アヤソフィアトルコ語Ayasofya Camii古典ギリシア語Ἁγία Σοφία (Hagia Sophiā)現代ギリシア語Αγία Σοφία (Agia Sophia) /aʝa sofja/)は、トルコ共和国のイスタンブールにあるモスク。2020年7月までは博物館であった。

元々は東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)時代に首都コンスタンティノープルで建てられたキリスト教正教会の大聖堂を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地であったが、1204年から1261年まではラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。その後はオスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落が起きた1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりイスラム教モスクとして改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となった。トルコ共和国政府は1935年2月1日、世俗的な博物館(トルコ語: Ayasofya Müzesi)とし、それが2020年7月まで続いた。

東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、キリスト教建築物でありながらオスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。日本語では慣用的に「ハギア・ソフィア」と呼称されるが、正教会では「アギア・ソフィア大聖堂」または「ハギア・ソフィア大聖堂」とも呼ばれる。

創建  旧ハギア・ソフィア大聖堂の遺構
415年にテオドシウス2世によって再建された聖堂の一部

アヤソフィアは元来、キリスト教の大聖堂である。最初の聖堂は、東ローマ帝国首都コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)にコンスタンティヌス大帝の子コンスタンティウス2世の手によって350年頃に建設が始まり360年2月15日に、アリウス派僧侶の司教アンティオキアのエウドクシオス(英語版)によって[1]献堂された[2]。

単に大教会(メガリ・エクリシア)と呼ばれており、聖堂は再建されても常に巨大なものであったため、以後もほとんどこのように呼ばれている。 この聖堂が最初からハギア・ソフィアと呼ばれていたのか、後の再建からハギア・ソフィアと命名されたのかは分からない[2]。最初の教会堂は木造屋根をもったバシリカだったらしく[2]、「偉大な教会」(Μεγάλη Ἐκκλησία (Megálē Ekklēsíā, "Great Church"))またはラテン語で「Magna Ecclesia」[3]と呼ばれた。これは、都市内にあったどの教会よりも大きな建物であったためである[4]。今日ではその位置しか知られていない。

404年にコンスタンティノープル大主教ヨアンネス・クリュソストモス追放に伴う争乱でこの聖堂が焼失すると、テオドシウス2世によってすぐに再建が行われ、415年に献堂された[2]。この聖堂も現在のものとは全く違うバシリカであり、現在でも一列の円柱と柱基、装飾された梁が残っている。

しかし、この聖堂も 532年1月の首都市民の反乱(ニカの乱)における放火で、皇帝宮殿の一部やアギア・イリニ聖堂(英語版)とともに再び焼失してしまう[5]。

コンスタンティノープルのソクラテスが440年に記したところによると、教会は346年にコンスタンティウス2世によって建設されたという[1]。しかし7世紀 - 8世紀以降からの口伝では、この大建築物はコンスタンティヌス大帝によって建てられたという[1]。ヨハネス・ゾナラス(英語版)は2つの説を整合させ、コンスタンティウス2世はニコメディアのエウセビオス(英語版)が献納した建物が壊れたため修理をしたのだと述べた[1]。エウセビオスは339年から341年にコンスタンティノープルの司教職を務め、大帝は337年に亡くなっているため、最初の教会が大帝によって創建されたという考えは可能である[1]。この最初の教会は、コンスタンティノープル大主教のヨアンネス・クリュソストモスが皇帝アルカディウスの妃アエリア・エウドキアと対立し404年6月20日に追放処分に科せられた後に発生した暴動で焼失した[1]。

