قناة السويس

( スエズ運河 )

スエズ運河(スエズうんが、قناة السويس qanāt as-suwēs)は、地中海と紅海をスエズ地峡で結び、アフリカとアジアを分断するエジプトの人工海面水路である。1859年から1869年にかけてスエズ運河会社によって建設され、1869年11月17日に正式に開通した。スエズ運河は、地中海と紅海を経由して北大西洋と北インド洋を結ぶ水路で、アフリカ大陸を回らずにヨーロッパとアジアを海運で連結することができる。例えばアラビア海からロンドンまでの航行距離を約8,900km短縮する。2012年には、17,225隻(1日平均47隻)の船舶が運河を通過した。運河は北端のポートサイドと南端のスエズ市タウフィーク港を結び、中間点より北に3キロメートルの運河西岸にはイスマイリアがある。

建設当初のスエズ運河は全長164キロメートル (102 mi)、深さ8メートル (26 ft)だったが、その後何度かの拡張工事を受け、現在では全長193.30キロメートル (120.11 mi)、深さ24メートル (79 ft)、幅205メートル (673 ft)となった。

スエズ運河は南北どちらかの一方通行で運営され、船のすれ違いはバッラ・バイパス(Ballah By-Pass)やグレートビター湖など4か所で可能である。運河には閘門が無いため海水は自由に流れ、主に夏にはグレートビター湖から北へ、冬は南へ水流が生じる。潮目の変化は湖の南で起こる。

運河はエジプト政府の所有物であるが、1956年7月に大統領ガマール・アブドゥル=ナーセルが運河を国有化するまでは、フランスやイギリスを中心としたヨーロッパの株主が運河を運営するコンセッション会社を所有しており、このことが1956年10月から11月にかけてのスエズ危機の原因となった。スエズ運河は、エジプトの国営スエズ運河庁(SCA)によって運営・維持されている。スエズ運河の自由航行に関する条約では、「戦時においても平時においても、通商または戦時のすべての船舶が旗の区別なく使用することができる」とされている。とはいえ...続きを読む

スエズ運河(スエズうんが、قناة السويس qanāt as-suwēs)は、地中海と紅海をスエズ地峡で結び、アフリカとアジアを分断するエジプトの人工海面水路である。1859年から1869年にかけてスエズ運河会社によって建設され、1869年11月17日に正式に開通した。スエズ運河は、地中海と紅海を経由して北大西洋と北インド洋を結ぶ水路で、アフリカ大陸を回らずにヨーロッパとアジアを海運で連結することができる。例えばアラビア海からロンドンまでの航行距離を約8,900km短縮する。2012年には、17,225隻(1日平均47隻)の船舶が運河を通過した。運河は北端のポートサイドと南端のスエズ市タウフィーク港を結び、中間点より北に3キロメートルの運河西岸にはイスマイリアがある。

建設当初のスエズ運河は全長164キロメートル (102 mi)、深さ8メートル (26 ft)だったが、その後何度かの拡張工事を受け、現在では全長193.30キロメートル (120.11 mi)、深さ24メートル (79 ft)、幅205メートル (673 ft)となった。

スエズ運河は南北どちらかの一方通行で運営され、船のすれ違いはバッラ・バイパス(Ballah By-Pass)やグレートビター湖など4か所で可能である。運河には閘門が無いため海水は自由に流れ、主に夏にはグレートビター湖から北へ、冬は南へ水流が生じる。潮目の変化は湖の南で起こる。

運河はエジプト政府の所有物であるが、1956年7月に大統領ガマール・アブドゥル=ナーセルが運河を国有化するまでは、フランスやイギリスを中心としたヨーロッパの株主が運河を運営するコンセッション会社を所有しており、このことが1956年10月から11月にかけてのスエズ危機の原因となった。スエズ運河は、エジプトの国営スエズ運河庁(SCA)によって運営・維持されている。スエズ運河の自由航行に関する条約では、「戦時においても平時においても、通商または戦時のすべての船舶が旗の区別なく使用することができる」とされている。とはいえ、運河は海軍のショートカットやチョークポイントとして、軍事戦略上重要な役割を果たしてきた。地中海と紅海の両方に海岸線と基地を持つ海軍(エジプトとイスラエル)は、特にスエズ運河に関心を持っている。

