のコンテキスト スーダン

スーダン共和国
جمهورية السودان(アラビア語)
Republic of the Sudan(英語)
国の標語:النصر لنا (al-naṣr lanā)
(アラビア語:勝利は我々のもの)
国歌:我ら、神と祖国の兵士

スーダン共和国(スーダンきょうわこく、アラビア語: جمهورية السودان‎、英語: Republic of the Sudan)、通称スーダンは、北東アフリカに位置する共和制国家である。首都はハルツーム。国境を接する隣国は北がエジプト、西北がリビア、西がチャドと中央アフリカ、南が南スーダン、南東がエチオピアとエリトリア。東側は紅海に面しており、その対岸側にはサウジアラビアがある。

アルジェリア、コンゴ民主共和国に次いでアフリカ大陸で3位の面積を有する。2011年7月に南スーダン共和国が分離独立する前は、面積250万5813平方キロメートルとアフリカ大陸最大の国土を有していた。

詳細について スーダン

基本情報
  • 通貨 スーダン・ポンド
  • 呼び出しコード +249
  • インターネットドメイン .sd
  • Mains voltage 230V/50Hz
  • Democracy index 2.54
Population, Area & Driving side
  • 人口 30894000
  • 領域 1886068
  • 駆動側 right
履歴
  • 古代ヌビア諸王国
     
    メロエのピラミッド上空写真

    かつてこのスーダンのナイル川流域北部はヌビアと呼ばれ、北に栄えた古代エジプトの影響を強く受けた地域である。古代エジプトの諸王朝は、勢力が強まるとナイル川沿いに南下して金や象牙の交易拠点を作り支配領域を広げ、国力が衰退すると撤退することを繰り返した。そうした中、紀元前2200年頃に、南部から移動してきた黒人の集団がこの地域にクシュ王国と呼ばれるはじめての王国を建国した。この王国は中王国時代のエジプトの影響を受けながら勢力を拡大していった。その後、エジプトが新王国時代に入るとトトメス1世がクシュを滅亡させた。

    紀元前900年頃、ナパタを都としてクシュは再興し、やがて衰退したエジプトに攻め入ってエジプト第25王朝を建国した。第25王朝はアッシリアに敗れヌビアへと撤退したが、ヌビアの支配権は保持し続けた。紀元前6世紀半ばにクシュは首都をさらに南のメロエへと遷都し、以後この王国はメロエ王国の名で知られることとなった。メロエは牧畜とソルガムの農耕を主産業とし、さらに鉄の産地としても知られた。

    キリスト教化

    4世紀頃、メロエはエチオピア高原のアクスム王国によって滅ぼされ、その故地は北からノバティア王国(英語版)マクリア王国(英語版)アルワ王国(英語版)の三王国に分かれた。三国ともに5世紀頃にキリスト教を受容し、以後1000年近くキリスト教を信仰し続けた

    イスラム化

    イスラム教勢力によって吞み込まれ、1505年にはイスラム教のフンジ・スルターン国(英語版)が建国されてキリスト教勢力は消滅した。1596年には西のダルフールにおいてもイスラム教のダルフール・スルターン国が建国され、この地方は完全にイスラム化された[1]。

    ムハンマド・アリー朝

    1821年、エジプトのムハンマド・アリー朝のイスマーイール・パシャにより後のスーダン北部が征服された。エジプトは次第に南部に支配を広げた。

    1840年、エジプト・エヤレトそのものがロンドン条約によってイギリスの保護国となった

    en:Khedivate of Egypt(1867年–1914年)。1874年、ダルフール・スルターン国を併合。

    マフディー国家
     
    マフディーの乱指導者ムハンマド・アフマド

    1883年にムハンマド・アフマドをマフディー指導者とするマフディーの乱が起こり、1885年には、エジプト/イギリス軍(英挨軍)のチャールズ・ゴードンをハルツームで戦死させ、マフディー国家(英語版)が建設された。

