မြန်မာနိုင်ငံ
ミャンマーのコンテキスト ミャンマー
- ミャンマー連邦共和国
- ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်
- 国の標語:なし
- 国歌:
- 注2: かつてのccTLDは.bu
ミャンマー連邦共和国(ミャンマーれんぽうきょうわこく、ビルマ語: ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်、英語: Republic of the Union of Myanmar)、通称ミャンマーは、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家。首都はネピドー(2006年まではヤンゴン)。
イギリスから独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦、通称ビルマ。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はチャット、人口は5142万人(2014年)。
インドシナ半島の西海岸をしめるミャンマーの国土は、日本の約1.8倍の面積を持ち、南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。インドとミャンマーはベンガル湾を挟み相対している。国境は、南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと接する。
多民族国家で、人口の6割をビルマ族が占め、ビルマ語が公用語である。ほかにロヒンギャ、カレン族、カチン族、カ...続きを読む
- ミャンマー連邦共和国
- ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်
- 国の標語:なし
- 国歌:
- 注2: かつてのccTLDは.bu
ミャンマー連邦共和国(ミャンマーれんぽうきょうわこく、ビルマ語: ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်、英語: Republic of the Union of Myanmar)、通称ミャンマーは、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家。首都はネピドー(2006年まではヤンゴン)。
イギリスから独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦、通称ビルマ。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はチャット、人口は5142万人(2014年)。
インドシナ半島の西海岸をしめるミャンマーの国土は、日本の約1.8倍の面積を持ち、南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。インドとミャンマーはベンガル湾を挟み相対している。国境は、南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと接する。
多民族国家で、人口の6割をビルマ族が占め、ビルマ語が公用語である。ほかにロヒンギャ、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、シャン族、北東部に中国系のコーカン族などの少数民族がおり、独自の言語を持つ民族も多く、中国人やインド人もいる。(言語参照)
詳細について ミャンマー
- 通貨 チャット (通貨)
- 母国語表記 မြန်မာနိုင်ငံ
- 呼び出しコード +95
- インターネットドメイン .mm
- Mains voltage 230V/50Hz
- Democracy index 3.04
- 人口 53370609
- 領域 676577
- 駆動側 right
- 詳細は「ミャンマーの歴史」を参照
ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀にピュー人が驃国を建国したが、9世紀に南詔に滅ぼされ、南詔支配下にあったチベット・ビルマ語系のビルマ人がミャンマーに侵入してパガン王朝を樹立した。パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受けて滅び、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族が強盛になったが、やがてビルマ人のよるタウングー王朝が建国され、一時はアユタヤ王朝やラーンナータイ王朝、雲南辺境のタイ族小邦を支配した。17世紀にタウングー王朝は衰亡し、南部のモン族が強盛となるが、18世紀中葉アラウンパヤー王が出てビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。
インドを支配するイギリスはビルマ王国(コンバウン王朝)に対して植民地になるよう一方的に通告、ビルマ側が拒否すると武力に訴えた。これを英緬戦争という。3次にわたる英緬戦争に敗れたビルマは1886年に英領インドに編入されてその1州となった。1937年、イギリスの自治領になる。1942年、アウンサン将軍がビルマ独立義勇軍を率い日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐。しかし今度は日本が占領し軍政を布いた。その後インパール作戦で失敗を繰り返すなど日本の敗色濃厚とみるやそれまで日本軍と行動を共にしていたアウンサン将軍はビルマ人の国を守るためイギリスについて抗日運動を指導した。日本軍に勝利したもののイギリスは独立を許さず、再びイギリスの植民地となった。
1948年にビルマ連邦として独立するが、直前の1947年7月アウンサンは暗殺された。初代大統領には、アウンサンを継いでAFPFL(パサパラ)を率いるウー・ヌが就任した。独立直後からカレン人が独立闘争を行い、共産党は政権を離脱するなど、政権は当初から不安定な状態にあった。1949年、国共内戦に破れた中国国民党軍の残余部隊がシャン州に侵入し、雲南省反共救国軍としてゲリラ闘争を行った。CIAが物資や軍事顧問団を援助し、タイへのアヘンの運び出しも行った。ヌ政権は国連で台湾政府と米国の策動に抗議した。また一方でシャン州に国軍部隊を展開し、1950年代半ばまでに国民党軍勢力を一掃した。ヌ首相の仏教優遇政策は、キリスト教徒の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。独立を求める民族勢力、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネウィン将軍が政権を掌握する下地となった。
ネウィン将軍は1958年から1960年の選挙管理内閣期を経て、1962年に軍事クーデターを起こす。ビルマ社会主義計画党(BSPP、マサラ)の最高指導者として、1988年まで軍事独裁体制を維持する。1988年にはネウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、ネウィン将軍は7月にBSPP議長を退く。同年9月18日に軍部がクーデターにより政権を掌握する。総選挙を公約としたため、全国で数百の政党が結成される。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟(NLD)を結党するが、スーチーは選挙前の1989年に自宅軟禁される。1990年5月の総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。スーチーは1989年から1995年まで、また2000年から2002年まで自宅に長期軟禁された。また2003年5月には地方遊説中に軍政側の襲撃を受け、その後現在まで自宅軟禁状態に置かれている。自由な政治活動が許されず、軍事政権の独裁が続いている。