نهر النيل

( ナイル川 )

ナイル川(ナイルがわ、アラビア語: نَهْرُ النِّيلِ‎(nahr al-nīl(=nahr an-nīl), ナフル・アン=ニール/ナハル・アン=ニール)、英語: the Nile、フランス語: le Nil)は、アフリカ大陸北東部を概ね北へと流れ地中海に注ぐ、アフリカ大陸で最長級の河川である。長さは6650 km、流域面積は2,870,000 km2に及ぶ。ナイル川の流域国は10か国である。

エジプト口語ではその大きさゆえに بَحْرُ النِّيلِ(baḥr al-nīl(=baḥr an-nīl), バフル・アン=ニール/バハル・アン=ニール)すなわち「ナイル海」とも呼ばれている。

 ナイル川を指すヒエログリフ。発音は Iteru である。 メロエのピラミッド群を、上空から撮影した写真。 紀元前6世紀頃に作成された、アナクシマンドロスによる世界地図の再現図。 紀元前450年頃に作成された、ヘロドトスによる世界地図の再現図。中流域より下流側

ナイル川流域、特に下流のエジプトは、世界で最も古い文明の興った土地として知られている。エジプト語では「大きな川」という意味の Iteru と呼ばれた。紀元前3800年頃には既に古代エジプト文明が成立しており、紀元前3150年頃には統一国家を形成してエジプト古王国が成立し、以後も肥沃なナイル川流域を基盤として独自の文明を築いた。その南の地域であるヌビアにおいても、エジプト文明の影響を受けて王国が形成され、紀元前2200年頃にはクシュ王国が建国された。クシュはエジプト新王国のトトメス1世によって滅ぼされたものの、紀元前900年頃に、ナイル第4急湍の傍らに形成された都市であるナパタ(ゲベル・バルカル)において再興し、紀元前747年には逆に第3中間期のエジプトに攻め込んでエジプト第25王朝を建設した。その50年後にアッシリアのアッシュールバニパルに敗れて第25王朝はエジプト支配を失ったが、ナパタの王朝はそのまま存続し、紀元前6世紀頃に南のメロエへ遷都後も長く栄えた。メロエは鉄鉱石と樹木が豊富であり、盛んに製鉄が行われた。

やがて下流のエジプトはペルシア帝国に支配され、アレクサンドロス帝国に支配された後、ギリシア系のプトレマイオス朝の元で独立を回復した。しかし紀元前30年のクレオパトラ7世の時代に、アクティウムの海戦によってローマ帝国に支配され独立を失い、皇帝直轄地のアエギュプトゥスとなった。

一方でヌビアの独立は、この時代も保たれた。メロエの王国が滅ぼされたのは350年頃で、エチオピア北部を本拠とするアクスム王国によってとされているが、異説もある。メロエ滅亡後、ヌビアは北のノバティア、ドンゴラを首都とする中部のマクリア、ハルツーム周辺を本拠とする南のアロディアの3王国に分かれた。

395年にはローマ帝国は東西に分裂し、エジプトは東ローマ帝国領となった。4世紀から5世紀にかけてはエジプトでもヌビアでもキリスト教が受け入れられたが、639年のイスラム帝国の侵攻によってエジプトは征服され、以後イスラム化した。なお、その後もヌビア地域ではキリスト教王国が長く命脈を保ったものの、北のイスラム勢力からの圧力によって徐々に弱体化し、最後まで残ったアロディアも14世紀頃には滅亡して、イスラム教徒によるフンジ王国(英語版)などが建国された。19世紀に入るとエジプトでオスマン帝国から半独立の王朝を作り上げたムハンマド・アリーがヌビアへと侵攻し、フンジ王国を滅ぼし、さらにその南に居住するヌエル人やディンカ人やシルック人を征服して、現在のスーダンの版図に至る中流域をエジプトの支配下に組み入れた。イスマーイール・パシャの時代にはさらに南下して、1869年にはスーダン南端のゴンドコロ(現在のジュバ)まで侵攻して支配下にして赤道州を設置し、1874年にはチャールズ・ゴードンを初代総督に任命してウガンダ方面への進出を図った。

上流域

上流域においては難所や急流によって中下流域とは断絶され、ほとんど互いに無関係な歴史を歩んだ。15世紀頃にはヴィクトリア湖畔に領域国家が出現し、19世紀に入ってモンバサなどのインド洋沿岸のスワヒリ文化圏からのキャラバン・ルートが上流域に到達して、ブニョロ王国やブガンダ王国などが、インド洋で営まれていたアラブ人による交易圏と遠距離交易を行いながら繁栄した。

