のコンテキスト タイ王国

タイ王国
ราชอาณาจักรไทย
国の標語:ชาติ ศาสนา พระมหากษัตริย์
(タイ語:国家、宗教、国王)
国歌:เพลงชาติไทย(タイ語)
タイ国歌王室歌:สรรเสริญพระบารมี(タイ語)
国王賛歌

タイ王国(タイおうこく、タイ語: ราชอาณาจักรไทย Ratcha Anachak Thai [râːt.tɕʰā ʔāːnāːtɕàk tʰāj])、通称タイ(タイ語: ประเทศไทย Prathet Thai [pràtʰêːt tʰaj] ( 音声ファイル)...続きを読む

タイ王国
ราชอาณาจักรไทย
国の標語:ชาติ ศาสนา พระมหากษัตริย์
(タイ語:国家、宗教、国王)
国歌:เพลงชาติไทย(タイ語)
タイ国歌王室歌:สรรเสริญพระบารมี(タイ語)
国王賛歌

タイ王国(タイおうこく、タイ語: ราชอาณาจักรไทย Ratcha Anachak Thai [râːt.tɕʰā ʔāːnāːtɕàk tʰāj])、通称タイ(タイ語: ประเทศไทย Prathet Thai [pràtʰêːt tʰaj] ( 音声ファイル))は、東南アジアに位置する立憲君主制国家。首都はバンコク都。

東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はバーツ、人口6891万人(2017年、タイ国勢調査による)である。

詳細について タイ王国

基本情報
  • 通貨 バーツ
  • 母国語表記 ประเทศไทย
  • 呼び出しコード +66
  • インターネットドメイン .th
  • Mains voltage 220V/50Hz
  • Democracy index 6.04
Population, Area & Driving side
  • 人口 66188503
  • 領域 513119
  • 駆動側 left
履歴
  • 国家成立

    タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった[1]。当時、タイには、モン族、クメール人等が先住していた[1]。

    スコータイ王朝

    13世紀初頭にクメール帝国と異教の王国が衰退した後、様々な州がその場所で繁栄した。タイ人の領域は、現在のインドの北東部から現在のラオスの北部およびマレー半島に存在していた。13世紀の間、タイ人の人々は既に中核となる土地に定住していた。

    1240年頃、地元のタイの統治者であるフォークンバンクランハオは、クメールに抗議するために人々を結集した。その後、1238年にスコータイ王国の最初の王となった[2]。タイの主流歴史家は、スコータイをタイの最初の王国と見なしている。スコータイはラームカムヘーンの治世中(1279年頃-1299年頃)、さらに拡大した。しかし、それは主にスコータイへの忠誠を誓った地元の領主のネットワークであり、スコータイに直接支配されていなかった。スコータイはマハタマラチャ1世(1347〜1368年)の統治下で上座部仏教を採用した[3]。

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    国家成立

    タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった[1]。当時、タイには、モン族、クメール人等が先住していた[1]。

    スコータイ王朝

    13世紀初頭にクメール帝国と異教の王国が衰退した後、様々な州がその場所で繁栄した。タイ人の領域は、現在のインドの北東部から現在のラオスの北部およびマレー半島に存在していた。13世紀の間、タイ人の人々は既に中核となる土地に定住していた。

    1240年頃、地元のタイの統治者であるフォークンバンクランハオは、クメールに抗議するために人々を結集した。その後、1238年にスコータイ王国の最初の王となった[2]。タイの主流歴史家は、スコータイをタイの最初の王国と見なしている。スコータイはラームカムヘーンの治世中(1279年頃-1299年頃)、さらに拡大した。しかし、それは主にスコータイへの忠誠を誓った地元の領主のネットワークであり、スコータイに直接支配されていなかった。スコータイはマハタマラチャ1世(1347〜1368年)の統治下で上座部仏教を採用した[3]。