現在に至る構築  アヤソフィア大聖堂の内部

2度の焼失を経た後、ユスティニアヌス帝は直ちに再建することを決定し[5]、その設計を技師(ミヒャノピオスまたはミヒャノコス)トラレスのアンテミオスとミレトスのイシドロスに委ねると、金に糸目をつけず世界中から工員を集め、工事開始を急かした[2]。過去のパジリカ復旧ではなく全く新たに設計され直した大聖堂の建設過程は、プロコピオスによって詳細に報告されている[2]。両者は地表の水平面を正確に計測し、ドームを支える主支柱をレンガではなく大型の石材で造成することによって、クリープによる変形や乾燥収縮が起きないようにした。このように緻密に建設を進めたにもかかわらず、ドーム下部のアーチ架構に差し掛かると建物は変形し始め、各所で亀裂や破壊がおこったとされている。プロコピオスによると、東側の大アーチの工事が完成しないうちにこれを支える主柱が外側に傾き始め、また、南と北のアーチは養生段階で下部のティンパヌムに過大な荷重をかけたため、窓の円柱か2階廊下の円柱が破壊し始めた。それでも、巨大なバットレスをドーム直下にまで補強するなどの方法によって高さ41.5 mのドームは建設された。

工事は5年11か月という短期間で終了し、 537年12月27日、ユスティニアヌス帝を迎え、総主教メナスによる献堂式を迎えた[2]。この時ユスティニアヌスは、古代イスラエル王国のソロモン神殿を凌駕する聖堂を建てたという思いから、 「ソロモンよ、余は汝に勝てり!」と叫んだと伝えられている[2]。プロコピオスは著書『建築について』にて、計算された巧みな比率を持ち、比率陽光が豊かに差し込む会堂内部を「美の殿堂」と称え、中央の半球状ドームはまるで金の鎖で天空から吊るされたようだと感想を述べた[2]。

しかし、計画では真円になるはずだったドームは、建築中の歪みによって南北に2 m程度長い楕円形になっており、また、ドーム基部に現在よりも大きな開口部を設けていたため、553年から頻発した地震によって亀裂を生じた。特に557年12月14日の地震によって聖堂は大きなダメージを受け、558年5月7日に東側のアーチと半ドーム、そして中央ドームの半分が崩壊した[6][7]。この崩落の主な原因は、非常に重い支持構造と、平たいドームの重さによる強いせん断荷重であった[8]。これらがドームを支えていたアーチに変形を引き起こした[8]。

再建工事は直ちに着手され、残存していたドームは取り除かれた[6]。現在にみるドームは、小イシドロスら専門家によって内壁を補強した上に架けられた第2ドームである。彼らは旧来のドームにあった構造上の弱点を分析し[6]、まずアーチの壁厚を調整して、ドーム基部を正方形に近づけ、元よりも約6.4 m高いドームを構築し[6]、現在に至る高さ55.6 mへ改めた[9]。また、軽量の建築材料を用いる工夫も施し[8]、形状もリブ構造とペンデンティブを備えるものに改良し、その直径も32.7 - 33.5 mとなった[8]。

ドーム再建後、562年12月24日に新たに献堂式が行われ、賞賛の合唱の中ユスティニアヌスは総主教エウテュキオスとともに戦車に乗って堂内に入ったとされる[6]。このドームは989年10月26日と1346年5月19日に大規模な崩落を起こしており、10世紀の崩落ではドーム西側3分の1を、14世紀の崩落では南東方向の半分を失った[10]。その際、基本的なデザインを維持したまま修復されたが、ドームの開口部は段階的に縮小された。

また、563年には小イシドロスによって外側にドーム基部まで立ち上がる4基の塔状バットレスが建設された。これは現在3基が現存しており、堂内の4つの主柱に対応し、内部には折れ曲がった階段がある[10]。その後も補強を目的とした構造物の増築は続き、特に9世紀に行われた南北のティンパヌムは大規模な工事となった[10]。

726年、皇帝レオーン3世はイコノクラスム(聖像破壊運動)を先導し、一連の勅令を発する中で軍(英語版)に全てのイコンを除く命令を下した。これによって全ての宗教画や像はアヤソフィアから取り除かれた。イコノクラスムはレオーン4世の皇后エイレーネー(後に女帝)が主導した787年の第2ニカイア公会議でいったん終息した[11]が、829年に即位した皇帝テオフィロスはイスラム美術の影響を強く受け[12]、生物の表現一切を禁じた[13]。

