のコンテキスト イスラム教

イスラム教(イスラムきょう)、イスラーム教イスラームは、唯一絶対の神(アッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。漢字圏においては回教(かいきょう)または回々教(フイフイきょう)と呼ばれる。

ユダヤ教やキリスト教と同じ一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじるとともに、全ての信徒がウンマと呼ばれる信仰共同体に属すると考えて、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。

一般には法律と見做される領域まで教義で定義している、信者の内心が問われない、正しい行いをしているか、天国に行けるかは神が決めることで死ぬまでは(国家がイスラム教について規定する場合はともかくとして、少なくとも本質的には)人間の間で問題にされないなどの点で、仏教やキリスト教とは大きく異なる。

詳細について イスラム教

履歴
  •  
    マディーナにて
    始原

    西暦610年頃に、ムハンマドはメッカ(「マッカ」とも言う)郊外で天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受けたと主張し、アラビア半島でイスラーム教を始めた。当時、メッカは人口一万人ほどの街で、そのうちムハンマドの教えを信じた者は男女合わせて200人ほどに過ぎず、他の人々は彼の宗教を冷笑したが、妻のハデージャや親友のアブー・バクル、甥のアリー、遠縁のウスマーン達は彼を支えた。

    しかし、メッカでの信者達は主にムハンマドの親族か下層民に限られており、619年に妻と、イスラム教徒にはならなかったが強力な擁護者であった叔父が他界すると、彼はメッカの中で後ろ盾を失い、批判は迫害へと変わった。そのため、彼は622年、成年男子七十名、他に女子供数十名をヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に先に移住させ、自身も夜陰に紛れメッカを脱出し、拠点を移した。これをヒジュラ(聖遷)と言い、以後、彼らはメッカと対立した[1]。

    マディーナでは、ムハンマドはウンマと呼ばれる共同体を作り、これは従来のアラビアの部族共同体とは性格を異にする宗教的繋がりであったが、同時に政治・商業的性格をも持っていた。しかし、全てが順調に進んだわけではなく、やがて現地のユダヤ人と対立し、それは後には戦闘を含む規模にまで激化し、そのためムハンマドは教義を一部変更し、当初はユダヤ教の習慣に倣って、イスラム教徒もエルサレムに向けて礼拝していたところを、対立たけなわの頃からメッカのカーバ神殿へと拝む方角を変えたりした。現在でも、世界中のイスラム教徒がメッカへの方角に拝礼するのは、この時に始まる。また、ハデージャの死後、やもめとなっていたムハンマドは、マディーナでアーイシャという後妻を娶るが、彼女はまだ9歳の少女であった[2]。以後、彼は8人の妻を娶る。アイーシャ以外の妻はハディージャも含めて全て未亡人であった。

    また、ある時、ムハンマドはメッカの千頭ものラクダを連れた大規模な隊商を発見し、上述の70人とメディナで得た200人ほどの支援者と共にこれを襲おうとしたが、メッカ側も危機を察し、950名を派遣して、バドルで激突した(うちメッカ側300人は途中で引き返す)[3]。624年9月のことであり、ムハンマド側が勝利すると、これを記念して、以後、イスラム教徒はこの月になると、毎年断食をするようになった[1]。(後にヒジュラ暦が制定されると、この月はラマダーン月となった。今ではこの断食のことを、よくラマダーンと呼ぶ。)

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    マディーナにて
    始原

    西暦610年頃に、ムハンマドはメッカ(「マッカ」とも言う)郊外で天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受けたと主張し、アラビア半島でイスラーム教を始めた。当時、メッカは人口一万人ほどの街で、そのうちムハンマドの教えを信じた者は男女合わせて200人ほどに過ぎず、他の人々は彼の宗教を冷笑したが、妻のハデージャや親友のアブー・バクル、甥のアリー、遠縁のウスマーン達は彼を支えた。

    しかし、メッカでの信者達は主にムハンマドの親族か下層民に限られており、619年に妻と、イスラム教徒にはならなかったが強力な擁護者であった叔父が他界すると、彼はメッカの中で後ろ盾を失い、批判は迫害へと変わった。そのため、彼は622年、成年男子七十名、他に女子供数十名をヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に先に移住させ、自身も夜陰に紛れメッカを脱出し、拠点を移した。これをヒジュラ(聖遷)と言い、以後、彼らはメッカと対立した[1]。

