Candi Prambanan

( プランバナン寺院群 )

プランバナン寺院群(プランバナンじいんぐん、英: Prambanan Temple Compounds)は、インドネシアのジャワ島中部にある9世紀のヒンドゥー教寺院のプランバナン寺院(チャンディ・プランバナン、ジャワ語: ꦕꦤ꧀ꦝꦶꦥꦿꦩ꧀ꦧꦤꦤ꧀, Candhi Prambanan、尼: Candi Prambanan)、別名ロロ・ジョングラン寺院(チャンディ・ロロ・ジョングラン、ジャワ語: ꦫꦫꦗꦺꦴꦁꦒꦿꦁ、尼: Candi Roro Jonggrang〈Candi Rara Jonggrang〉)を中心とした遺跡群である。地区名であるプランバナンは、ジョグジャカルタ特別州の州都ジョグジャカルタ市の東約17キロメートル (11mi) の中部ジャワ州との境界に位置する。

ヒンドゥー教寺院と仏教寺院からなるプランバナン寺院群は、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録されており、これらの寺院遺跡はジャワ語およびインドネシア語でチャンディ(ジャワ語: Candhi 、尼: Candi)として知られる。その中心となるプランバナン寺院はインドネシア最大のヒンドゥー教寺院である。

プランバナン寺院は、創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァの三大神を三神一体とするトリムルティ(Trimurti〈トリムールティ、梵: Trimūrti〉)に捧げられ、ヒンドゥー教建築における高いピラミッド状の尖塔と各...続きを読む

プランバナン寺院群(プランバナンじいんぐん、英: Prambanan Temple Compounds)は、インドネシアのジャワ島中部にある9世紀のヒンドゥー教寺院のプランバナン寺院(チャンディ・プランバナン、ジャワ語: ꦕꦤ꧀ꦝꦶꦥꦿꦩ꧀ꦧꦤꦤ꧀, Candhi Prambanan、尼: Candi Prambanan)、別名ロロ・ジョングラン寺院(チャンディ・ロロ・ジョングラン、ジャワ語: ꦫꦫꦗꦺꦴꦁꦒꦿꦁ、尼: Candi Roro Jonggrang〈Candi Rara Jonggrang〉)を中心とした遺跡群である。地区名であるプランバナンは、ジョグジャカルタ特別州の州都ジョグジャカルタ市の東約17キロメートル (11mi) の中部ジャワ州との境界に位置する。

ヒンドゥー教寺院と仏教寺院からなるプランバナン寺院群は、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録されており、これらの寺院遺跡はジャワ語およびインドネシア語でチャンディ(ジャワ語: Candhi 、尼: Candi)として知られる。その中心となるプランバナン寺院はインドネシア最大のヒンドゥー教寺院である。

プランバナン寺院は、創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァの三大神を三神一体とするトリムルティ(Trimurti〈トリムールティ、梵: Trimūrti〉)に捧げられ、ヒンドゥー教建築における高いピラミッド状の尖塔と各祠堂による一大複合体のなかにそびえ立つ、高さ47メートル (154ft) の中央の祠堂建築により特徴づけられる。

創建  シワグルハ碑文(英語版)(西暦856年)

プランバナン寺院は、古代ジャワ最大のヒンドゥー教寺院であるが、創建の年代については諸説あり一定していない。その着工は8世紀末までさかのぼるとする説があり[1]、この説によれば、プランバナン寺院は大乗仏教を奉ずるシャイレーンドラ朝のボロブドゥール寺院や地理的にプランバナン寺院に近いセウ寺院(チャンディ・セウ、尼: Candi Sewu)と同時期に、ヒンドゥー教を奉ずるサンジャヤ王統により造営されたことになり、ボロブドゥールと年代的に並行関係が成立する[1]。後の時代とするものとしては、プランバナン寺院を完成したとされる王バリトゥン(英語版)(898-910年頃[2])[3]または王ダクサ(インドネシア語版)(913-915年頃[2])[4]によって造営が開始されたという旧説がある[3]。

碑文によれば当初の建造物は9世紀中頃に完成したとされている[1]。これはシャイレーンドラ朝のサマラトゥンガ王の王女プラモーダワルダニー(英語版)[5](スリ・プラモダワルダニ〈Sri Pramodhawardhani〉[6][7]〉、別名ラクリヤン・サンジワナ〈Rjakriyan Sanjiwana〉[6])と婚姻関係を結んだサンジャヤ王統の王ラカイ・ピカタン(英語版)(842年頃-856年[2][8])により着工が始まったとする年代にあたる。この説によれば、835-856年がその創建年代となる[9]。