    アユタヤ王国
     
    アユタヤのワットチャイワッタナーラーム寺院の遺跡。17世紀に建てられ、1767年にビルマ軍によって焼失し、略奪された。
    アユタヤ王国
     
    ナレースワン大王とミンギ・スワ。泰緬戦争(1584-1593年)における象の戦い。
     
    ナーラーイ
     
    アユタヤ(サイアム)の地図、1686年

    アユタヤ王朝の起源は、最も広く受け入れられている説によると、最初の王としてウトン(ラーマーティボーディー1世)を持ち、以前の近くのラヴォ王国とスワンナプームから勃興した。アユタヤは、マンダラ体制下のアユタヤ王への忠誠による自治公国と支流州のパッチワークであった[4]。最初の領土拡大は征服と政略結婚によるものであった。15世紀の終わりまでにアユタヤはクメール王朝を3回侵略し、首都アンコールを襲撃した[5]。その後、アユタヤはクメールの代わりに地域の大国となった。スコータイ王朝は、絶え間ない干渉により事実上アユタヤの属国となり、ついに王国に組み込まれた。ボーロマトライローカナート、20世紀まで続いた官僚制改革をもたらし、サクディナと呼ばれる社会階層のシステムを構築した[6]。アユタヤはマレー半島に興味を持っていたが、中国の明王朝によって支持されたマラッカ王国のスルタンを征服することに失敗した[7]。

    ヨーロッパの接触と貿易は16世紀初頭に始まり、1511年にポルトガルの公爵であるアフォンソ・デ・アルブケルケの特使が来訪して同盟国となり、一部の兵士をラーマーティボーディー2世王に譲渡した[8]。17世紀には、ポルトガルにフランス、オランダ、イギリスが続いた。チェンマイとモン族の覇権をめぐる競合関係は、アユタヤとビルマ王国(タウングー朝)の泰緬戦争を招いた。この戦争はタウングー王朝のタビンシュエーティー王と副王バインナウン治世下の1540年代に始まり、最終的には1570年のアユタヤ占領で終わった[9]。泰緬戦争(1563-64年)でのアユタヤ包囲の間に、タウングー王朝のバインナウンはピサヌロークとアユタヤをとり、アユタヤをビルマの属国にした。彼は、マハータンマラーチャーティラート王の忠実さを保証するために、その息子ナレースワンを人質としてバゴーに送ることを要求した。アユタヤ王国は短期ながらビルマの支配下となり、その後、ナレースワン大王が1584年に独立回復を宣言した。

     
    1685年、ロッブリーで月食を観測した王ナーラーイとフランスのイエズス会

    アユタヤはその後、歴代の統治のためにヨーロッパの大国との関係を改善しようとした。王国は、ナーラーイの治世中(1656〜1688年)、中国やインドと並んでアユタヤがアジアの大国と見なされたときに繁栄した[10][11]。しかし、彼の統治の後半にフランスの影響力が高まったことは、民族主義者の反発を招き、最終的に1688年のシャム革命につながった[12]。

    血統の激しい闘争の後、アユタヤは、黄金時代と呼ばれる時代に入った。芸術、文学、学習が栄えた18世紀の第2四半期は、比較的平和だった。1715年頃からカンボジアを統治するためのグエン領主との紛争は別として、対外戦争はめったになかった。王国は最後の50年間、血統の危機に直面した。1765年、ビルマ軍の合計4万人の強力な部隊が北部と西部から侵攻した[13]。ビルマは新しいアラウンパヤー王朝の下にあり、1759年までに新しい地域大国になった。14か月の包囲の後、首都の壁が破られ、1767年4月に都市は焼失した。

    ラタナコーシン王国
     
    ワット・シーラッタナーサーサダーラーム(ラタナコーシン時代の建築)

    ラッタナコーシン時代は、バンコクに首都を設けたチャクリー王朝のラーマ1世の治世中に1782年に始まる。ラーマ1世は、前任者のタークシンによって設立されたトンブリーの首都(トンブリー王朝)を移転し、新しい首都バンコクを建設した。首都建設前の最初の数年間、彼は宮殿と王室礼拝堂の建設を監督した。エメラルド仏が奉献されたロイヤルチャペルまたはワットプラケオは、彼の王宮の敷地内にある。新しい首都の完成に伴い、ラーマ1世は新しい首都を命名する式典を開催した[14][15]。