    1898年イギリスのホレイショ・キッチナー率いる英埃軍がオムダーマンの戦い(オムドゥルマンの戦い)などでマフディー国家を制圧した。しかし、この十余年のマフディ国家の支配下で進出していたフランスのマルシャン部隊とイギリス軍がファショダ(現在のコドク) で衝突し、ファショダ事件が発生した。この事件はアフリカ分割の過程で、イギリスの南下政策とフランスの東進政策が背景にあったが、本国政府同士で話し合い、スーダンとモロッコの利権を交換することで解決をみた。

    英埃領スーダン

    1899年から再びエジプトとイギリスの両国による共同統治下[注釈 1](英埃領スーダン)に置かれた。

    1924年以降、北部を中心に独立運動が続けられた為、1924年以降は南北を分断して統治する手法 (Britain's Southern Policy)を採用し、マラリアなどの予防の名目で8度以北の者が南、10度以南の者が北に行くことはどちらも違法とされたことも分裂の元となった。

    1945年、en:Ismail al-Azhariらを中心にウンマ党を結成。独立運動を主導した。

    1954年自治政府が発足。

    第一次内戦 反イスラム蜂起

    独立運動の主体及び自治政府が北部のイスラム教徒中心だったため、1955年に第一次スーダン内戦(南北内戦)が勃発し北部の「アラブ系」イスラム教徒と南部の主に黒人の「非アラブ系 - アニャニャ(英語版)」(主にアニミズム、一部キリスト教徒)が戦った。

    独立・第一次ウンマ党政権
     
    1956年の独立から2011年の南スーダン分離までのスーダン

    1956年1月1日にスーダン共和国(英: Republic of Sudan、1956年 - 1969年)として独立した。

    クーデター・アブード政権

    1958年11月イブラヒーム・アッブード(英語版)将軍がクーデタのを起こし、アブード政権(1958年 - 1964年)が誕生した。

    1960年頃、エジプトのムスリム同胞団の支援を受けてハサン・トラービー(英語版)がイスラム憲章戦線(ICF)を結成した。

    第二次ウンマ党政権

    1964年のアッブード政権崩壊後、1965年4月にウンマ党と国民統一党との連立政権が誕生。

    クーデター・ヌメイリ政権
     
    モハメド・アン=ヌメイリ政権以前の国旗
     
    モハメド・アン=ヌメイリ政権以前の国章
     
    1970年から1985年までの国章

    1969年5月、陸軍のクーデターでジャーファル・ヌメイリを議長とする革命評議会が全権を掌握、国名をスーダン民主共和国に改め、1971年にヌメイリが大統領に就任した。1971年7月には、左派将校によるクーデターが発生してヌメイリ議長が一時追放されたが、同月中に反クーデターが発生して政権へ復帰した[2]。第一次スーダン内戦は1972年のアディスアベバ合意まで続いた。

    1975年にシェブロンにより油田のがアビエイで発見されると、ジャーファル・ヌメイリは南北境界のヘグリグ油田地帯を北部に組入れるために地域区分の組替えを始めた[3]。

    1978年、アニャニャII(英語版)が結成された。

    第二次内戦

    1983年始め、南部に「新スーダン」建設を掲げる非アラブ系黒人有力民族のディンカ人が主体の反政府組織スーダン人民解放軍(SPLA)が、ソ連とエチオピアの支援を受けたジョン・ガランの指導下に組織され、アニャニャII(英語版)と反政府組織の主導権を争うようになった。ヌメイリ政権は1983年9月にイスラム法を導入したため、これに反発するSPLAがゲリラ闘争を拡大、第二次スーダン内戦に突入した。1984年からは旱魃かんばつとエチオピアからの難民流入で経済困難に陥った。

    クーデター・第三次ウンマ党政権(サディク・アル=マフディ政権)

    1985年4月6日にアブドッラフマーン・スワール・アッ=ダハブ(英語版)率いる軍部によるクーデターでヌメイリ大統領は失脚し、エジプトに亡命した。12月に国名はスーダン共和国に戻され、翌1986年4月、議会選で、ムハンマド・アフマドの曾孫にあたるサーディク・アル=マフディー(英語版)を首相とする文民政権が成立した。