刻文史料の解釈により、おそらくサンジャヤ王統は第2代王ラカイ・パナンカラン(英語版)(760-780年頃[8])の時代より、仏教のシャイレーンドラ朝の支配のもとにあったが、第6代王ピカタンの時代に[10]中部ジャワの支配権を回復したとされる[11]。これによれば、巨大なヒンドゥー教寺院の建設は、マタラム王統がシャイレーンドラ朝勢力から自立したことを象徴する記念物の意味を有することとなる。

西暦856年のシワグルハ碑文(英語版)[11](尼: Prasasti Siwagrha)によると[12]、この寺院はシヴァ(シワ、尼: Siwa)に捧げられ、当初はシワグルハ(尼: Siwagrha、梵: Shiva-grha、「シヴァの家」)またはシワラヤ(尼: Siwalaya、梵: Shiva-laya、「シヴァの地」)と称された[13]。この碑文によれば、プランバナン寺院付近の川の流路を変える工事が、寺院の建設のうちに着手された[14]。オパック川(英語版)として知られるこの川は、今日、プランバナン寺院の西側を南北に流れるが[14]、かつての川は、より東の寺苑内を流れていたものと考えられる[15]。この造成において、プランバナン寺院の外壁の南北軸に流れる川はせき止められ、かつての川の流路は寺院拡張による広い敷地を設けるために埋め慣らされて、後に小祠堂のプルワラ(尼: Perwara)が並ぶ寺苑となった。

拡充

プランバナン寺院の主祠堂中央の聖室(ガルバグリハ(英語版)〈Garbhagriha〉)に安置されるシヴァ像は、王ピカタンの肖像であるとされ[16][17]、王の遺骨が台座の9メートル下に納められたといわれるほか[18]、像は王バリトゥンをかたどるもので、王の死後、自身を神格化する肖像としての役割を果たしたともされる[19][20]。

寺苑は、王ダクサやトゥロドン(英語版)(919-921年頃[2])など歴代のマタラム王により拡張され、主要な祠堂の周囲に何百基もの小祠堂が追加された。そびえ立つ中央の主祠堂は高さ47メートルであり、広大な周壁に囲まれる240基の構造物からなる寺院複合体において、トリムルティのシヴァ祠堂(チャンディ・シワ、尼: Candi Siwa)は、当時、最も高く壮大なものであった。プランバナン寺院はマタラム王国の王室寺院としての役割を果たし、宗教儀式や供犠のほとんどはここで行われた。王国の最盛期には、寺院の外壁内に何百人ものバラモンが弟子とともに住んでいたと推定されている。

古マタラム王国の都の位置は不明であるが[2][21]、都の中心地およびマタラムの王宮(クラトン(英語版)[22])は、およそケウ平原(英語版)(プランバナン平野[23])辺りであったと考えられており、平野部に突き出たラトゥボコ(英語版)(尼: Ratu Boko〈Ratu Baka〉)の丘に残るボコ遺跡(尼: Candi Boko)が[23]、9世紀後半[2]頃の王宮の跡であるとされる[1]。

荒廃  朝霧のプランバナン寺院(1870年)

10世紀前半の[24]928-929年頃に、都はイーシャーナ王朝(英語版)[25](クディリ朝)[26]を創設したムプ・シンドク(英語版)(929-948年頃[2])により東ジャワに移された[27]。その遷都の理由には諸説あるが[24]、中部ジャワのプランバナンの北に位置するムラピ山の噴火や宗教的対立などにより東遷におよんだものと考えられている[27]。それによりプランバナン寺院群の衰退がもたらされ、寺院はやがて見捨てられ荒廃していった。

寺院群は1600年頃(1549年[28])の大地震により崩壊した[3]。寺院はもはや崇拝における中心的要地ではなかったが、一帯に点在する遺構がなおも認められ、後世の地元のジャワ人に知られていた。その遺構や彫像は、ロロ・ジョングラン伝説(英語版)の主題や発想の源となった。周囲のジャワの村民は、正式に再発見される以前より寺院の遺構について知っていたが、それらがいつの王朝の支配期のものか、いずれの王がその記念碑的建造を命じたかなどの歴史的背景については認識していなかった。それにより地元の住人は、大男と呪われた王女の神話を取り入れて、寺院の由緒を説く物語や伝説を創作し、プランバナン寺院およびセウ寺院に見事な由緒を与えた。その王女ロロ・ジョングラン(「痩身の処女」の意[29])の伝説によると、これらの寺院はバンドゥン・ボンドウォソ[17] (Bandung Bondowoso) のもと、多くの精霊により一夜のうちに建造されたといわれる。