     
    1864年にフォンテーヌブローの宮殿でシャム大使の訪問を受けるナポレオン3世

    19世紀後半、東南アジアは西洋諸国による植民地化時代を迎えた。西洋の脅威を認めたラーマ4世(1851-1868年)の宮廷はイギリス政府と連絡を取り、緊張緩和を図った。香港総督ジョン・ボウリングが率いるイギリス使節団と、西洋諸国との多くの不平等条約の最初であるボウリング条約を結んだ。これは不平等条約ではあったが、バンコクに商業的および経済的発展をもたらした。ラーマ4世はマラリアで急死し、チュラーロンコーン王子が即位した[16][17](ラーマ5世)。

     
    1897年、ロシア皇帝ニコライ2世とラーマ5世ら(1897年、アレクサンドロフスキー宮殿)
     
    1855年から1916年までの「白象の旗」タイの国旗。

    ラーマ5世あるいはチュラーロンコーン大王(在位1868-1910年)は即位するとすぐに欧米を視察してタイの立ち後れを実感し、チャクリー改革と呼ばれる数々の改革を行った。当時、ビルマとマレーシアはイギリスに、ベトナムはフランスに、それぞれ占領されていた。シャムも狙われていたが、ラーマ5世はイギリスにマレー半島の一部を割譲し、フランスにはラオスとカンボジアを割譲する事で、独立を保った。この背景には、ラーマ5世によってある程度近代化されていたシャムをあからさまに占領するのは問題があったことや、シャムを緩衝地帯として独立させておくことが望ましいと考えた英仏両国の事情などがあった[18]。

    19世紀の終わりに、シャムの王は、シャムにとって危険であったフランスとの紛争を解決し、ロシア帝国との外交関係を確立してロシアの支援を得ることを目指した[19]。

    立憲君主制移行

    ラーマ6世(ワチラーウット、1910年即位~1925年11月没)が王位を継承すると絶対王制への批判が生じ始めた。新王の個人的資質に関する王族や官僚からの批判、王権を制限する憲法が存在しないという政治体制への批判までを含んでいた[20]、1912年3月初め、立憲制・共和制を望むタイ王国陸軍青年将校らによるクーデター計画が発覚し、100名以上が逮捕された。青年将校らは、国の資源が国王の私的享楽に浪費されるために国家建設が遅々として進まず、諸外国(英仏)に侵略されていくと憂いた。この時期に第一次世界大戦が発生しており、イギリスや日本、フランスやアメリカとともに連合国として参戦している。

    最初の立憲革命計画で、1932年の人民党による立憲革命の成功へとつながった[20]。すなわちラーマ7世(弟のプラーチャーティポック)即位後の1932年、プリーディー・パノムヨンやプレーク・ピブーンソンクラームら官吏によって結成された人民党によるクーデターが勃発し、絶対君主制から立憲君主制へと移行したのである(民主革命、立憲革命と呼ばれる)[21]。

    第二次世界大戦

    第二次世界大戦ではフランスがドイツに降伏した後の1940年11月23日、タイは南部仏印に侵攻し、タイ・フランス領インドシナ紛争を引き起こした。1941年5月8日に日本の仲介によって東京条約を、フランスのヴィシー政権と締結して事実上の勝利となり領土を拡大した。

    太平洋戦争が勃発すると両国の同意のもと日本軍はタイへ進駐し(タイ王国進駐)、タイは表面上日本と日泰攻守同盟を結び枢軸国として戦った[22]。タイは東南アジア戦線(マレー作戦、ビルマの戦い)では日本に積極的に協力しており、現地軍の速やかな進軍を助け、兵站、補給など重要な役割を担当している。そのため戦争末期には連合国軍の空襲にもあっている。