    クーデター・バシール政権

    1989年6月30日[4]、オマル・アル=バシール准将がイスラム主義組織の民族イスラム戦線(NIF)と連携して無血クーデターを成功させた。バシールは、「革命委員会」を設置して非常事態を宣言し、自ら元首、首相、革命委員会議長、国防相に就任し、NIFの主張に沿ったイスラーム化を推進した。

    1991年に隣国エチオピアに「アフリカ最大の人権抑圧者」と呼ばれるメレス・ゼナウィ新大統領が就任し、SPLAは後ろ盾を失い3分裂した。

    最高機関だった革命委員会は1993年10月、民政移管に向け解散し、同委員会の権限は内閣に委譲されたが、バシールが首相を兼任したまま大統領に就任した。1994年にコルドファン州が、北コルドファン州、南コルドファン州、西コルドファン州の3州に分割された。同年、SPLAの新たな後ろ盾となっていたウガンダを非難すると、2月6日にはヨウェリ・ムセベニ大統領から神の抵抗軍へ最後通牒が伝えられたが、その2週間後に神の抵抗軍は南スーダンへの越境を開始した (en:Lord's Resistance Army insurgency (1994–2002))。

    1996年3月の議会選では欧米諸国との関係改善を図るバシール大統領派が圧勝し、バシール政権が存続した。1997年に第一次コンゴ戦争が終結すると、ウガンダへの姿勢も軟化させた。

    1998年5月、政党結成の自由などを含む新憲法の可否を問う国民投票を実施し、96.7 %が賛成により成立、1989年以来禁止されていた政党活動が解禁となった(政党登録開始は1999年1月)。しかし、バシール大統領は大統領の権限縮小を狙う国民議会のハサン・トラービー(英語版)議長との確執から、1999年12月に非常事態を宣言し国民議会を解散、内閣も総辞職し、2000年1月に親トラービー派を排除した新内閣が発足、トラービーはバシール政権の与党「国民会議」(NC、NIFを母胎とするイスラム主義政党)の書記長を解任された。

    トラービーは新党「人民国民会議(PNC)」を結成し対抗したが、12月の議会選、大統領選では野党はボイコットし、バシール大統領とバシール派政党が勝利した。2001年2月、PNCと南部のスーダン人民解放運動(SPLA)がスイスのジュネーヴで第二次内戦終結や民主化に向け協力するとの覚書に調印したため、政府はトラービーらを逮捕して対抗した。

    バシール政権(第4次ウンマ党連立政権)

    バシール大統領は2002年8月19日、小規模な内閣改造を実施し、イスラム主義中道派のウンマ党(UP)の分派メンバーを閣僚に登用した。さらに11月30日には中道リベラル政党「民主統一党」(DUP)の分派メンバーも入閣させるなど、野党勢力の取り込みを図ることで、SPLAとの和平交渉と併せて柔軟姿勢を示した。2005年1月9日には、バシールとSPLMとの間で包括和平(CPA)、半年後の暫定政府発足について合意に達した。

    ダルフール紛争

    西部のダルフール地方3州でも2003年以降、アラブ系と非アラブ系の定住民フール人や遊牧民ザガワ人などとの対立が激化し、ダルフール紛争が勃発した。双方が武装勢力を組織したが、特に政府の支援を受けたアラブ系の民兵組織ジャンジャウィードの勢力が強く、民族浄化が行なわれたとして非難の対象となった。また、多くの難民がチャドに流れ込み、ザガワ人のイドリス・デビ大統領が実権を握るチャドとの関係も極度に悪化した。2004年アフリカ連合(AU)が監視要員の派遣を決定した。

    バシール政権(SPLA連立政権)

    2005年7月9日、バシールを大統領、SPLAのジョン・ガラン最高司令官を第一副大統領とする暫定政府が発足した。暫定政府が6年間の統治を行なったうえで南部で住民投票を実施し、北部のイスラム教徒系政権と南部政府の連邦を形成するか、南部が独立するかを決めることになった[5]。