2014年8月、エジプト政府は、スエズ運河の通過時間を短縮するために、バラ・バイパスを35km拡張・拡幅する工事に着手した。この拡張工事は、スエズ運河の容量を一日あたり49隻から97隻へと約2倍にすることを目的としている。費用は594億エジプトポンド(90億ドル)で、エジプトの企業や個人に限定して発行された有利子の投資証明書で賄われた。新スエズ運河と名付けられたこの拡張工事は、2015年8月6日の式典で華々しく開通した。

2016年2月24日、スエズ運河庁は新しい側水路を正式に開通させた。この側水路は、スエズ運河の東延長部の北側に位置し、イースト・ターミナルに船舶を接岸・離岸させるためのものである。イースト・コンテナ・ターミナルはスエズ運河上に位置しているため、新航路が開通するまでは、護衛艦の走行中にターミナルへの接岸・離岸を行うことはできなかった。

検討

建設に立ちはだかる海面の高低差は意識され続けたが、ヨーロッパから東へ抜ける海路を大幅に短縮する運河への希求は消えることは無かった。1830年、フランシス・ロードン・チェスニーがイギリス政府へ提出した報告書では、紅海と地中海には海面差が無く運河建設は可能であると述べられていたが、これによってイギリスが何らかの行動を起こすことは無かった。トーマス・フレッチャー・ワグホーン(英語版)は、スエズ陸峡を繋ぐ馬車輸送を整備し、ヨーロッパとインドを結ぶ郵便経路を約3か月から、35日ないし40日までに短縮した[1]。

 イスマイリアのスエズ運河。1860年。この2年後に同地区の運河は完成する。

フランスの冒険家リナント・デ・ベレフォンズ(英語版)エジプト公共事業省(英語版)の主任技師となり、シナイ半島を調査して運河建設の計画に当たった。1833年、主に技術者集団から構成されるフランスのサン・シモン教が、東西両洋の融和という観点から運河に興味を持った。同教設立者のひとりバルテルミー・プロスペル・アンファンタン(英語版)は、ムハンマド・アリーと接触を持って運河へ関心を向けさせようとしたが、これは徒労に終わった。1836年にはオーストリア帝国で鉄道開通に尽力したアロイス・ネグレッリ(英語版)も運河に着目した。このような流れの中、1846年にアンファンタンはスエズ運河研究会(Société d'Études du Canal de Suez)を開催し、ロバート・スチーブンソン、ネグレッリ、ポール・エイドリアン・ブルダルーらがベレフォンズの協力を受けながらスエズ運河の検討を行った。この時にブルダルーが調査した結果から、地中海と紅海には海面の高度に差がないということが広く知られるようになった。しかし、イギリスは影響力を持つインド貿易が、自由に通行できる運河開通によって脅かされるのではと懸念し、その一方でアレキサンドリアからカイロを経由しスエズに至る鉄道を敷設するほうが好ましいと考えた。この鉄道は後にスチーブンソンによって開通した。

建設  1881年に描かれたスエズ運河の風景画

1854年と1856年にフェルディナン・ド・レセップスは、万国に開かれたスエズ運河建設を行う会社の設立について、エジプト総督のサイード・パシャから利権を得た。この会社は運河開通から99年間の事業権も獲得した。この背景には、1830年代にフランス駐エジプト大使だった頃にレセップスが培った人間関係が功を奏した。利権にある通り、レセップスは7か国から集めた13人の専門家をメンバーとするスエズ地峡開削検討国際委員会(英語版)(Commission Internationale pour le percement de l'isthme des Suez)を開催した。その中にはロンドンの土木技師学会会長のマックリーン、リナント・デ・ベレフォンズの計画を説明し実現の可能性と最適な運河路についての助言を求められたアロイス・ネグレッリらが参加した。エジプトで測量と分析そしてパリで何度も議論が行われ、ネグレッリの様々なアイデアが織り込まれながら運河についてあらゆる角度から検討が加えられ、1856年12月に委員会は満場一致で運河の全体像と詳細に関する報告書を纏め上げた[2]。1858年12月15日、スエズ運河会社(The Suez Canal Company, Compagnie Universelle du Canal Maritime de Suez)が設立され、現在のポートサイド沿岸で建設が開始された。