    マディーナでは、ムハンマドはウンマと呼ばれる共同体を作り、これは従来のアラビアの部族共同体とは性格を異にする宗教的繋がりであったが、同時に政治・商業的性格をも持っていた。しかし、全てが順調に進んだわけではなく、やがて現地のユダヤ人と対立し、それは後には戦闘を含む規模にまで激化し、そのためムハンマドは教義を一部変更し、当初はユダヤ教の習慣に倣って、イスラム教徒もエルサレムに向けて礼拝していたところを、対立たけなわの頃からメッカのカーバ神殿へと拝む方角を変えたりした。現在でも、世界中のイスラム教徒がメッカへの方角に拝礼するのは、この時に始まる。また、ハデージャの死後、やもめとなっていたムハンマドは、マディーナでアーイシャという後妻を娶るが、彼女はまだ9歳の少女であった[2]。以後、彼は8人の妻を娶る。アイーシャ以外の妻はハディージャも含めて全て未亡人であった。

    また、ある時、ムハンマドはメッカの千頭ものラクダを連れた大規模な隊商を発見し、上述の70人とメディナで得た200人ほどの支援者と共にこれを襲おうとしたが、メッカ側も危機を察し、950名を派遣して、バドルで激突した(うちメッカ側300人は途中で引き返す)[3]。624年9月のことであり、ムハンマド側が勝利すると、これを記念して、以後、イスラム教徒はこの月になると、毎年断食をするようになった[1]。(後にヒジュラ暦が制定されると、この月はラマダーン月となった。今ではこの断食のことを、よくラマダーンと呼ぶ。)

    この後もメッカや近隣のユダヤ人との攻防勝敗を繰り返しながら、ムハンマドは周辺のアラブ人たちを次第に支配下に収め、630年ついにメッカを占領し、カーバ神殿にあったあらゆる偶像を破壊して、そこを聖地とした。なお、メッカを占領する頃になるとムハンマド達は一万人の軍を組織できるようになっていたが、このムハンマドを巡る抗争で弱り切ったメッカを背後から襲おうと、南ヒジャーズ地方の人々一万人が武装して、メッカ近郊に待機していた。メッカを手に入れると、直後にムハンマドはこれらを襲撃、大破したが、アラビア半島で万単位の軍が激突することは、数百年来なかった大事件であった。このため、ムハンマドの声望は瞬く間にアラビア中に広まり、以後、全アラビアの指導者たちがムハンマドの下に使節を送ってくるようになった。こうして、イスラム教はアラビア中に伝播した[4]。(ちょうど、東ローマ軍の侵攻で、近隣のサーサーン朝ペルシアが衰退していた時期でもあり、それもこうした動きに拍車をかけた[5]。)

    ジハードとイスラム帝国の形成

    その翌々年にムハンマドはマディーナで死ぬが、マディーナの民は紆余曲折の末、イスラム教の後継者にアブー・バクルを選び、その地位をカリフと定めて、従った。しかし、アラビア中でそれを認めない指導者は続出し、中には自ら預言者と主張する者も現れ、まとまってマディーナを襲う準備を始めた。アブー・バクルたちから見ればとんでもない動きであり、以後征討戦が繰り広げられ、アブー・バクル側が勝利すると、カリフ制度はイスラム教の政治的中核として定まった。こうしたムハンマド死後の一連の後継者紛争を、イスラム側の史書では、リッダの戦い、と呼ぶ[6]。

    ところで、イスラム教はこうして発足したが、結集した軍隊を解散してしまえば、軍隊を構成していた群衆は元の民に戻ってしまうため、イスラム教を存続させられるかさえ分からない有様であった。しかし、軍に給与を払うほどの財源はマディーナにはなく、そのため、軍隊を維持するには、敵とそこからの略奪品を求めて、常に戦い続けるしかなかったのである。こうして、常に新たな敵を求めて、以降も、イスラム教徒による征服戦争は続けられた[7]。