     
      中央・北部諸州(アラブ系が多数派)
      ダルフール
      東部地区(ベジャ人が優勢)
      アビエイ(南北の係争地)
      南コルドファンと青ナイル州(南北の係争地)
     
    ジョン・ガラン元スーダン人民解放軍(SPLA)最高司令官

    7月30日、副大統領となったばかりのガランが、ウガンダ訪問からの帰途に事故死。ヘリコプターが悪天候のため墜落したとされる。これを聞いた南部住民数千人がアラブ系住民を襲撃するなどの事件が発生。また、SPLAを束ねてきたガランの死は、SPLA内部の権力争いにつながる可能性を帯びている。さらに、SPLAは南部側の政府代表といってもそのうちの旧主流派はディンカ人中心だった。南部のヌアー族が政権の支援を受け、SPLAへの攻撃を開始するとの憶測も流れた。

    ウガンダとコンゴ民主共和国軍による神の抵抗軍掃討作戦ガランバ攻勢(英語版)(2008年12月14日 - 2009年3月15日)に南スーダン自治政府が協力する部隊を派遣した。2009年3月4日、ダルフールでの戦犯容疑(人道に対する罪などの容疑)でバシール大統領が国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状を出されている。同大統領は、逮捕状発行後、エリトリアとエジプトを訪問している。2009年3月26日、バシール大統領はリビアを訪問し、アフリカ連合(AU)の議長でもあるカダフィ大佐と会談した。リビアが3国目。

    2010年7月11日、国際連合とAUの合同ダルフール派遣団は、同地方での武力紛争により、6月の死者は221人に達したことを明らかにした。2010年7月12日、国際刑事裁判所 (ICC)は、バシール大統領にジェノサイド(大量殺害)犯罪容疑で2回目の逮捕状を発行した。7月15日、スーダンの2005年包括和平合意(CPA)の北部のスーダン国民会議(NC)と南部のSPLAは、南北境界画定合同委員会を補佐する小委員会の設置で合意したことを明らかにした。この南北境界画定合同委員会は3年前に発足した。7月21日、バシール大統領はサヘル(サハラ南縁)諸国首脳会議のためチャドを訪れた。同大統領がICC 締結国を訪問するのは初めてである。

    アビエイ問題

    南北和平協定における協定事項の一つであるアビエイの境界を巡り、北部側が提案を拒絶しディンカ系住民を攻撃し2007年末より戦闘が激化し、2008年には正規軍同士が衝突するに至った。その後、調停により帰属未決定のアビエイ地域を除くアビエイ地区はスーダン側の支配下となったが、アビエイ地域以外のアビエイ地区に含まれていたヘグリグ油田は、南スーダンに帰属すると主張し、2012年3月に南スーダン軍が同油田に侵攻。南北スーダン国境紛争が発生した。

    南スーダンの独立

    2011年1月9日、南部の自治政府による独立の是非を問う住民投票が行われ、南スーダン独立票が過半数に達した。この投票のために国連はスーダン派遣団を送り、住民投票監視団の一員として元アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターがスーダン入りしている。

    2011年7月9日に南スーダンは独立したが、南スーダンには石油など豊富な地下資源が眠っており、その境界の資源の帰属を巡って現スーダン政権との間に新たな混乱が生じる可能性もある。

    2011年11月10日、スーダン軍は、南スーダン北部ユニティ州イダ[注釈 2]や上ナイル州の難民キャンプを爆撃した。また、同軍は南コルドファン州と青ナイル州でスーダン人民解放運動・北部(SPLM・N)民兵の掃討作戦を進めている。