掘削は、エジプト人の強制労働(Corvée、コルヴェ、「賦役」の意)も使われながら約10年間掛かった。ある説によれば、30,000人が常時使役され続け、様々な国からのべ150万人がこの労働に従事したという。そして、数千人がこの労働で死亡したとも見積もられる[3]。また、工事にはフランスで発明された蒸気駆動の土木建機ラダーエキスカベータも使用された。

運河建設に一貫して反対の立場だったイギリスは、外交的な駆け引きのひとつとして、運河建設における労働者の扱いが1830年にヨーロッパで禁止された奴隷的だとして公式に非難した。その一方で、イギリス海軍の強大な海軍力を背景に武装化ベドウィンを送り込み、労働者の反乱を煽った。建設における過酷な労働条件は改善され、総督は計画に支障を及ぼすコルヴェを停止した[3]。このイギリスの行動にレセップスは大いに怒り、数年前にイギリスが建設したエジプト鉄道の際に政府が労働者に強いた労働とそれによって多くの死者が出たことを取り上げた非難の手紙をイギリス政府に送りつけた。

スエズ運河会社の国際的評判は芳しくなく、その株式には当初あまり買い手がつかなかった。フランスの株式市場では瞬く間に完売したが、イギリス、アメリカ合衆国、オーストリア、ロシアでは全く売れなかった。当時のイギリスでは以下のような懐疑論があった。

ひとつ確かな事は...当地の市場はこの大事業に手ごたえを感じておらず、運河の収益がその維持費さえ賄えるか疑問を持っている。どうやっても、(運河は)大きな船舶が航行できるようなものにはなり得ないだろう[3]。
開通  19世紀、スエズ運河開通直後の風景 スエズ運河の航空写真。1934年2月にスイスのパイロット兼写真家ヴァルター・ミッテルホルツァー(英語版)が撮影。

多くの技術的、政治的、財政的問題は克服されたが、それでも運河の総建設費は当初予想の2倍に膨らんだ[4]。そして1869年11月17日午前8時[5]、スエズ運河は開通した。

「東と西の結婚」と形容された開通式では[6]、フランス皇后ウジェニーが乗る皇室所有のエーグル号が先頭を切り[5]、イギリス帝国のP&O liner社船が続く[7]総勢48隻がポートサイドから運河を渡り[5]、オーストリア皇帝などヨーロッパ中から1000名以上の賓客が出席した[6]。

1867年以来、大日本帝国に駐在したイギリス帝国外交官ミットフォードは、1870年に帰国のため、シンガポールからマルセイユまで搭乗したフーグリー号が「開通式に披露行事として通った船を除けば、我々の船が、営業開始後の一番目の船」となったと回顧している[8]。

運河開通直後、スエズ運河会社は財政難にあった。完工は1871年まで長引き、当初の2年間は運河利用数は予想を下回った。収益を改善するためレセップスは、1854年にイギリスの商船法へ導入された理論上の総トン数(en:Net tonnage)で通行料を決めるムーアサム・システム(Moorsom System)に加え、船舶の実積載能力を算出基礎とする追加口銭(tonneau de capacité)を上乗せする改訂を行った。続いて行われた商業上および外交的交渉の結果、コンスタンティノープルで国際委員会が開かれ、1873年12月18日付け議定書にて純トン数(net tonnage, NT)の基準と料金表が定められた[9]。これは、現在でも用いられるスエズ運河トン数(Suez Canal Net Tonnage, SCNT)とスエズ運河特殊トン数(Suez Canal Special Tonnage Certificate, SCSTC)の起源となった。

運河開通は、世界貿易に劇的な効果をもたらした。6か月前に完工していた北アメリカの大陸横断鉄道と接続することで、世界一周する時間は大きく短縮された。さらにヨーロッパ諸国によるアフリカ大陸の植民地化に拍車をかけた。運河建設には一貫して反対して来たイギリス帝国だったが、蓋を開けてみると、スエズ運河を通過する船の8割がイギリス船籍だった[6]。