源流の探索

ナイル川源流が一体どこなのかを探る調査は、古代より行われていた。しかし、スッドの沼沢地など、ナイル川上の航路の難所を越えられず、源流は長らく不明のままであった。古代の地理学者もナイルの源については知らず、推測によって地図を描くしかなかった。紀元前5世紀のヘロドトスは、ナイル川は西アフリカから東進した後に北上してエジプトに流れ込んでいるのだろうと考えていた。1世紀にはギリシアのディオゲネスという船乗りが、インド洋交易の帰途に東アフリカの海岸から内陸部に入り込み、25日間にわたってナイルの源流を求めて奥地へ旅をしたとされる。彼の報告に基づき、2世紀の地理学者のクラウディオス・プトレマイオスは、「月の山脈」とその麓の2つの湖がナイル川の水源であると考えた。

アラブ人もナイル川の源流の場所は知らず、1355年に出版されたイブン・バットゥータの著書『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』でも、ニジェール川を「ナイル」と記し、ニジェール川はナイル川の支流だと考えていた記載が残る[1]。

16世紀頃からエチオピアとヨーロッパとの交流が始まった結果、青ナイル周辺の地理は判明し始め、1615年にはポルトガルのイエズス会の修道士であったペドロ・パエス(英語版)がタナ湖を発見した。1770年にはスコットランド人の探検家のジェームズ・ブルースが探検を行い、彼によって青ナイル川の源流がタナ湖であるとヨーロッパ人にも知られるようになった。

しかし、白ナイル川の源流については不明のままであった。

19世紀初頭には北のエジプトの総督がスーダン進出と同時にナイル川の源流探査を行い、1842年にはゴンドコロまで達したものの、その南までは進めなかった。19世紀中盤に入るとヨーロッパ人のアフリカ探検が盛ん行われ、ナイル源流の探索も、その主要なテーマの1つであった。1858年にイギリス人の探検家のジョン・ハニング・スピークが、ヴィクトリア湖を発見した。彼はリチャード・フランシス・バートンと共同でナイル川の水源を探す探検を行い、まず2人でタンガニーカ湖を発見した。その後、体調不良でタンガニーカ湖畔に残ったバートンを置いてスピークは探検を進め、1858年8月3日に、ムワンザでヴィクトリア湖を「発見」した。この湖をナイル川の水源だと信じたスピークは、時のイギリス女王ヴィクトリアの名を取り「ヴィクトリア湖」と命名した。しかし、スピークの探検では、ヴィクトリア湖がナイル川の水源だとは確認できなかったため、タンガニーカ湖がナイル川の源流だと考えたバートンと、ヴィクトリア湖がナイルの源流だと考えたスピークによる大論争が勃発した[2]。この論争に決着を付けるべく、スピークは1860年9月よりジェームズ・オーガスタス・グラントと一緒にザンジバルを出発して再び探検を行い、1862年7月28日に、ヴィクトリア湖北岸のジンジャから大きな川が北へと流れ出していると確認した[3]。スピークはこの流出地点にある滝をリポン滝(英語版)と命名し、これで謎は解明されたと考えて帰路に着いた。ただ、この探検でも謎は残ったままで、論争はさらに続いた。1864年9月には両者の討論会が予定されていたが、その前日にスピークは銃の暴発事故で死亡した。この死には不明な部分が多く、さらに論争の一方の当事者が死去してしまったため、ナイル源流論争はさらに混乱した。その上、サミュエル・ベーカーとフローレンス・ベーカーのベーカー夫妻が1864年3月14日にアルバート湖を発見し、1866年にその結果を発表したため、混乱は頂点に達した。

これらの論争を受けて、デイヴィッド・リヴィングストンがこの地域を探検した。彼はベーカーよりもさらに南のルアラバ川(英語版)と、その源流のザンビア領内のバングウェウル湖がナイルの源流であろうと考え、探査を行った。この探検の途中でリヴィングストンはヨーロッパとの連絡が一時途絶え、アメリカ合衆国の新聞社が派遣したヘンリー・モートン・スタンリーと、ウジジの村で邂逅するなど困難を重ねたが、源流の確定には至らず客死した。その跡を継いだヘンリー・モートン・スタンリーは1875年に、リポン滝を確認した後で湖を周遊し、これによってヴィクトリア湖がナイル川の源流であると確定された[4]。

ただ、その後も、ヴィクトリア湖に流れ込む川の探検が続けられ、カゲラ川やその支流のルヴィロンザ川(英語版)などが、ナイルの源流とされるようになってきた。

しかし、真の源流の探索は21世紀に入っても依然として続けられており、2006年にもブラジルとニュージーランドの探検家が新しい源流を発見した。

植民地化

ナイル川の源流がほぼ確定されると、イギリスなどのヨーロッパ列強が、この地域に手を伸ばし始めた。特に最下流のエジプトに強力な利害を持つイギリスが熱心であった。もしナイル上流が他の列強によって支配された場合、ナイルの水に頼っているエジプトが甚大な被害を被る可能性があったからである。こうした中、エジプトの圧政に耐えかねた人々の中からムスリムのシャイフであるムハンマド・アフマドが、1881年にマフディー戦争を起こした。1882年にエジプトを保護国化したイギリスはチャールズ・ゴードンを派遣したものの、1885年にはハルツームが陥落し、ゴードンも殺害されて、マフディー国家は、ほぼ現在のスーダンの領域まで領土を拡大させ、イギリスは一時スーダンからの撤退を余儀なくされた。