989年10月25日の大地震は西側ドームのアーチ部分を崩落させた。皇帝バシレイオス2世はアルメニア人建築家であり、アニやアグリナの教会建設を行ったアルメニア人のアルキテクトのトルダト(英語版)に修復の主導を依頼した[14]。

トルダトは落下したドームのアーチを再建し補強を施し、さらに西側のドーム15基にもリブ構造を導入した[15]。この工事には6年が費やされ、994年5月13日に完成した。この時、4大天使の絵画を含む装飾にも手が加えられ、ドーム部分のキリストや後陣の使徒ペテロとパウロの間でキリストを抱いた聖母マリアが加えられた[16]。側面の大きなアーチには、預言者や教父らの絵画が施された[16]。

ユスティニアヌスによって再建されたアヤソフィア大聖堂は、コンスタンティノープル総主教庁の所在地として正教会第一の格式を誇り、また東ローマ帝国の諸皇帝の霊廟として用いられた。コンスタンティノープルを訪れた人びとの巡礼記録から、聖堂内には現在では失われた施設・聖遺物があったことが知られる。14世紀にコンスタンティノープルを訪れたロシア人スモレンスクのイグナティオスの記録では、聖堂内部には多くの礼拝堂が設けられ、「ノアの箱船の扉」やイエス・キリストが磔にされた「聖十字架」、「アブラハムのテーブル」など、多くの聖遺物が安置されていた。また、この時代は隣に総主教の宮殿が併設されており、内ナルテクス南端の、現在では出入り口となっている部分は、総主教宮殿への通路となっていた。

カトリックからの奪還

アヤソフィアは13世紀、ラテン帝国の支配にあった1204 - 1261年にはカトリックの影響下に置かれた[17](背景については「第4回十字軍」参照)。1261年の奪還後[18]、床の装飾の一部にラテン皇帝ボードゥアン1世の墓碑文は、ビザンティンの人々が吐き捨てる唾に晒された[19] 。奪回した時、教会は荒れ果てた状態にあった。1317年、アンドロニコス2世パレオロゴスは亡き妃ヴィオランテ・ディ・モンフェラートの遺産を使い、教会の東と北に4つのバットレスを新設した[18]。

オスマン帝国時代  アヤソフィアのミナレット アヤソフィアのミフラーブ

1453年、オスマン帝国皇帝メフメト2世はコンスタンティノープルをイスラムの勢力下に収めるため包囲した[20]。後に彼自身が後悔する事になるが、メフメト2世は都市の占領が成し遂げられれば、3日間の略奪行為を許すと軍に告げた[21][22]。アヤソフィアも例外ではなく、むしろ都市の宝物が収めてあると考えられ標的にされた[23]。コンスタンティノープルの防衛網が崩れると、略奪者らはアヤソフィアへ押し寄せ、ドアを叩き壊した[24]。教会に避難していた、防衛の役に立たない多くの者たちは[25][26]、教会に集まった人々もろとも侵略者の戦利品になり、虐殺されるか奴隷として鎖に繋がれ、建物も荒らされ略奪された[23][24]。キリスト教聖職者らは侵略者が妨害するまで祈り続けていた[24]。メフメト2世は家臣らと到着すると、アヤソフィアをイスラム教のモスクに造り替えると宣言した。するとウラマーの一人が聖壇に上がり、シャハーダの暗唱が行われた[18][27]。