なお、1873年に大日本帝国の岩倉使節団も帰路に、スエズ運河を航行しており、当時の運河の様子が記録されている[10]。

イギリスによる介入

当時のエジプトはオスマン帝国支配下にあった。1875年、サイード・パシャの後任イスマーイール・パシャは、かさむ対外債務のためにやむを得ずエジプトが持つスエズ運河会社の株式を400万ポンドで手放す決意をした。この情報を入手したイギリスは国策を転換し、急遽資金を調達してこの株を購入、スエズ運河の株44%を保有する筆頭株主となった[6]。この決断をしたイギリスの首相ベンジャミン・ディズレーリは、議会の承認なしに事を進め、購入資金をロスチャイルド家から借り受けたことがイギリスの憲法制度に反するとウィリアム・グラッドストンに告訴された[11]。

1882年にウラービー革命で起こった暴動を口実に、イギリスはエジプトに軍事介入を続け、1888年にはスエズ運河の自由航行に関する条約(Convention of Constantinople)にてスエズ運河はイギリス管轄下の中立地帯と定められ、第一次世界大戦を経てイギリス軍の駐留が続いた。これは1915年にオスマン帝国から攻撃を受けた際、戦略上重要な防衛線となった[12](「中東戦域 (第一次世界大戦)」も参照)。1936年のアングロエジプト条約(イギリス・エジプト同盟条約)ではイギリスが運河の管理権を主張し、スエズ運河に軍隊を駐留させた[13]。

1951年10月8日、エジプト政府は、第二次世界大戦後も過剰な居座り状態を続けるイギリス軍に対し、アングロエジプト条約の破棄を宣言して軍の撤退を要求した。さらにストライキで端を発した運河労働者らエジプト住民にも反英行動が広がった。イギリスはアメリカ合衆国、フランス、トルコと共同で運河を防衛する同盟をエジプトにも呼び掛けつつ、治安維持名目で住民デモへの発砲や施設占領などの強行策にも出た。この事態は、民衆運動がゲリラ活動など民族闘争まで発展し、エジプト王国を脅かすところまで及んだため国王が中心となって妥協が図られ、イギリス軍は駐屯を維持された。しかしこの事件によってエジプトの社会・経済体制の矛盾が露呈し、6か月後のエジプト革命に繋がる一因となった[13]。

 ナーセル大統領(中央)。彼が執った中立外交政策に振り回されたイギリスとフランスは、結果的に運河の利権を喪失した[14]。右はソ連首相フルシチョフ。スエズ危機

中立外交政策を取る共和国制エジプトがソ連と交渉を持ったことを理由に英米がアスワンダム建設支援の公約を取り下げたことが発端となり、エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル大統領は1956年7月26日にスエズ運河を国有化してスエズ運河庁へ管理を移管させる宣言を行った[14]。これに対抗してイギリス、フランス、イスラエルが密約を交わして軍事行動を起こし、スエズ危機と呼ばれる第二次中東戦争が勃発した。イスラエルが陸上から侵攻し、イギリスとフランスが空軍および支援活動を行った。しかしこの作戦にアメリカは参加せず、イギリスはアラブ諸国や反植民地主義世論から厳しい批判を受けるようになった[14]。

戦線が拡大して惨憺たる状態となったイギリスを救うため、カナダの外相レスター・B・ピアソンが、スエズ運河通行の安全確保とイスラエルのシナイ半島撤退実行を目的とした初めての国連平和維持軍創設を提唱した。1956年11月4日、国連加盟国の大部分が、国連平和維持軍がシナイ半島に駐留してエジプトとイスラエルが双方軍を撤退させるまで委任統治を行うというピアソン案を支持し、採択された[14]。アメリカもこれを支持し、イギリスポンドを売却して価値を下げる圧力をイギリスに掛け、同国の軍撤収を認めさせた。ピアソンには、後にこの功績が讃えられノーベル平和賞が贈られた。スエズ運河はエジプト軍が故意に船を沈没させて強制的に閉鎖されていたが[15]、1957年4月に国連の支援で撤去され、再開通した。運河とシナイ半島の中立を維持するため、第一次国際連合緊急軍(United Nations Emergency Force, UNEF)が設立された。