    まずは、近隣の東ローマ領となっていたシリアに侵攻したが(633年)、当時東ローマとサーサーン朝ペルシアは上述の大戦争のため、共に疲弊しており、さらには、シリア住民は単性論者が多く、これはキリスト教では異端であり、迫害の対象であった。一方、やってきたイスラム教徒は住民に歓迎され、東ローマ軍は多少の抵抗をしたものの、十年もしないうちに降伏し、こうしてイスラム教徒はシリアとエジプトの肥沃な領土を手に入れた[7]。

    ほぼ同時期に、サーサン朝に対しても事を起こす。この帝国は当時、戦争による疲弊に加えて、皇帝不在がその直前まで続いており、極度の混乱状態にあった。そのため、イスラム教のアラビア人による略奪と征服は、自然発生的に行われていたが、その略奪隊を組織するため、ハリードがイラクに派遣された。彼は複数の街を征服した後、シリア戦線に去ってしまい、残されたイスラム軍は統制を欠き、進軍は停滞し、各所で敗戦を重ね、サーサン朝が勝利するかに見えた。

    しかし、アブー・バクルの後で2代目カリフとなったウマルは、新たに将軍を任命し、態勢を立て直し、636年、カーディシーヤで重装の騎兵や象兵を含むペルシア軍を撃破し、642年にはニハーヴァンドでペルシア皇帝自らが率いる親征軍を大破して、皇帝は数年後に部下に殺されて、こうしてペルシア地域も、イスラム教徒に下ったのであった[8]。 一方、こうした遠征と同時並行的に、イスラム軍は、海からも遠征を開始した。637年、小艦隊ではあったが、イスラム軍はアラビア半島東部のオマーンを出港して、インドのボンベイ付近を略奪し、その後も、インド洋方面への攻撃を繰り返した[9]。

    こうして、イスラム教はその軍事活動をもって教勢を中東中に広げ、周辺地域への遠征活動はその後も続き、短期間のうちに大規模なイスラム帝国を築き上げた。

    スンナ派とシーア派の分離

    しかし、拡大とともに内紛も生じ、2代カリフ・ウマルの暗殺後、ウスマーンが後を継ぐが、イスラム教徒内でわだかまっていたウマイヤ家(クライシュ族の中の有力部族)への反発から、やがて彼も殺され、ムハンマドの従弟のアリーが4代目カリフとなる。が、ウマイヤ家のシリア総督ムアーウィアは反発し、両者の間で戦闘を交えた対立が起きてしまう。結果的に、アリー(661年)とその息子フセインは殺害され(680年)、ムアーウィアがカリフとなり、以後は選挙によらず、ウマイヤ家の家長がカリフ位を世襲するようになった[10]。イスラーム勢力はこれを機に、ウマイヤ朝という明白な世襲制王朝へと変貌することになり、その体制の違いから、アリーまでの四代を正統カリフとして、以後のカリフと区別する見方が、一般的である。

    また、こうした四人の正統カリフのうち、三人までもが暗殺で亡くなっているのも特徴的である[11]。こうして脱落したアリーの支持勢力を中心に、4代以降の座を巡って、ムハンマドの従兄弟アリーとその子孫のみがイスラーム共同体を指導する資格があると主張する急進派のシーア派(「アリーの党派(シーア・アリー)」の意)と、それ以外の体制派のスンナ派(「ムハンマド以来の慣習(スンナ)に従う者」の意)へと、イスラーム共同体は大きく分裂した。また、ウマイヤ朝下では、政治的少数派となったシーア派は次第に分派を繰り返していき、勢力を狭めた。

    ウマイヤ朝
     
    750年ころのウマイヤ朝の領土。濃い赤はムハンマド生前の領土、赤は正統カリフ時代の領土

    ムアーウィアは、現実感覚に富み、柔軟な手練手管でイスラム帝国を統治した。彼の体制が大きく変わるまでの約100年弱の期間を称して、一般にウマイヤ朝と呼ぶ。彼はウマイヤ家の封土であったシリア優先政策を採り、首都もダマスカスに移したが、他方では、懐柔政策で地方の反乱を未然に防ぎ、息子ヤジードのカリフ位世襲に腐心した。当時の史料には、メッカ・マディーナの有力者に賄賂を与え、反対者を孤立させたうえで、自ら千騎を率いて、マディーナに乗り込み、残った者達を黙らせる様子が描写される。