    一方で駐米大使セーニー・プラーモート、摂政プリーディー・パノムヨンらの「自由タイ運動」などの連合国と協力する勢力も存在し、連合国と連絡を取っていた[23]。こうした二重外交により、タイは1945年、1940年以降に獲得した領地を返還することでイギリスとアメリカとの間で講和することができ、降伏や占領を免れた[24]。こうした経緯もあって国際連合にも1946年12月16日という早い段階で加盟しており、いわゆる敵国条項の対象ともされていない。大戦終結後、1946年6月9日に 国王ラーマ8世は王宮内で遺体となって発見されたが、真相は究明されず、弟のラーマ9世が即位した。

    経済成長

    第二次世界大戦後のアジアでは、社会主義国家のベトナム民主共和国(1945年~1976年、後のベトナム社会主義共和国)、中華人民共和国(1949年~)が相次ぎ成立。インドシナ半島では東西の冷戦にとどまらず、第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争とそれに連動するラオス内戦、カンボジア内戦と戦乱が続き、タイも共産主義化に脅かされた[25]。

    特に、ラオス内戦では1970年から軍事介入を開始。北ベトナム軍との激しい交戦により死者を出しつつも、タイ国内への影響を最小限に抑え込んだ[26]。また、「共産主義の防波堤」としてアメリカ軍の基地を置くなどの大々的な支援を受けたことも影響し、共産主義化は免れた[27]。一方でカンボジアとの国境は絶えず不安定であり、1977年には国境警備兵がカンボジア軍から銃撃を受けて負傷するなど[28] 1990年代にクメール・ルージュが消滅するまで小競り合いは長く続いた。

     
    タイ国際航空のエアバスA310(1992年)

    また、国民の高い教育水準や立憲君主制を基にした比較的安定した国政、そして豊かな国土を背景に、1960年代以降徐々に工業国への道を模索し、日本や欧米各国の資本の誘致に成功しつつ、地元資本の振興にも成功し、1967年には東南アジア諸国連合(ASEAN)に結成時から加盟。1989年にアジア太平洋経済協力(APEC)に結成時から参加した。また、豊富な観光資源と国際的な交通の要所という地の利を背景に、日本やヨーロッパ、オーストラリアなどからの人気観光地としての座を獲得した。

    さらに、1970年代より日本や欧米諸国の大企業の進出を背景にした本格的な工業化、特に機械や造船など重工業化へのシフトを進めるとともに、それらを背景にした高度経済成長が始まり、バンコクやチェンマイなどの大都市を中心にインフラストラクチャーの整備も急速に進むこととなる。1992年には5月流血革命(พฤษภาทมิฬ)が発生したものの、ラーマ9世(プミポン国王)の仲裁により収まった[29]。

    現在
     
    タクシンシナワットとウラジーミル・プーチン、APEC 2003

    1997年に始まったアジア通貨危機により、タイ経済は一時的に停滞したものの、その後は急激な回復を見せ、日本企業や中国企業の進出も増えた。現在では再び高い経済成長率を維持しており[30]、東南アジアにおける代表的な工業国としての立場を保ち続けている[31]。しかし、2006年頃からタクシン・チナワット派と反タクシン派との政治的対立が激化するようになり、クーデターが発生するなど政情不安が続いている。

    2006年に軍事クーデターが発生し、1997年タイ王国憲法による民政が停止され、タクシン政権が崩壊した。クーデターは国王の介入により収拾され、ただちに陸軍大将のソンティ・ブーンヤラッガリンを首班とする軍事政権が発足した。同年、暫定憲法が公布され、スラユット・チュラーノンが首相に着任した。

    2007年8月には、2007年タイ王国憲法が公布され、民政復帰が開始された。2007年12月23日に下院選挙が実施され、2008年1月に選挙の結果を受け、クーデターで政権を追われたタクシン元首相派の文民であるサマック・スントラウェート元バンコク都知事が首相に就任した。しかし、同年9月に反タクシン元首相派寄りとされる憲法裁判所は、サマック首相の民放テレビ出演を違憲として、サマック首相を失職させるという司法クーデターを起こした。10月にはタクシン元首相の義弟であるソムチャーイ・ウォンサワットが首相に就任したが、再び憲法裁判所は、前年からの選挙違反を表向きの理由にして、与党の国民の力党に解党命令を出し、ソムチャイ首相も失職させた。これにより同年12月、野党の民主党が総選挙を経ずに政権を獲得し、アピシット・ウェーチャチーワが首相となる。