第三次・第四次中東戦争

1967年5月、ナーセル大統領は国連平和維持軍に対してスエズ運河を含むシナイ半島からの撤収を求めた。イスラエルは反対したが、国連はこれを認めて軍を引き揚げ、エジプトはイスラエル国境まで軍を駐留させ、チラン海峡のイスラエル籍船の航行を封鎖した。なお、スエズ運河のイスラエル船利用は、1951年 - 1952年の短い期間を除き、1949年以来認められていなかった。

この事態が1967年6月にイスラエルをエジプトへの先制攻撃に駆り立て、シナイ半島とスエズ運河制圧に乗り出させた。こうして起こった第三次中東戦争の期間、封鎖された。さらに第三次中東戦争の結果、イスラエルはスエズ運河まで進撃し、運河はエジプトとイスラエルが対峙する前線となった。このため、通航不能状態が続き、運河には黄色い船団(英語版)と呼ばれることになる14隻の貨物船が8年間にわたって閉じ込められた。1973年10月の第四次中東戦争中、運河はイスラエルが占拠したシナイ半島に向かうエジプト軍と、エジプト本土に攻め込むイスラエル国防軍とが相互に渡河作戦を実施している。運河周辺には、戦車などこの戦争の残骸が記念碑として残されている。

 アメリカ海軍のRH-53Dが運河を掃海する様子(1974年)

第四次中東戦争後、イスラエルとエジプトは和平の方向に向かい、運河再開に向けて動いている。シナイ半島には第二次国際連合緊急軍が展開し、両国の兵力引き離しを行なった。1974年5月から12月には、第四次中東戦争でスエズ運河に撒かれた機雷を排除するため、アメリカの強襲揚陸艦イオー・ジマが12機のRH-53Dを積載して現地に向かい、掃海作業および不発弾撤去のNimbus Moon作戦を実行した。これによって、湖沼部を含む運河にあった機雷の99%が掃討され[16]、1975年に運河通行は再開された[17]。

第二次国際連合緊急軍は1979年に展開期限を迎えた。アメリカ、エジプト、イスラエルを始めとする諸国が1979年のエジプト・イスラエル平和条約に基づき、平和維持に関して国連の役割を強めようとしたが、シリアの反対を受けたソ連が国際連合安全保障理事会にて賛同せず、これは実現しなかった。そこで、1981年に多国籍軍監視団(MFO)が創設され、イスラエルの段階的撤退を後押しした。これは、アメリカ、イスラエル、エジプトの合意下で実施された。

拡張工事  スエズ運河の新しい水路

工事費80億ドルをかけて約1年にわたり運河の拡張や浚渫を行い、190キロ区間のうち72キロ区間で新水路の新スエズ運河を建設して、2015年8月6日に開通した。エジプト政府は、これにより1日平均の通航船舶量が現在の49隻から97隻に倍増し、通行量も2.5倍になると見込んでいる[18][19][20][21]。

エジプト政府は運河沿いを経済特区に指定し、工場誘致を進めている[22]。

エヴァーギヴンによる交通遮断

2021年3月23日には、強風に煽られたこと、また砂嵐による視界不良が原因で進路を誤った大型コンテナ船エヴァーギヴンが運河を塞ぐ形で座礁。大渋滞を引き起こした[23]。経済的な影響は大きく、毎時間400億円を超える規模と報道された[24]。

2023年パレスチナ・イスラエル戦争の余波

2023年パレスチナ・イスラエル戦争が始まると、2015年から継続しているイエメン内戦を戦うフーシ派(フーシ)はイスラエルに関係する船舶に攻撃を行うことを表明した。同年11月19日には、フーシ派が紅海で日本郵船が運行していた自動車輸送船(バハマ船籍でイギリスの企業が所有)を拿捕した[25]。その後も、フーシ派による船舶の攻撃は約1か月半の間に少なくとも23回に上り[26]、欧州の海運業者の中にはスエズ運河の利用を控える動きがみられた[27]。

