のコンテキスト マヨルカ島

マヨルカ島(マヨルカとう、Mallorca, カタルーニャ語発音: [məˈʎɔrkə], スペイン語発音: [maˈʎorka])、Majorca, 英語発音: [məˈjɔːrkə] )は、地中海西部のバレアレス海に浮かぶ島。バレアレス諸島最大の島であり、メノルカ島とともにバレアレス諸島北東部のジムネジアス群島を構成している。マジョルカ島マリョルカ島とも表記される。

1983年にスペインの自治州としてバレアレス諸島州が成立すると、マヨルカ島のパルマ・デ・マヨルカが州都となった。メノルカ島やイビサ島などバレアレス諸島の他島と同様に人気のある観光地であり、特にドイツとイギリスからの観光客が多い。

詳細について マヨルカ島

基本情報
  • 母国語表記 Mallorca
Population, Area & Driving side
  • 人口 914564
  • 領域 3620
履歴
  • 先史時代
     
    マヨルカ島にある先史時代の集落

    マヨルカ島には先史時代の紀元前6000年-紀元前4000年頃に人類が住んでいた痕跡がある[1]。青銅器時代には巨石記念物を含むタライオティック文化(英語版)が栄え、タライオット(英語版)と呼ばれる埋葬場や住居の痕跡が発見されている[2]。

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    先史時代
     
    マヨルカ島にある先史時代の集落

    マヨルカ島には先史時代の紀元前6000年-紀元前4000年頃に人類が住んでいた痕跡がある[1]。青銅器時代には巨石記念物を含むタライオティック文化(英語版)が栄え、タライオット(英語版)と呼ばれる埋葬場や住居の痕跡が発見されている[2]。

    マヨルカ島のタライオットの例カンポコルブ・ベイ : 現在のリュックマジョールの自治体域 ネクロポリ・ダ・ソン・レアル : 現在のサンタ・マルガリーダ(英語版)の自治体域 ヌベティフォルマ・アラマニー : 現在のカルビア・マガルフ海岸 プブラット・タライオティック・ダ・シリョット : 現在のサン・リュレンス・ダス・カルダサーの自治体域 プブラット・タライオティック・ダ・ソン・フルネス : 現在のムントゥイリ(英語版)の自治体域 サ・カノーバ・ダ・ムレイ : 現在のアルターの自治体域 セス・パイッセス : 現在のアルターの自治体域 セス・タライアス・ダ・カン・ジョルディ : 現在のサンタニーの自治体域 ススピタレット・ベイ : 現在のマナコール の自治体域古代 カルタゴ時代
     
    ローマ時代の投石兵

    初めてマヨルカ島に植民を行ったのは、紀元前8世紀頃にレバント(東部地中海沿岸地方)からやってきて多数のコロニーを築いた航海民族のフェニキア人であり、マヨルカ島は主要なフェニキア都市となっていた北アフリカのカルタゴの統制下に入った。紀元前700年から紀元前145年のバレアレス諸島はフェニキア人によって支配され[3]、マヨルカ島にやってきたフェニキア人は地中海西部で精力的に交易活動を行った[4]。フェニキア人の時代にバレアレス諸島の商業中心地となったのはイビサ島のエイビッサであり、マヨルカ島はわずかな役割を果たしたに過ぎなかったが、ポエニ戦争で投石手としてカルタゴのために戦ったマヨルカ人の存在が文献に記載されている[4]。バレアレス諸島の名称は「投石」を意味するギリシア語の「ballerin」に由来すると指摘する歴史学者もいる[5]。侵略者から領土を守る唯一の防衛手段が投石だったため、マヨルカ人投石手は優れた投石技術でよく知られている[5]。

    ローマ時代
     
    ローマ都市ポリェンティアの遺跡

    バレアレス諸島地域からやってくる海賊との戦いに疲れたローマ人は、紀元前123年にクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・バリアリクス率いる軍隊を送ってマヨルカ島を征服し、約550年に渡るローマ時代が幕を開けた[6][4][1]。バレアレス諸島がキリスト教化されたのはこの2世紀のことである[3]。ローマ時代には北岸のポリェンティア(英語版)(現在のアルクーディアの近く)と南岸のパルマリア(現・パルマ・デ・マヨルカ)という2つの都市があったとされている[4][1]。加えて、建設がローマ以前に遡る北部のボッチョリスの町は、古代ローマの連合市となった[7]。ローマ時代にはオリーブやブドウの栽培、岩塩の採掘などがマヨルカ島の経済を支えていた[1]。マヨルカ人兵士は投石の技術がローマ帝国内で評価された[8]。