    2012年には国境の油田を巡って武力衝突が発生している。

    バシール政権の崩壊と暫定政権の成立

    2018年末よりパンの値上げをきっかけとして反政府運動が全土で発生し、2019年4月11日に国防軍がバシールを大統領から解任し身柄を拘束。ここに30年にも及ぶバシール独裁政権は終焉を迎えた(2019年スーダンクーデター)。政権は軍による暫定軍事評議会が掌握し、これに対し民主化勢力「自由・変革同盟」は民選による政権樹立を要求。双方による協議は幾度となく中断したものの、8月17日、両者は3年3か月間の暫定政権で共同統治を行い、そのトップはまず軍人が1年9か月務め、その後に文民が1年6か月務めることとし、2022年に選挙を実施することで最終合意し、暫定憲法に調印した[6][7]。8月21日に新たな統治機構である最高評議会が発足し、11人のメンバーが宣誓したほか、経済学者のアブダッラー・ハムドゥークが首相への就任宣誓を行い、新政権が発足した[8][9]。アフリカ連合(AU)は軍部とデモ隊の衝突が発生したことを機に加盟国としての資格を停止したが、暫定政権樹立を受け、9月6日に停止処分を解除した[10][11]。

    2021年10月25日、暫定政権のハムドゥーク首相が軍に拘束され、統治評議会のブルハン議長が同評議会と暫定政権の解散を宣言[12]。全土への非常事態発令を表明した[12]。11月21日、ブルハン将軍が、自宅に軟禁されていたハムドゥーク首相の復職に同意した[13]。

    スーダン軍は民政移管に向けた枠組みについて2022年に民主派勢力と合意したが、アラブ系民兵組織ジャンジャウィードを前身とする準軍事組織RSF(即応支援部隊)と組織統合を巡って対立し、2023年4月15日から首都ハルツームなど国内各地で戦闘に突入した[14]。

    ^ 宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』第8版(講談社現代新書、2003年2月20日)pp. 149–158 ^ 「スーダンで反クーデター 再びヌメイリ議長」『中國新聞』夕刊1971年(昭和46年)7月23日1面 ^ "Sudan: Breaking the Abyei Deadlock" (PDF, 456 KiB) , International Crisis Group, 12 October 2007, p. 2 ^ 片山正人『現代アフリカ・クーデター全史』叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9 p333 ^ 小田英郎・川田順造・伊谷純一郎・田中二郎・米山俊直監修『新版アフリカを知る事典』(平凡社、2010年11月25日新版第1刷)p. 540 ^ “スーダンのデモ隊、軍事評議会との歴史的合意に歓喜”. AFPBB News. フランス通信社. (2019年7月6日). https://www.afpbb.com/articles/-/3233929 2019年10月10日閲覧。  ^ “スーダンで暫定憲法に調印、8か月の混乱に終止符 喜びの声 夜更けまで”. AFPBB News. フランス通信社. (2019年8月18日). https://www.afpbb.com/articles/-/3240276 2019年10月10日閲覧。  ^ “スーダンで文民多数の統治機構発足 首相就任”. AFPBB News. フランス通信社. (2019年8月22日). https://www.afpbb.com/articles/-/3240858 2019年10月10日閲覧。  ^ “Sudan's Opposition Alliance Chooses Prime Minister”. ボイス・オブ・アメリカ. (2019年8月16日). https://www.voanews.com/africa/sudans-opposition-alliance-chooses-prime-minister 2019年10月10日閲覧。  ^ “アフリカ連合がスーダンの加盟資格を停止”. TRT 日本語. トルコ国営放送. (2019年6月7日). https://www.trt.net.tr/japanese/shi-jie/2019/06/07/ahurikalian-he-gasudannojia-meng-zi-ge-woting-zhi-1214464 2019年6月9日閲覧。 [リンク切れ] ^ “スーダン、AUに復帰=組閣受け資格停止解除”. 時事ドットコム (時事通信). (2019年9月8日). オリジナルの2019年11月6日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20191106133943/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019090800378&g=int 2021年10月25日閲覧。  ^ a b “スーダン、暫定政権を解散 軍が首相ら拘束、クーデターか”. 時事ドットコム (時事通信社). (2021年10月25日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2021102500617&g=int 2021年10月25日閲覧。  ^ “軍、首相の復職に同意 拘束の高官ら解放へ―スーダン”. 時事ドットコム (時事通信社). (2021年11月21日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2021112100282&g=int 2021年11月21日閲覧。  ^ 「スーダン 民間97人死亡 各地で戦闘、被害拡大も」『朝日新聞』朝刊2023年4月18日(国際面)同日閲覧


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