    こうして、680年に彼が死ぬと、息子のヤジードが即位するが、前例のないカリフ位世襲に反対し、前々代カリフ、アリーの子、フセインが朋輩達に唆されて、反乱を企図する。彼らの反乱は、順次、ウマイヤ朝軍に撃破されるが、その過程で、メッカのカーバ神殿は焼かれ(681年)、マディーナは大規模に略奪され(683年)、翌年には、千人の父なし子が生まれた。イスラム史家は、これを直前のハルラの戦いからとってハルラの子と呼ぶ。シーア派は、フセインの死を悼み、毎年、10月(ムハルラム)の最初の10日間には祭典を行い、彼の一行の殺された地、カルバラはマシュハド・フセインとして聖地のひとつとする。

    一方のウマイヤ朝も、ヤジードが死ぬとその子ムアーウィア2世がカリフ位を継ぐが、病弱で在位3か月にして世を去り、反乱は多発。宿将マルワーンはこれらを平定し、684年にカリフ位に即位するも、後継問題のこじれから在位1年にして妻の一人に暗殺される。こうした中、新たにカリフに即位したアブドゥル・マリクは、文武に長けた名君と讃えられ、再び反乱を起こしたメッカを落として、ようやくウマイヤ朝は小康状態を取り戻した[12]。彼と、その子ワリードの代に、イスラム教徒による遠征は再開され、ギリシャでは東ローマ帝国に攻め入り、コンスタンティノープルを包囲。

    708年には、北アフリカ一帯を征服し、711年にはイベリア半島に上陸して、現地のキリスト教国(西ゴート王国)を滅ぼして、ピレネー山脈を越えて、フランスに侵入した。フランスへの進撃は、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いに敗れるまで続いたが、その後、キリスト教徒による抵抗が強くなり、8世紀中盤には、フランスを放棄して、ヨーロッパではイベリア半島のみを保持するようになる。一方、東部でも同時期(705年)に遠征を再開し、名将クタイバは、サマルカンド占領を嚆矢に、中央アジア、トルキスタン一帯を制圧し、751年にはタラス河畔で唐と激突し、これを撃破した。

    しかし、その後彼は罷免され、それを不満に反乱を起こすが、自分の部下により殺害され、こうしてイスラム帝国の領土拡張は終息した。また、こうした時期、アブドゥル・マリクは、キリスト教徒を激しく嫌い、厳しく弾圧したが、何名かのカリフは懐柔策を行い、キリスト教徒を下層民として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)を課すことで満足した。改宗は奨励され、重税の減免と社会的地位向上を求めて、ムスリムに改宗する者も少なくなかったが、一方で、このシステムにはジレンマがあり、異教徒が減ることは税収の減少を意味し、ウマル2世の代には改宗者(マワーリー)に地租を課すようになり、それはしばしば大きな反乱を誘発した。エジプトでは8世紀にはまだ大多数がキリスト教徒であり、これらがイスラム教徒に改宗するまで、なお500年の年月を必要とした[13]。

    アッバース朝以後

    ウマイヤ朝では、ワリードが死ぬと、子のウマル2世が継いだが、彼の治世は文治政策で後世の史家の評判は良い。その後は、短命だったり暗愚なカリフが相次ぎ、ウマイヤ朝が元来、その構造に抱えた問題(シリア優先主義、アラブ人と改宗者(マワーリー)の不平等)のために、相変わらずに反乱は頻発した。最後の君主、マルワーン2世は、首都をユーフラテス川上流のハルラーンに移し、反乱の大部分を鎮定し、再発防止にシリア諸都市の城壁の撤去を行った。

    こうして、ウマイヤ朝は自らの手で本拠地シリアに破壊の手を加えてしまい、直後に起きたアッバース家の反乱にあえなく敗れ去った[14]。政権の移行は大きな体制の変化を伴ったため、これをアッバース革命という。