    ヴァンダル族
     
    455年のガイセリックの王国(ヴァンダル王国)の最大版図

    古代ローマ文明を終わらせた原因については諸説あるが、5世紀の小氷期が引き金になったという説がある[9]。グンデリック(英語版)王が率いるヴァンダル族は、406年に凍結したライン川を渡り、409年にはピレネー山脈を越え、419年にはイベリア半島西部に国を建てた[10]。425年には当時ヒスパリスと呼ばれたセビージャとカルタゴの間で、西ローマ帝国の目を盗んで密貿易を行い、427年にバレアレス諸島を荒掠した[10]。グンデリックの息子ゲイセリックは地中海においてカルタゴ、シチリア島、コルシカ島、サルデーニャ島、バレアレス諸島に版図を築き、イタリア半島の沿岸集落と密貿易したり海賊行為をしたりする際の基地としてマヨルカ島を利用した[11][12]。ヴァンダル族はキリスト教徒を迫害した[3]。

    中世
     
    ユスティニアヌス1世帝期、555年のビザンツ帝国の版図
    中世前期

    地中海世界の中世は、信仰を統治原理にした3勢力、ギリシア正教・カトリック・イスラームのめまぐるしい交替劇に彩られる。マヨルカ島もこの例に漏れないが、少なくとも中世の前半期は、いずれの勢力が支配した場合であっても島には半独立的な地位が認められた[13]:32。

    ヴァンダル王国を討った将軍フラビオス・ベリサリオスは、配下のアッポロニオスをバレアレス諸島に派遣し、534年前後にマヨルカ島をビザンツ帝国の版図に入れた(cf. ヴァンダル戦争)[13]:32。以後、10世紀初頭に至るまでの500年間弱、島は名目上ビザンツ帝国領になったが、中核的な先住島民へのギリシア正教の影響は限定的であった[13]:35。ビザンツ人はバレアレス諸島の各島にギリシア正教の教会を建て、それぞれに司祭を派遣したが、先住島民の教化は非常にゆっくりしたものであったと見られる[13]:39。マヨルカ島と似たシチュエーションにあったコルシカ島とサルデーニャ島ではビザンチン時代の終わりごろでもまだ、伝統宗教(ペイガニズム)の信仰が強く残っていた[13]:39。20世紀末から実施されるようになったビザンツ時代のギリシア正教の教会址の考古学的調査によれば、タライオット集落、ローマ人の植民市、ヴァンダル族の集落のいずれとも重ならない位置に立地しており、先住島民とのつながりが希薄であった可能性が示唆される[13]:39。

     
    マヨルカ島のギリシア正教会、ソン・ペレト教会(ドイツ語版)の洗礼堂跡

    かつてマウレタニアと呼ばれた北アフリカのマグリブで遊牧生活を営んでいたベルベル人は、8世紀より前はキリスト教などを信仰していたようであるが東方から来たウマイヤ朝によるマグリブの征服後、イスラームを受容した[14]:80-93。イスラーム化及びアラブ化したベルベル人であるムーア人とウマイヤ朝軍はイベリア半島を征服した[14]:80-93。バレアレス諸島にも707年にムスリム軍が来襲し、地元の首長が何人かダマスカスまで捕虜として連行された[13]:33。ムスリム軍は一時期南仏まで攻めたが、789年ごろにはフランク王シャルルマーニュにピレネー山脈まで押し戻された[15]。フランク王国の年代記には、セプティマニアを手に入れたシャルルマーニュの宮廷に、バレアレス諸島が海賊の来襲を受けているという知らせが入ったと記されている[13]:33[15]。798年にマヨルカ島のキリスト教の修道会士からもたらされたこの知らせにおいて、海賊は「サラセン人とムーア人」であるとされている[15]。

    マヨルカ島はムーア人のイベリア半島征服から150年ほど後れた902年、後ウマイヤ朝のアミール、アブドゥッラー(英語版)の時代にコルドバに併合される[4][16]。マヨルカ島のコルドバへの併合の経緯は、イサーム・ハウラーニー(スペイン語版)という人物が航海の途中、荒天のためやむなく島に寄港した際、島の様子を見てこれを気に入り、バレアレス諸島全体のコルドバへの編入をアミールに具申し、アミールがこれを許したとというものだったとされる[16]。ハウラーニーの「コンキスタ」は小規模な小競り合いだけで終了した[16]。ムスリムとの最初の接触があった707年から903年までを「ビザンツ=ムスリム時代」と呼ぶ研究者もいる[13]:33。この時代は外部のイスラーム勢力が散発的に権益を主張する一方で、ビザンツ人が優位を保つ社会構造が継続した[13]:33。なお、マヨルカ島はこの時代にゲルマン系のノルマン人による来寇も経験した(869年)[13]:33。ノルマン人はシチリア島に王国を建国する。