こうして5月29日、 コンスタンティノープルの陥落を成し遂げたメフメト2世は、その日の午後に市入城するとすぐにこの大聖堂に赴き[17]、大聖堂入り口の土を自らのターバンに振りかけて堂内に入り、コンスタンティノポリス総主教庁から大聖堂を接収してモスクへ転用することを宣言した[28][18][29][30]。 このときにアヤソフィア大聖堂に接続する総主教館は破壊され[17]、アヤソフィア内部は十字架が取り外され、マッカ(メッカ)の方向を示すくぼみであるミフラーブが加えられた。だが内部の改修は必要最低限にとどめられた事は、壁龕の聖人・教父像が現存している事からうかがえる[17]。その後、4本のミナレットが建設され、南には帝国王室の墓所に使われた[17]。礼拝堂内にはミンバルと呼ばれる説教壇も取り付けられた。アヤソフィア・ジャミィと呼ばれるようになったこの聖堂はトプカプ宮殿の側に位置し、オスマン帝国の君主が毎週の金曜礼拝に訪れ、帝国において最も格式の高いモスクの一つとされた。

しかしその状態は、例えばコルドバのペドロ・タファ(英語版)[31]やフィレンツェのクリストフォロ・ボンデルモンティ(英語版)[32]など西側のからの旅行者が記したように、教会は荒廃するに任され、扉が外されたまま放置された箇所もあった。建物の手入れと改築を命じたメフメト2世は、同年6月1日には最初の金曜礼拝に赴いた[30]。アヤソフィアはコンスタンティノープルにおけるオスマン帝国初のモスクとなった[33]。

1481年までに、南西の階段塔の上にミナレットが建設された[18]。次代のスルターンであるバヤズィト2世はミナレットを北東角に設置した[18]。このうち一つは1509年のイスタンブール地震(英語版)で倒壊したが[18]、16世紀半ば前後に建物の東西部分に新設されたミナレットと対角線上に当る部分に移設された[18]。16世紀にはスレイマン1世が征服したハンガリーから2基の巨大な燭台を持ち帰り、ミフラーブの両脇に据えた。セリム2世時代には建物に劣化が見え始め、建築家であり世界初の地震対策技術者とも評されたミマール・スィナンが主導した外部からの補強構造追加など幅広い補修工事が行われた[34]。スィナンは歴史的なビザンティン建築の西端に2基の大きなミナレットを据え、さらにスルターンの特別席が作られた。南東の建物では、1576 - 1577年にセリム2世のテュルベ(英語版)(墓廟)を据えるため、1年前にS字型の角にあった総主教のテュルベが取り壊された[18]。ドームの頂上には、金の三日月が取り付けられ[18]、これが反射する光が届く35アルシン[35](約24 m)幅の建物周辺からは当時建っていたすべての家屋が取り除かれた[18]。ここには後に、オスマン帝国の皇女43人のテュルベも追加された[18]。

1594年には宮廷建築家(ミマール)のダヴッド・アーが、皇帝ムラト3世とヴァリデ(英語版)であるサフィエ・スルタンの命を受け、皇帝のテュルベを建設した[18]。その横の八角形の陵には彼らの息子メフメト3世と彼のヴァリデが葬られたが、これは1608年に王室建築家のダルグチ・アハメッド・アーの手による[36]。次代の皇帝ムスタファ1世のテュルベは、洗礼堂を作り変えて設けられた[36]。ムラト3世はまた、ペルガモンからヘレニズム調のアラバスター製壺を2つ移し、本堂の両端に据えた[18]。

1717年、アフメト3世は内装のひどく損傷した漆喰の補修を命じ、多くのモザイク画がモスクの作業者らによる破壊から守られ保存される事に間接的ながら貢献した[36]。事実、モザイク画の石はタリスマンと信じられ、訪問者へ売られる事が横行していた[36]。

1847年、アブデュルメジト1世の命により、イタリア人建築家ガスパーレ・フォッサーティ(英語版)によって構造的な補強が行われ、ドームの水平推力に対抗するためドーム基部に鉄製の環状補強材が埋め込まれたが、これはあまり有効に機能していないことが判明している[17]。主柱にムハンマドと正統カリフの名を記した円形の額が取り付けられたのもこの補修の時である。フォッサーティは工事の内容を纏めて書籍出版を準備し、同じ頃、ドイツ人建築家ザルツェンブルグも別に調査を許され、フォッサーティは大判の彩色図集を、ザルツェンブルグも大判の研究書をそれぞれ発行した[17]。