    前代のウマイヤ朝がシリア重視主義だったのに対して、アッバース朝では、傾向としてイランが重視され、アラブムスリムと非アラブムスリムの間の租税・待遇が平等化された。政権発足当初の百年間は、政治・経済はもちろん、文化面でも繁栄し、官僚体制やインフラが整備された。(対して、ウマイヤ朝は、部族制の延長的なところがあった。)

    一方で、前嶋信次は、「しかし、ウマイヤ朝は、白衣・白旗に烈日がてりりはえて、どこか陽気で野放図なところがあったのに、アッバース朝の方は黒旗、黒衣で、なにか重苦しく、暗い影が付きまとう感じを与えるが、なぜであろう」とこの時代の評価に一石を投じる[15]。政権交代にあたって、ウマイヤ家の者達は、徹底的に捜索され、捕縛、虐殺された[16]。また、整備された官僚制と徹底したカリフの神聖視の結果、人とカリフの間を文武百官の層が隔てるようになり、人民とカリフの距離は、いよいよ遠くなった。

    前嶋は、「ウマイヤ朝のカリフたちは人間くさいというか、俗っぽいというか、古代アラビアの気風が濃厚であったが、アッバース朝の帝王たちは、だんだん神がかった存在になって、一般民とは隔絶された半神半人のごときものと思われるにいたった」と評価する[17]。アッバース朝のカリフは初代は、アッラーが現世に示した影、と言われ、二代目からは、「アッラーによって導かれたもの」「アッラーによって助けられたもの」といういかめしい称号を帯びるようになった[17]。

    こうした中、領土の拡張の停止に伴い、イスラム教の伝搬も下り坂になるが、他方、イスラム商人の交易を通して、その後の数世紀間に、東南アジア、アフリカ、中国などにイスラム教がもたらされ、一部をイスラム教国、もしくは回族地域とすることに成功した。

    しかし、同時にアッバース朝の時代には、イベリア半島にウマイヤ家の残存勢力が建てた後ウマイヤ朝、北アフリカにシーア派のファーティマ朝が起こり、ともにカリフを称し、カリフが鼎立する一方、各地に地方総督が独立していった。

    近現代

    近代に入ると、イスラム教を奉じる大帝国であるはずのオスマン帝国がキリスト教徒のヨーロッパの前に弱体化していく様を目の当たりにしたムスリムの人々の中から、現状を改革して預言者ムハンマドの時代の「正しい」イスラム教へと回帰しようとする運動が起こる。現在のサウジアラビアに起こったワッハーブ派を端緒とするこの運動は、イスラーム復興と総称される潮流へと発展しており、多くの過激かつ教条的なムスリムを生み出した。リベラル思想やアラブ社会主義等による世俗主義路線の軌道修正も試みられたが冷戦終結以降衰退が著しい。従来世俗主義の代表格であったトルコでは、軍部や財閥と結託した世俗派への反感から21世紀になるとイスラム主義に急旋回している[18]。

    ^ a b 後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、p.42 ^ 小玉新次郎『西アジアの歴史』pp.112-118 ^ 小玉新次郎『西アジアの歴史』p.118 ^ 後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、p.43 ^ 後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、p.44 ^ 後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、p.44-45 ^ a b 後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、p.45 ^ 後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、p.45-46 ^ 『世界の歴史 5』中央公論社、1961年、p.232 ^ 小玉新次郎『西アジアの歴史』pp.132-134 ^ 小玉新次郎『西アジアの歴史』p.134 ^ 前嶋信次『世界の歴史8-イスラム世界』河出書房新社、1989年、pp.125-148 ^ 『世界の歴史 5』中央公論社、1961年、pp.237-248 ^ 前嶋信次『世界の歴史8-イスラム世界』河出書房新社、1989年、pp.168-171 ^ 前嶋信次『世界の歴史8-イスラム世界』河出書房新社、1989年、p.181 ^ 前嶋信次『世界の歴史8-イスラム世界』河出書房新社、1989年、pp.181-183 ^ a b 前嶋信次『世界の歴史8-イスラム世界』河出書房新社、1989年、p.184 ^ 世俗派とイスラムが対立するトルコの矛盾 | 時事オピニオン | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス
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