     
    10世紀パルマに建設されたハンマーム(公共浴場)跡

    ハウラーニー以後のムーア人の支配者は海賊行為をよく取り締まり、島の商工業を発展させた[1][16]。政治史上は、後ウマイヤ朝がその後、ターイファ(国)という小王国群に解体・分裂することになり[14]:80-93、マヨルカ島は1015年からデーニアのターイファ(英語版)国の一部、1087年以後は分離してマヨルカのターイファ(英語版)国を形成した[3][1]。しかし、経済上は、アフリカ大陸北岸、イベリア半島、バレアレス諸島がアラブ=イスラームの文化、商習慣を共有したので、マヨルカ島では貿易が盛んになった[1][5]。ムーア人はまた、灌漑や有用作物を島に導入して農業も発展させた(cf. アラブ農業革命(英語版))[1][16]。

    ターイファ時代には、コルドバ出身の博学者、イブン・ハズムがマヨルカ島を訪れ、地誌を著した[17]。イブン・ハズムの『マヨルカ島地誌』は、12世紀頃までのマヨルカ島の歴史を知るための一級の史料になっている[16]。レコンキスタ以後は商工業が停滞したので、マヨルカ島の民俗・言語・食文化などにはムーア人が支配した時代の痕跡がよく保存されている[1][4]。

    中世後期
     
    マヨルカ島に遠征するカタルーニャ人を描いたゴシック調の壁画。アルモガバルスを描いたものか?(バルセロナ歴史博物館(スペイン語版)蔵)

    11世紀から14世紀にかけてのイベリア半島の歴史は、宗教的寛容が失われ、カトリック/ムスリム/ユダヤ人の共存が崩壊していく過程でもある。マヨルカ島はこの点、イベリア半島とは少し異なる歴史をたどった。ファナティックなムラービト朝もムワッヒド朝も半島より遅れてマヨルカ島を支配下に入れ、しかもその支配はずっと緩やかであった。

    マヨルカ島が半島より100年遅れで宗教的にファナティックなムラービト朝の支配下に入ったきっかけは、カトリック勢力の武力攻撃である。マヨルカ島の繁栄は十字軍の襲撃をひきつけることにもつながった。1114年にバルセロナ伯ラモン・バランゲー3世を盟主としたカタルーニャ君主国群、ピサ共和国、聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)等が連合してマヨルカ島への十字軍遠征(カタルーニャ語版、スペイン語版)を行った[3][1]。カトリック連合軍は、イビサ島とマヨルカ島の主都マディーナ・マユールカーを8箇月間包囲した後、交渉の末得た戦利品に満足し、マヨルカ島を占領することなく帰った[18]。マヨルカのターイファはアンダルスの政権ムラービト朝を頼り、マヨルカ島は1116年にムラービト朝の勢力圏内に入った[16]。

    以後の120年ほどの間、マヨルカ島にはワーリーという地方代官が置かれ、ワーリーによる半自律的な統治が行われた[16][19]。ワーリーは、ムラービト朝を興したベルベル系サンハージャ部族(英語版)の一支族、バヌー・ガーニーヤ(ドイツ語版)により世襲された。アンダルスとマグリブの政権が1144年ごろムワッヒド朝に交替した後はバヌー・ガーニーヤが中央の支配を受けず自立した[注釈 1]。ワーリー・イスハーク(ドイツ語版)がマヨルカ島を治めた1152年から1185年までの時代は特に繁栄の時代として知られている[16]。

    ムーア人やアラブ人にはアラビア語でマディーナ・マユールカーと呼ばれた島の主都は、12世紀終わりごろには人口35,000を数えるようになり、人口規模で見ると当時のバルセロナやロンドンと同等の、西ヨーロッパ有数の大都市であった[16]。マディーナは12の街区に分けられ、地中海によく見られる迷宮都市の様相を呈した[16]。また、ムーア人の支配者は被征服民の信仰については自由に任せたため(改宗させると人頭税を徴収できないため)、マディーナには国際都市の雰囲気が漂った[16]。なお、マヨルカ島繁栄の時代(950年-1150年ごろ)は、西洋史学では中世温暖期と呼ばれている時代に合致する。