    これ以降、2009年から2010年頃には、タクシン元首相派(通称「赤シャツ隊」)を中心とする市民による総選挙を求める大規模なデモが起きたが、アピシット政権はデモを徹底的に弾圧し、数百人の犠牲者が出た(暗黒の土曜日)。

     
    インラック・シナワトラが第36代首相に就任

    2011年の総選挙では、タクシン元首相派のタイ貢献党が大勝し、インラック・シナワトラが首相に就任した。しかし、2013年下旬からは約5年ぶりに反タクシン派の武装デモ隊による反政府デモが発生した。そして、2014年5月、憲法裁判所はインラック政権の政府高官人事を違憲として、インラック首相を失職させる司法クーデターを起こした。

    2014年5月22日、国軍は軍事クーデターを決行し、インラック前首相やニワットタムロン・ブンソンパイサン首相代行など、政府高官を相次いで拘束した。憲法と議会を廃止して実権を掌握すると、陸軍大将のプラユット・チャンオチャを首班とする軍事政権の樹立を宣言した。

    2015年、タイ王国は政治改革のため腐敗防止法および関連法を改正し、腐敗行為に関与した場合は外国人でも死刑の対象となりうること、また国外逃亡した腐敗行為者に関する公訴時効を10年延長し20年とすることを定めた(2015年7月9日施行)。なおこの時点ではタクシン元首相はタイ国外におり、またインラック元首相については処分保留とされている[32]。

    政情不安
     
    UDD、赤服軍団

    タイでは発展途上国でしばしば見られる政変や軍事クーデターによる政情不安、軍による民主化運動の弾圧などが多発していた。冷戦後の1992年以降は一時安定し、東南アジアの「民主主義の優等生」と称されていた[33]。しかし、2006年に軍が政治関与を再開して2006年タイ軍事クーデターが発生した。また議会派の間でも第31代首相タクシン・チナワットの処遇をめぐって反独裁民主戦線(UDD、赤服軍団)と民主市民連合(PAD、黄服軍団)という2つの政治集団が形成され、鋭く対立するようになり、2010年以降の情勢は極めて不安定な状態にある。

    2011年、総選挙で旧タクシン政権を支持する議員が所属するタイ貢献党(新党プアタイ)が勝利し、タクシン元首相の妹インラック・シナワトラが第36代首相に就任、議会派の対立に一応の決着がついたことでUDDとPADの活動も沈静化した。インラック政権は過去の清算を図るべく敵味方双方への大規模な恩赦(国民和解法)の実施を検討したが、タクシン元首相にも恩赦を与えるかどうかで対立が再燃するという皮肉な結末を生んだ。さらに反タクシン派議員の大物であったステープ・トゥアクスパン元副首相が、反タクシン派の野党からも離れて議会外での暴動・直接行動を扇動するに至って混乱は頂点に達し、2013年末に行われた総選挙が正式に実施できずに終わる異常事態となった(2013年タイ反政府デモ)。

    軍はタクシン派と反タクシン派の対立には介入しない姿勢を見せていたが、インラック政権が親族の閣僚登用で退陣に追い込まれる一方、普通選挙の廃止や人民議会の設立など反タクシン派の要求も過激化するなど、情勢の混迷が深まる中でついに16度目のクーデターを実行した(2014年タイ軍事クーデター)。クーデター後、タイ王国軍が全土に戒厳令を発令、同時に憲法を停止して基本的人権を一時的に制限するとし、政府については陸軍総司令官プラユット・チャンオチャが議長を務める国家平和秩序維持評議会による軍政に移行した。治安回復を目的とする軍政は国王の支持を得て、プラユット陸軍総司令官・評議会議長が暫定首相を経て第37代首相に任命された。