しかし、その南、当時はエジプト最南端であった赤道州には総督のエミン・パシャ(英語版)が残留し、孤立しながらも何とか独立を保っていた。このエミン・パシャの扱いが、その後、イギリスとドイツの間で争点になった。エミン・パシャは本名をシュニッツァーというドイツ人であり、彼を救出すると称して、イギリスとドイツがそれぞれ軍を派遣したのである。この救出作戦はヘンリー・モートン・スタンリー率いたイギリス隊が成功させ、1889年にエミン・パシャは「救出」されて赤道州政府は滅亡した。これに対して出遅れたドイツ隊は、ブガンダ王国と友好条約を締結したりして、この地域に進出を図ったが、結局1890年8月10日に、ヘルゴランド=ザンジバル条約により南緯1度線に両国の境界線が引かれ、ナイル上流域は全域がイギリスの勢力範囲に置かれた。この条約に基づいて、ナイル最上流部のヴィクトリア湖周辺にもイギリスの触手が伸びた。イギリスは、ブガンダ王国やブニョロ王国、トロ王国、アンコーレ王国といった国々と条約を締結し、1894年にはウガンダ保護領が成立した[5]。

この頃に、アフリカ最南端のケープ植民地の首相に就任したセシル・ローズは、カイロからケープタウンまでのケープ・カイロ鉄道の敷設と、電信網の構築を、イギリスの政策として実施するよう提唱した。これを受けて、アフリカをイギリス植民地で南北に縦断させるアフリカ縦断政策が、3C政策の一環としてイギリス政府によって採られていった。これに伴い、再びナイル川流域にイギリスの目が向けられた。1898年にイギリスは再びスーダンに侵攻し、同年のオムドゥルマンの戦いによってホレイショ・キッチナーの指揮の元で、マフディー国家を事実上滅亡させた。

一方、この頃にフランスは、アフリカ大陸最西端のダカールからサヘル地帯を次々と植民地化し、フランス植民地によるアフリカ横断(アフリカ横断政策)を狙っていた。

このイギリスとフランスの政策は、オムドゥルマンの戦いから1週間後に、スーダン中央部(現在の南スーダン北部)の白ナイル川沿いの都市、ファショダにて衝突した。フランス領赤道アフリカ首府のブラザヴィルから出発したジャン・バティスト・マルシャン将軍の軍が、2年間かけてファショダに到達し、マフディー国家消滅の混乱を突いてファショダを占領したのである。これはファショダ事件と呼ばれる[注釈 1]。キッチナーの軍はファショダに急行して両軍は対峙したものの、フランスが譲歩して撤退し、ナイル川流域のイギリスの覇権は、これで確立された。この1898年には、イギリスとエジプトの共同統治領の英埃領スーダンが成立し、こうして、マフディー国家は滅亡し、ナイル川の流域のほとんどはイギリスによって一体的に統治された。

その後、1922年にエジプトが、1956年にスーダンが、1962年にウガンダがイギリスから独立し、この地域は全域が植民地支配から脱却した。しかし、ウガンダやスーダンにおいては内乱や紛争が絶えず、特にスーダンにおいては北部に住むアラブ人のイスラム教徒と、南部に住む黒人系のキリスト教徒との紛争が激化して、1955年から1972年の第一次スーダン内戦、1983年から2005年にかけての第二次スーダン内戦が起きた。これにより、この地域の産業は衰退し、開発も遅れ、多くの死傷者が出た。結局、2005年の和平合意に基づいて、2011年に南部スーダン独立住民投票が実施され、圧倒的多数の支持を受けて、2011年に南スーダン共和国がスーダンから分離独立した。

^ イブン・バットゥータ(著) 前嶋 信次(訳)『三大陸周遊記』 p.316 角川書店、1961年6月28日初版発行 ^ 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。pp.32-33 ^ アンヌ・ユゴン『アフリカ大陸探検史』p.59 創元社、1993年 ISBN 4422210793 ^ 『アフリカを知る事典』p.309、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷 ^ 宮本正興・松田素二(編)『新書アフリカ史』第8版、2003年2月20日(講談社現代新書)p.308


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写真提供者:
Fanny Schertzer - CC BY-SA 4.0
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