     
    1229年のカタルーニャ軍によるマヨルカ島の征服を描いた壁画。塔の上でムーア人を刺し殺すカタルーニャ兵。

    1208年から島を治めたムワッヒド朝のアブー・ヤフヤーが最後のワーリーとなった[19][20]。マヨルカ島は1229年にアラゴン王国軍の侵略を受け、マディーナ・マユールカーが9月から3箇月間にわたり包囲された後、開城、マヨルカ島の征服(英語版)が完了した[4][1][21]。マヨルカ島の「レコンキスタ」を成し遂げたアラゴン王国は、もともと内陸のカトリック王国であったが、12世紀前半にカタルーニャと連合し強大化した。西ヨーロッパの中世的封建国家は常に封臣に与える封土を必要としたから(cf. レーエン)、若くして王国を受け継いだハイメ(ジャウマ)1世は領土拡大を企図した(これに対してムスリムのイクター制においては土地の所有権はすべて王にあった)。バレンシアとバレアレス諸島、候補は2箇所あったが、貿易をマヨルカ島の商人に支配されていることに不満を持つバルセロナの商人はバレアレス諸島侵攻を支持した。

    二十歳そこそこの王による治世はその後、50年近く続いた。パルマ大聖堂の建設や大学設立の準備はこの間に行われた[5][22]。ハイメ1世はマヨルカ島にバルセロナ慣習法を導入し、バルセロナ人商人に商業特権を与えた[23]。「カタルーニャ語の父」とも呼ばれる哲学者のラモン・リュイは、このレコンキスタ後にマヨルカ島に生まれて、13世紀後半から14世紀初頭に生きた人物である[3]。

    ハイメ1世が1276年に亡くなるとその領地は2人の息子が分割相続した。アラゴン王位は兄ペドロが継ぎ、バレアレス諸島とセプティマニアを弟のハイメ(ジャウマ)が相続した。弟ハイメは、マヨルカ王位に就いて、自らの相続した国を独立したマヨルカ王国として成立させた[3][1]。アラゴン王位がペドロ3世の息子アルフォンソ3世の代になるとマヨルカの武力によるアラゴンへの再統合が試みられたり(1285年。ローマ教皇の介入で失敗)、メノルカ島が征服されたりした(1287年)が、アルフォンソの次にアラゴン王を継いだハイメ2世は、1291年にメノルカ島をマヨルカ王ハイメ2世へ返還した[3]。

     
    マヨルカ島の地図製作学派(英語版)の一人、アブラハム・クレスカスによる『カタルーニャ地図(英語版)』(14世紀)

    ハイメ2世の治世は短期間だったものの、歴史学者はこの時代をマヨルカ島の「黄金期」と呼んでいる[4]。ハイメ2世の下で農業、工業、海上交易が発達し、新しい村が数多く築かれた[4]。1309年にはパルマ港を見下ろす丘の上にベルベル城が築かれた[22]。アルムダイナは立派なゴシック様式の宮殿に変えられ、サン・フランセセ修道院の建設が始まったのもこの時代だった[4]。

    マヨルカ王ジャウメ2世の息子であるサンス(英語版)王の治世(1312年-1324年)を経て、1324年から1344年のマヨルカ王ジャウメ3世(英語版)の治世には経済的な繁栄の時代を迎え、パルマは地中海地域有数の豊かな都市となった[3]。1344年にはアラゴン王ペドロ4世軍がバレアレス諸島を侵略し、3つの島を再度アラゴン王国に組み込んだ[3][1]。1349年にはジャウメ3世がマヨルカ王国の復活を試みたが、リュックマジョールの戦いで戦死した[3]。

    このようにレコンキスタ後もマヨルカ島はイベリア半島側の政権に完全には組み込まれない時期が存在し、アラゴン十字軍、異端審問の盛行、ユダヤ人やモサラベの迫害といったイベリア半島の情勢と距離があった。コルシカ島、サルデーニャ島、シチリア島へと領土を拡張していったアラゴン王国は地中海の海図を必要とし、マヨルカ島のコスモポリタニズムがこれに応えた。13世紀から15世紀ごろまで「マヨルカ島の地図製作学派(英語版)」というユダヤ人の職人集団が、その幅広い国際的ネットワークを生かして、西方教会圏の西ヨーロッパの知識のみならず、東方教会圏のアナトリア半島や、イスラーム圏の北アフリカやサハラ以南のアフリカの知識をも取り込んだ、当時としては詳細な装飾地図を作成した[24]。これらはカタルーニャ語で書かれ、『カタルーニャ地図(英語版)』と呼ばれる[24]。