再発見  再発見されたプランバナン寺院の遺構(1895年)

プランバナン寺院の存在は、1733年[28]、オランダ東インド会社(オランダ語: Verenigde Oost-Indische Compagnie、略称: VOC)のロンス (Cornelius Antonie Lons) により初めて報告された[30][31]。1755年のマタラム王国(新マタラム王国)分割の後[2]、寺院の遺構とオパック川は、ジョグジャカルタとスラカルタ(ソロ)の王家の境域を画定するために用いられ、ジョグジャカルタと中部ジャワ間の現在の境界として選定された。

プランバナン寺院は、19世紀初頭に国際的に注目されるようになった。1811年、短いオランダ領東インドのイギリスの占領時代に、スタンフォード・ラッフルズのもと、調査員であったコリン・マッケンジー(英語版)がたまたま寺院に行き当たった。次いでラッフルズは遺跡の全面調査を命じている。その後、ラッフルズは、『ジャワ誌(英語版)』(“The History of Java”、1817年)[32][33]において、「それらは石材が崩れた塊からなる大きな塚のように見え、多量のさまざまの種類の樹木や草で覆われている。現在の荒廃した状態において、これらの尊い建物の正確な計画図あるいはもとの配置とか大きさ、また数や形を得ることは非常に困難である」と記している[34]。

それらは数十年にわたって放置されたままであった。オランダ人居住者は装飾品として彫刻を持ち去り、また土地の住人らは建設資材にその礎石を使用していた[35]。1885年よりアイゼルマン(オランダ語版) (Jan Willem IJzerman) が考古学的調査を開始したが[30]、その緩慢な発掘により略奪を容易にした。

修復  オパック川とシヴァ祠堂修復後のプランバナン寺院(1971年)

20世紀になって、ファン・エルプ(オランダ語版)やドゥ・ハーン (De Haan) らによる研究がなされた[30]。1918年にオランダ植民地政府はシヴァ祠堂の修復に着手し[15]、1930年には相応の修復が開始され[3]、1937年よりオランダ領東インド考古局のもとで着工された本格的な修復工事は、その後、大東亜戦争による1943-1945年の日本の軍政期を経て継続された[36][30]。中央のシヴァ祠堂の修復は、インドネシアが独立し、スカルノ大統領就任後の1953年になって完成した[3][30]。もとの石積みの多くは盗まれ、遠方の建築地で再利用されていたことから、修復はかなり妨げられた。インドネシア政府は寺院複合体の規模を考慮し、もとの石積みの少なくとも75パーセントが利用できる場合のみ寺院遺跡を再構するという決定をした。

政府により、1977-1987年にブラフマー祠堂(チャンディ・ブラフマ〈ブラーマ〉、尼: Candi Brahma)が修復され、1982-1991年にヴィシュヌ祠堂(チャンディ・ウィスヌ、尼: Candi Wishnu)が修復された[36]。その後、1991-1993年にかけて、ヴァーハナ(尼: Wahana)のナンディ祠堂(チャンディ・ナンディ、尼: Candi Nandi)、ガルーダ祠堂(チャンディ・ガルーダ、尼: Candi Garuda〈チャンディ・A[3]〉)、ハンサ祠堂(チャンディ・ハンサ、尼: Candi Hamsa〈チャンディ・B[3]〉)が修復された[37]。修復の取り組みは今日もなお続いている。しかし、現在もほとんどの小祠堂はそれらの基礎が認められるのみである。

1990年代初頭、政府は寺院の近くにできた市場を移転させ、遺跡公園として周囲の村落や水田を再開発した。公園は、南の幹線道路(ジョグジャカルタ-ソロ〈スラカンタ〉)からプランバナン寺院複合体の全体、ルンブン寺院(チャンディ・ルンブン、尼: Candi Lumbung)やブブラ寺院(チャンディ・ブブラ、尼: Candi Bubrah)の遺跡、さらに北側のセウ寺院を取り囲む広い地域におよんでいる。そして1991年、プランバナン寺院群として国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録された[38]。1992年にインドネシア政府は「ボロブドゥール・プランバナン・ラトゥボコ遺跡観光公園有限会社[39]」(“PT Taman Wisata Candi Borobudur, Prambanan, dan Ratu Boko”)という国有有限責任企業 (ペルセロ、Persero) を設立した。この事業体は、インドネシアにおいて人気の高い観光名所であるボロブドゥール、プランバナン、ラトゥボコとその周辺地域の公園を管理する機関である[40]。

 2006年5月の地震による修復作業(2009年)