    反政府運動を封じる手段として報道の自由を全面制限し、タイ国内放送局の掌握、BBCワールドニュース、NHKワールドTV、NHKワールド・プレミアム、CNNなど、海外衛星放送ニュースチャンネルやケーブルテレビサービスを切断、配信させない報道管制を敷き、ソーシャル・ネットワーキング・サービスの検閲なども強化している。さらに、無期限の夜間外出禁止令を首都バンコクなどタイ全土で発動し(パタヤ、プーケットなど一部の観光地は現在解除)、許可なく外出すれば拘束や射殺もありうるとした[34]。これ以外にも不敬罪の廃止をめぐる議論、バンコク首都圏のデモ活動に対する非常事態宣言の頻繁な発令、タイ南部のゴムプランテーションのゴム買い取り価格への不満、深南部のイスラム教反政府武装集団に対する抗争およびマレーシアに続く南本線鉄道線路の破壊、カンボジアの世界遺産であるプレアヴィヒア寺院(タイ語名「プラヴィハーン」)周辺の国境線問題において、カンボジアとの両軍同士の睨み合いによるタイとカンボジアの国境紛争などが起こっている。なお、2020年6月現在、バンコク都内は夜間外出禁止令が施行されている[35]が、これは新型コロナウイルス感染症対策であり、政情不安によるものではない。

     
    夜のラーマ9世王の火葬場

    日本外務省は、バンコクには注意喚起情報を、前述当該地域(ナラティワート県、ヤラー県、パッタニー県、ソンクラー県(以上はタイ南部)およびシーサケート県(北東部))において「渡航の是非を検討して下さい」という旨の危険情報を出していた。在タイ日本国大使館は、反独裁民主戦線・民主市民連合の一員と誤解され、トラブルに巻き込まれるのを防ぐため、双方のイメージカラーである「赤色・黄色の衣服を身に着けないよう」注意喚起を行っていた。

    2016年10月のラーマ9世の崩御を経て軍政による新憲法制定作業が行われたものの難航し、新国王ラーマ10世の権限が強化された新憲法が2017年4月に施行された[36]。

    2020年10月14日、学生らが2019年までの軍政の流れをくむプラユット・チャンオチャ政権の退陣を要求するデモをバンコク都内で開始。デモには、タブーとなっている王室の改革を要求する主張する集団も加わり大規模なものとなった。10月15日、政府は非常事態宣言を出したがデモは地方都市にも拡大。10月16日の集会では、治安当局がバンコクのデモ隊に放水して強制排除し始めた[37]。