    近世
     
    1601年に完成したパルマ大聖堂

    1479年にはアラゴン王国とカスティーリャ王国が統合することでスペイン王国が成立した[3]。バレアレス諸島はたびたび北アフリカからやってくるバルバリア海賊に攻撃されたため、諸島の住民は沿岸部に監視塔や要塞教会を建設した。16世紀のマヨルカ島では何度か暴動が起こり、ユダヤ人の異端尋問が行われ、オスマン帝国の脅威にさらされた[5]。このような情勢を受けて1570年には、スペイン王フェリペ2世とその助言者がバレアレス諸島住民の完全な疎開を検討している[25]。17世紀にも交易活動が復興することはなく、疫病によって数千人が亡くなった[5]。中世からルネサンス期のマヨルカ島は地中海貿易の中継地となった。バレンシアから輸出されたムーア人様式の陶器の影響を受けてイタリア各地で作られるようになった「マヨリカ焼き」の語源はマヨルカ島であるとされることもある[26]。

     
    カリフォルニアで布教したフニペロ・セラ神父

    18世紀初頭のスペイン継承戦争はスペイン・ブルボン朝が確立した戦争である。この戦争の最終局面ではマヨルカ島の征服が行われ、1715年7月2日にはブルボン艦隊がマヨルカ島に到着してマヨルカ島は降伏した。1716年のヌエバ・プランタ王令(英語版)によってマヨルカ島はバレアレス県の一部となり[1]、1718年にはマヨルカ島一般議会が解散させられている[3]。ブルボン朝の下で公的な言語がカタルーニャ語からスペイン語に置き換えられ、さらには飢饉、干ばつ、疫病がマヨルカ島の住民を苦しめた[5]。18世紀に生きたマヨルカ島出身人物としてフランシスコ会修道士のフニペロ・セラがおり、セラ神父はアメリカ大陸のアルタ・カリフォルニアでの布教に大きく貢献した[3]。

    19世紀

    1808年から1813年のスペイン独立戦争時には、フランスに近いカタルーニャ地方からマヨルカ島に難民が流入し、社会的・政治的な緊張状態が高まった[3]。1820年から1822年には北アフリカのアルジェリアや南アメリカに大規模な移民が行われた[3]。1837年にはマヨルカ島とイベリア半島の間に初めて定期船(蒸気船)が就航した[3]。19世紀にはマヨルカ島にもブルジョアが誕生し、社会変革のうねりが起こった[4]。パルマ近くの湿地帯は干拓され、新たに造成された土地は農地となった。カタルーニャ語の復権を試みる地域主義が芽生えた[4]。

    1857年から1887年の期間には農業と工業が発展したために人口が急増したが、その後の10年間にはバレアレス諸島全体で経済が低迷して人口が減少した[27]。害虫フィロキセラの流行によって成長著しいワイン産業が大きな打撃を受けた[3]。さらに1898年の米西戦争でスペインが植民地を喪失したことで、マヨルカ島では造船業も打撃を受けた[4]。繁栄の時代は終わりを迎え、この時期にはマヨルカ島の住民の多くがイベリア半島本土やアメリカ大陸に移住した[4]。

    20世紀
     
    パルマの人口変動(1900–2005)

    1936年7月のスペイン内戦開始時にマヨルカ島はナショナリスト派の牙城だったが、8月16日には共和国派がナショナリスト派を駆逐して島を救うことを目的とした上陸作戦の対象地となった。共和国軍はナショナリスト軍を圧倒して12km内陸まで押し込んだが、空軍力に優れたナショナリスト派は主にイタリア空軍をマヨルカ島に派遣し(イタリアのマヨルカ占領(英語版))、共和国軍は退却と9月12日の完全撤退を余儀なくされた。この出来事はマヨルカの戦い(英語版)として知られている[28]。フランコ体制下のマヨルカ島の政治的状況はイベリア半島本土と変わらなかった[4]。

    1960年代には観光ブームが起こり、数多くのホテル、マンション、ショッピングセンターが建設された[1]。20世紀の観光ブームは、スペイン本土、ヨーロッパ、南アメリカ、アフリカからやってきた移民による人口増加が要因であるとされている[29]。スペイン1978年憲法が制定されて「自治州」設置の扉が開かれると、1983年にはバレアレス諸島自治憲章が制定されてバレアレス諸島州が発足し、バレアレス諸島州にある3つの島評議会のひとつとしてマヨルカ島評議会が設立された[3][30]。21世紀にはミラー計画と呼ばれる都市再開発の下で、欧州連合(EU)外の特にアフリカと南アメリカから移民労働者を引き寄せた[31]。今日のマヨルカ島住民は概して高い生活水準にある[29]。

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