2006年5月27日に起きたジャワ島中部地震においては、プランバナンも甚大な被害を受けた[15][41]。寺院複合体は構造的に大きく損なわれることはなかったが[42][43]、祠堂の小塔部の落下および石積みの亀裂や歪みなどの損傷が多く認められ[15]、彫刻を含む大きな破片が地面に散乱していた[44]。数週間後のうちに訪問者の苑内への入場は再開されたが、寺院の祠堂などは損傷部位の安全性が確保されるまで閉鎖された[45]。

地震発生よりおよそ2か月後には、インドネシア政府の要請により日本からの調査団が派遣された[46]。日本の第2次調査団が派遣された2007年[46]より修復作業が開始され[47]、同年3月には、プランバナン遺跡の修復専門機関であるジョクジャカルタ特別州考古学局に対し、日本からも修復機材を購入するための補助資金が供与された[46]。

2009年1月にはナンディ祠堂の修復が完了した[48]。その後、2012年に「中部ジャワ古代遺物保存局(ジャワ語版)」 (Balai Pelestarian Peninggalan Purbakala Jawa Tengah 〈BP3〉、英: Central Java Heritage Preservation Authority) は、プランバナンおよび周辺地域を保護区とするように提案した。挙げられた地域は、プランバナン、ラトゥボコ、カラサン、サリ、プラオサンなど地域の主要な寺院があるスレマン県(英語版)クラテン県(英語版)にまたがる30平方キロメートルのケウ平原(プランバナン平野)に位置する。この保護区においては、多くの新たな建造物、特に複数階建ての建築物をなくすよう求められた[49]。

2014年2月14日、ボロブドゥール、プランバナン、ラトゥボコなど、ジョグジャカルタおよび中部ジャワの主な観光名所は、前夜に噴火したジョグジャカルタの東方約200キロメートルに位置する東ジャワのケルート山の火山灰により、深刻な影響を受けて閉鎖された[50][51]。その後、ボロブドゥールは2月26日より、プランバナン、ラトゥボコなどの訪問も28日には再開された[52]。その4年前の2010年、ボロブドゥールに影響を与えたムラピ山の噴火における火山灰においては[53]、風や降灰の方向が西向きであったため、プランバナンは影響を免れていた。

催事・式典  プランバナン寺院を背景とした野外劇場のラーマヤナ舞踏(英語版)公演 プランバナン野外舞台のラーマヤナ舞踏初演(1961年)

プランバナンは、インドネシアにおいて最も訪問される観光名所の1つである。オパック川を渡った寺院西側の屋外(ラーマヤナ野外劇場)および屋内(トリムルティ屋内劇場)の舞台は、伝統的な叙事詩『ラーマーヤナ』の舞踏(ラーマヤナ舞踏(英語版)、尼: Sendratari Ramayana、英: Ramayana Ballet)を上演するために建設された。ラーマヤナ野外劇場は乾季(5-10月)に使用され、雨季(11-4月)にはトリムルティ屋内劇場において上演される。この『ラーマーヤナ』のジャワ舞踊、ワヤン・オラン(インドネシア語版)(Wayang orang、ワヤン・ウォン〈Wayang wong〉)は、何世紀にもわたるジャワ宮廷の舞踏であり[54]、プランバナンでは、1960年代より満月の夜ごとに上演されてきた。以来、プランバナンはインドネシアにおける主要な考古学的、文化的観光名所となっている。

1990年代に主要な祠堂が復元されると、プランバナンはジャワのヒンドゥー教の礼拝や儀式の主要な宗教的中心地として再興していった。バリ島およびジョグジャカルタや中部ジャワにおけるジャワ島のヒンドゥー教共同体は、ガルンガン(英語版) (Galungan)、タウール・クサンガ (Tawur Kesanga)、ニュピ (Nyepi) など、毎年執り行なう祝祭をプランバナンにおいて復活させた[55]。

2019年11月9日から12日にかけて、本寺院の苑内で盛大なアビシェーカ(Abhiṣeka、灌頂)という宗教的儀式が催された。このヒンドゥー教の儀式は、プランバナン寺院が創建されたシワグルハ碑文の856年から、1163年の時を経て初めて開催された[56]。アビシェーカの式典は、寺院を祓い、清め、浄化することを意図したものであり、このようにプランバナン寺院は、単に考古学や観光の場所ではなく、ヒンドゥー教の宗教活動の拠点としての当初の機能の回復を示している[57]。このアビシェーカの式典により、インドネシアのヒンドゥー教(英語版)においては、寺院内を再び聖別し、プランバナン寺院の霊力復興の節目を迎えたと捉えられている[58]。

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