    ^ a b 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「Wyatt 2003 pp.17-29」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ “タイ スコータイ遺跡の歴史とおすすめ観光スポット”. www.jtb.co.jp. 2020年6月1日閲覧。 ^ これには疑問符をつける学者もいる。『ラームカムヘーン大王碑文』参照。 ^ Higham, Charles (1989-05-11) (英語). The Archaeology of Mainland Southeast Asia: From 10,000 B.C. to the Fall of Angkor. Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-27525-5. https://books.google.co.th/books?id=-ifNH4uK0LAC&pg=PA355&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false  ^ “The Legacy of Angkor” (英語). www.culturalsurvival.org. 2020年6月1日閲覧。 ^ “ボーロマトライローカナートとは - Weblio辞書”. www.weblio.jp. 2020年6月1日閲覧。 ^ “Ayutthaya Kingdom | Asia Highlights”. www.asiahighlights.com. 2020年6月1日閲覧。 ^ “History of Ayutthaya - Foreign Settlements - Portuguese Settlement”. www.ayutthaya-history.com. 2020年6月1日閲覧。 ^ “東南アジア史(第7回 スコータイ朝とアユタヤ朝) - 歴史研究所”. www.uraken.net. 2020年6月1日閲覧。 ^ Baker, Chris; Phongpaichit, Pasuk (2017-05-11) (英語). A History of Ayutthaya. Cambridge University Press. ISBN 978-1-107-19076-4. https://books.google.co.th/books?id=GHiuDgAAQBAJ&lpg=PP1&pg=PA27&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false  ^ タイ国政府観光庁. “アユタヤ | 【公式】タイ国政府観光庁”. www.thailandtravel.or.jp. 2020年6月1日閲覧。 ^ Great, Narai the Greatนารายณ์มหาราชKing of AyutthayaStatue of Narai the. “Narai (King of Siam, 1656-1688) (The Diary of Samuel Pepys)” (英語). The Diary of Samuel Pepys. 2020年6月1日閲覧。 ^ “Alaungpaya Dynasty | Myanmar dynasty” (英語). Encyclopedia Britannica. 2020年6月1日閲覧。 ^ “Historia de Tailandia ▷ El Reino de Siam ▷ DeTailandia.com ®” (スペイン語). DeTailandia.com (2018年12月8日). 2020年6月2日閲覧。 ^ “2.タイ中央部の知識|タイ国政府観光庁主催 タイランド・スペシャリスト検定”. thailand-specialist.com. 2020年6月2日閲覧。 ^ Hall, D. G. E. (1981). Hall, D. G. E.. ed (英語). A History of South-East Asia. London: Macmillan Education UK. pp. 707-719. doi:10.1007/978-1-349-16521-6_40. ISBN 978-1-349-16521-6. https://doi.org/10.1007/978-1-349-16521-6_40  ^ “ラーマ4世 | 世界の歴史まっぷ”. sekainorekisi.com (2018年8月3日). 2020年6月2日閲覧。 ^ “King Chulalongkorn Day | Royal Thai Embassy”. www.thaiembassy.sg. 2020年6月2日閲覧。 ^ RBTH, special to (2016年10月24日). “Royal welcome: How Thailand’s Rama V was received in St. Petersburg” (英語). www.rbth.com. 2020年6月2日閲覧。 ^ a b 村嶋英治「絶対王政と立憲君主制」/村井吉敬・佐伯奈津子編著『インドネシアを知るための50章』(明石書店、2004年)33-35ページ。 ^ 村嶋 [1996] ^ 1941年12月11日「日・タイ攻守同盟」締結。1942年1月25日イギリスやアメリカなどの連合国に宣戦布告した(赤木 [1994] p.257)。 ^ 日本語書籍では市川健二郎による著書 (市川 [1987]) や 同氏による論文等、タイ語では『タムナーン・セーリータイ』(ดร.วิชิตวงศ์ [2546])に詳しい。 ^ Terwiel [2005] p.279 ^ たとえば1967年頃、タイ国共産党は北部や東北部で活動的となった (Wyatt [2003] p.280)。 ^ 「タイ軍、ラオスに介入 ロンチェン防衛へ 二個大隊を空輸」『朝日新聞』昭和50年(1975年)3月21日夕刊、3版、1面 ^ 柿崎 [2007] pp.212-215 ^ タイ・カンボジアが衝突『朝日新聞』1977年(昭和52年)4月21日朝刊、13版、7面 ^ Wyatt [2003] pp.304-306 ^ 在京タイ王国大使館タイ経済情勢 ^ タイの工業化の概要 (PDF) ^ "New anti-corruption law in Thailand extends death penalty to foreigners", The guardian,2015年5月6日(2015年10月25日閲覧) ^ 「民主主義の優等生どこへ」『日本経済新聞』2014年5月24日 ^ 『ここがポイント!!池上彰解説塾』2014年5月26日 ^ 新型コロナウイルスに関するお知らせ(タイ政府による規制緩和:6月1日から) 在タイ日本国大使館 2020年5月30日 ^ “タイ新憲法ようやく施行 修正経て国王の権限強く”. 日本経済新聞. (2017年4月7日). https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM06H8O_W7A400C1FF1000/ 2017年8月29日閲覧。  ^ “タイ各地で反体制デモ 当局規制で首都は交通マヒ”. AFP (2020年10月17日). 2020年10月17日閲覧。
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会話帳

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