間にある海峡を埋め立てることによって、両者の一体化はさらに進んだ。共和国では早い段階から現代的な法体系が整備されており、1301年には医療制度が確立しており1317年に現在でも営業している最初の薬局が開業している。1347年に養老院が1377年には隔離病棟が開かれた。1418年には奴隷貿易は廃止され、1432年に孤児院が開かれている。1436年に約20kmの水道施設が完成している。そもそもこの町は後背地であるボスニアやセルビアで産出される鉱石の積出港として栄えていたが、15世紀にオスマン帝国がバルカン半島の内部へと進出してくるとその宗主権を認め、ヴェネツィアがオスマン帝国と度々戦争状態に入りその都度停滞したのとは裏腹に、かつてヴェネツィアが独占的に果たしていた東西交易の中での役割をより確かなものとしていった。貴族階級を含め、17世紀まで共和国の住人のほとんどはラテン由来の人々であったが周辺部からクロアチア人が移住するようになった。 同時期、スラヴ系とラテン系の住民が一緒に住むようになり、スラヴの要素とルネサンス期のイタリア文化が影響しあいラグーサはクロアチア文学のゆりかごとなった。

    共和国の経済は一部は土地の開発によってもたらされたが、大部分は海洋交易によるものであった。巧みな外交術は交易を助け、ラグーサの商品は自由に海を行き交い都市には巨大な商船団が存在した。各地で居住地も発見されている。多くのスペインやポルトガルからのマラーノやユダヤ人をラグーサはひき付けた。1544年、ほとんどをポルトガルの難民で占めた船が着岸したとバルタサール・デ・ファリア (Balthasar de Faria) がジョアン王に報告している。 隆盛を極めたラグーサ共和国だが、1667年に発生した壊滅的な地震の後、アドリア海交易の不振と相まって徐々に後退を始める。地震では5,000人を超える市民が死亡し、公共の建物のほとんどは破壊された [4]。 1699年、共和国はクロアチア本土にある2つの小区画の領地をオスマン帝国に売り、前へ進めるベネツィアの軍とオスマン軍との戦いに巻き込まれるのを避けた。今日、これらの土地はボスニア・ヘルツェゴビナに属しボスニア・ヘルツェゴビナでは唯一、アドリア海に接する町であるネウムである。

    1806年、周辺部をナポレオンの軍隊に包囲され、ロシア・モンテネグロ艦隊の3,000発の砲撃によってラグーサ共和国は1ヶ月の包囲に降伏した[5]。ナポレオンの最初の要求は自らの軍隊の自由な通行で、領土の占領や圧力ではなくフランスはラグーサの友人であるとした。しかしながらその後、フランスの軍は港を封鎖し共和国政府を強制し市内へ軍を進めた。1808年、オーギュスト・マルモンはラグーサ共和国を廃しナポレオンの初の国家となるイタリア王国に統合され、フランス支配下のイリュリア州となる。

    オーストリア=ハンガリー帝国

    1814年1月29日、オーストリア=ハンガリー帝国は町を占領しウィーン会議によって、ハプスブルク領ダルマチア王国の一部とされた。この時期の産業は限られており、いくらかの絹や皮革加工、酒造、油の生産などであった。週に3度、トルコのキャラバンが町のバザールにやって来た。ハプスブルク支配時の20世紀初期に観光開発が始まり、新たな港や1970年代まで存在したドゥブロヴニク市電が整備されている。フランツヨーゼフ1世やマクシミリアンの夏のヴィラが沖合いのロクルム島に築かれた。

    1921年から1991年

    第一次世界大戦後の1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が新たに後のユーゴスラビア王国となるスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の都市となる。都市の名称もラグーサから公式に現在のドゥブロヴニク変えられた。第二次世界大戦時にはナチスの傀儡国家であったクロアチア独立国の一部であった。イタリア陸軍が最初に占領しドイツ国防軍はその後、1943年9月8日に占領し始めている。1944年10月にチトー率いるパルチザンがドゥブロヴニクに入りその結果、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部となる。パルチザンは市内に入ると直ぐに約78名の市民に対し裁判無しに死刑を宣告した。その中にはカトリックの聖職者も含まれていた[6]。

    ユーゴスラビア崩壊

    それまで観光客で賑わっていたドゥブロヴニクへの砲撃は1991年から1992年にかけて続いた。1991年はユーゴスラビアから相次いでクロアチアやスロベニアが独立を宣言した年で、クロアチア社会主義共和国は現在のクロアチア共和国へ名称が変わっている。1970年代の早い段階で、世界遺産に登録されている旧市街地は戦争による惨事から避けるため非武装化が行われたが1991年の独立宣言後、ユーゴスラビア人民軍に残っていたセルビア・モンテネグロによって町は攻撃されている。

    当時モンテネグロの政権はセルビア人政府に忠誠を誓うモミル・ブラトヴィッチ (Momir Bulatović) が担っており、ドゥブロヴニクがクロアチアに残ることは歴史的にモンテネグロの一部である為に容認出来ないと宣言している[7]。この宣言にも関わらず、ドゥブロヴニク市内で多数を占めるのはクロアチア人でモンテネグロ人の居住者は少数であり、セルビア人は人口の6%を占めるだけであった[7]。この要求にはミロシェビッチが送り込んだ民族主義者の大セルビア主義が関係している。

    1991年10月1日にドゥブロヴニクにユーゴスラビア人民軍 (JNA) が攻撃を開始し、その後ドゥブロヴニク包囲が7ヶ月間続いた。12月6日には最大の砲撃が行われ、19人が死亡し60人が負傷している。クロアチア赤十字社によればこの攻撃により114人が死亡したとされ、ドゥブロヴニク包囲では犠牲者に著名な詩人であるミラン・ミリシッチ (Milan Milisić) が含まれていた。海外メディアは旧市街の損害や人的犠牲を大きく大袈裟なくらいに批判した[8]。紛争終結後は砲撃による旧市街の損害は復旧が進んだ。修復はユネスコのガイドラインに忠実に元来の姿に戻されている。2005年にはもっとも被害を受けた箇所も復旧しており、紛争の被災地を示した地図を城門近くで見ることが出来る。旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷でのJNAの大将や将校の起訴内容にはこの砲撃も含まれている。

    ^ [1] ^ Researches on the Danube and the Adriatic by Andrew Archibald Paton (1861). Contributions to the Modern History of Hungary and Transylvania, Dalmatia and Croatia, Servia and Bulgaria-Brockhaus Chapter 9. page 218 ^ Naklada Naprijed, The Croatian Adriatic Tourist Guide, pg. 354, Zagreb (199), ISBN 953-178-097-8 ^ Earthquake Monitoring and Seismic Hazard Mitigation in Balkan Countries by Eystein Sverre Husebye ^ Dalmatia and Montenegro: Volume 2 by Sir John Gardner Wilkinson ^ “Nakon ulaska partizana u Dubrovnik u listopadu 1944.: Partizani pogubili hrvatske antifašiste | Izdvojeno | Glas Koncila”. Glas-koncila.hr. 2008年11月11日閲覧。 ^ a b Srđa Pavlović. “Pavlovic: The Siege of Dubrovnik”. Yorku.ca. 2010年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年11月11日閲覧。 ^ Joseph Pearson, 'Dubrovnik’s Artistic Patrimony, and its Role in War Reporting (1991)' in European History Quarterly, Vol. 40, No. 2, 197-216 (2010). [2]
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