^ “THOMAS FLETCHER WAGHORN” (英語). THE EGYPT STUDY CIRCLE. 2010年8月21日閲覧。 ^ Percement de l'isthme de Suez. Rapport et Projet de la Commission Internationale. Documents Publiés par M. Ferdinand de Lesseps. Troisième série. Paris aux bureaux de l'Isthme de Suez, Journal de l'Union des deux Mers, et chez Henri Plon, Éditeur, 1856. On Google Books (french) ^ a b c Uwe Oster. “Le canal de Suez” (ドイツ語). arte.tv. 2011年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年8月28日閲覧。 ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「Funanushi」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ a b c 日本工営(株)山田耕治. “土木遺産の香 第47回 二つの海を繋ぐ古代からの夢「スエズ運河」” (PDF). 建設コンサルタンツ協会. 2010年8月28日閲覧。 ^ a b c d 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「chichukai」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ Ken Lewis (1904-02、1905-09). “The Suez Canal” (英語). The Rosso-JapaneseWar Research Society. 2010年8月28日閲覧。 ^ 『英国外交官の見た幕末維新』A.B.ミットフォード著、長岡祥三訳、講談社学術文庫1349、1998年、254 - 255頁。原著、1915年。長岡訳初版、新人物往来社、1985年。 ^ “Protocol of the Commission” (フランス語). Documents diplomatiques. 2010年8月28日閲覧。 ^ 久米邦武編『米欧回覧実記・5』田中彰・校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、256 - 264頁 ^ Stephen J. Lee, Gladstone and Disraeli. ラウトレッジ, 107 ^ First World War - Willmott, H.P. DK社, 2003, Page 87 ^ a b 藤田進. “1951-52年スエズ運河地帯における英占領軍撤退要求民衆闘争について -エジプト現代史資料に拠る一考察-” (PDF). 関東学院大学『経済系』第238集. 2010年8月28日閲覧。 ^ a b c d 池田亮「スエズ危機と1950年代中葉のイギリス対中東政策」『一橋法学』第7巻第2号、一橋大学大学院法学研究科、2008年7月、489-510頁、doi:10.15057/15894、ISSN 13470388、NAID 110007620113、2020年7月7日閲覧  ^ 小山洋司. “国際関係論から比較経済体制論へ” (PDF). 新潟大学経済学部. 2016年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年8月28日閲覧。 ^ “アーカイブされたコピー”. 2013年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月2日閲覧。 ^ 五洋建設・スエズ運河改修プロジェクト 6月5日に再開記念式典 ^ http://diamond.jp/articles/-/76169/ 「第2スエズ運河」開通! エジプト経済再興の陰に“剛腕大統領”の存在 ^ “スエズ運河 拡張工事が完了 通過時間短縮へ”. (2015年8月7日). オリジナルの2015年8月6日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20150806222044/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150807/k10010181311000.html 2015年12月14日閲覧。  ^ “スエズ運河の拡張工事終了 新しい水路の開通記念式典”. Yahoo!Japanニュース. オリジナルの2015年8月8日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20150808121822/http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20150807-00000582-fnn-int 2015年12月14日閲覧。  ^ 「エジプト、スエズ運河の拡張工事完了 収入増見込む」CNN ^ “スエズ運河開通150年 投資拠点に、中国が関心”. 47News. 共同通信 (2019年11月15日). 2020年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月1日閲覧。 ^ “スエズ運河で巨大コンテナ船座礁 航路ふさぎ渋滞発生”. AFP (2021年3月24日). 2021年3月25日閲覧。 ^ “座礁、毎時間436億円の損害 スエズ運河の航行停止で台湾紙”. this.kiji.is. 共同通信 (2021年3月25日). 2021年3月26日閲覧。 ^ 田尾茂樹 (2023年11月20日). "紅海で乗っ取られた日本郵船運航の輸送船、イエメンの武装勢力は「イスラエルの船」と声明". 読売新聞オンライン. エルサレム: 読売新聞社. 2024年1月4日閲覧 ^ 秋山信一; 金子淳 (2024年1月4日). "米、商船攻撃やめぬフーシ派に「警告はこれで最後」 軍事行動示唆か". 毎日新聞. ワシントンD.C.; カイロ: 毎日新聞社. 2024年1月4日閲覧 ^ "コンテナ船大手、スエズ運河航行回避へ 紅海での攻撃受け". ロイター. ロイター. 2023年12月18日. 2024年1月4日閲覧
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