宗教施設から博物館への転換

第一次世界大戦でオスマン帝国は敗戦国となって滅び、代わって世俗主義的なトルコ共和国が建国された。オスマン帝国滅亡から12年後の1934年、トルコ共和国の建国者にして初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクによってアヤソフィア・ジャミィは世俗化され[17]、翌年に博物館として公開した[37]。長年敷かれていたカーペットが取り払われて大理石の床のオンファリオン(英語版)(戴冠のための円形の場)や、除去された白漆喰が覆っていた多くのモザイク画が姿を現した。

しかし建物の構造には劣化が見られ、ワールドモニュメント財団 (WMF) は1996年と1998年の「ワールド・モニュメント・ウォッチ」に記載された。建物の銅製の屋根にはクラックが入り、そこから染み込んだ水がフレスコ画やモザイク画を伝って流れ落ちていた。同様に湿気は下からも上がってモザイク画に影響していた。さらに地下水が上がって記念的建造物内部の湿度上昇に結びつき、石材や塗料を脅かしていた。アメリカン・エキスプレス社の資金援助を受け、WMFは1997年から2002年にかけて修復のための費用を交付すると保証した。第一段階として、天井部分のひび割れ修繕と構造の安定化工事が、トルコ文化観光省(英語版)参加の下で行われた。第二段階はドーム内部の保存のため、若いトルコ人博物館学芸員を雇用して訓練する機会を設け、モザイク画の保護体制を確立した。2006年までにWMFのプロジェクトは完遂したが、他の部分にも引き続き保存活動が求められている[38]。

モスク回帰への動き

現代トルコにおいて、アヤソフィアの建物をモスクや教会など宗教的行事の場として使うことは厳しく禁じられてきた[39]。しかし2006年にトルコ政府は、博物館内の小部屋をキリスト教徒やイスラム教徒のスタッフが祈りを捧げる場所として使えるよう許可を出したと伝えられた[40]。

イスラム回帰を進めるレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は2019年3月、アヤソフィアをモスクへ戻す方針を宣言し、トルコ政府は2020年5月29日、アヤソフィアを会場にコンスタンティノープル征服567周年記念式典を開いた。ここでイスラム教の聖典『コーラン』を朗読し、ギリシャ共和国政府は「世界中のキリスト教徒への侮辱」と抗議した[41]。

エルドアン政権によるモスクへの回帰

2020年7月10日、トルコの裁判所はモスク(イスラム教礼拝所)から博物館に地位を変更したのは不当だとして現地のイスラム系団体が提訴していた問題で、イスラム系団体の訴えを認める判断を下した。これを受けて、エルドアン大統領は同日、アヤソフィアをモスクとする大統領令に署名した[42]。

2020年7月24日、アヤソフィアはモスクに回帰して「アヤソフィア・ジャーミー」となり、86年ぶりとなる金曜礼拝が行われた[43]。エルドアン大統領、フアット・オクタイ副大統領、トルコ大国民議会のムスタファ・シェントプ議長、保健省のファフレッティン・コジャ大臣、大統領府通信局のファフレッティン・アルトゥン局長、民族主義者行動党のデヴレト・バフチェリ党首もアヤソフィア・ジャーミーを訪れた[44]。アヤソフィアのツイッターアカウント(@ayasofyacamii)、エルドアン大統領のツイッターアカウントや政権与党の公正発展党のYouTubeチャンネルにもアヤソフィアでの金曜礼拝の様子をストリーミング中継した。

なお、キリスト教のモザイク画については礼拝時には布で覆いがかけられることになった[45]が、トルコ政府は「モスク化」後も外国人や観光客の立ち入りを認める方針を示しており、礼拝以外の時間帯は観覧できる[46]。これには国内外で根強いモスク化への反発を最小限に抑える狙いがあるとされているが、観光客の入場料が無料化されることから、日本円換算で年間60億円とされる収入の減少は確実と報じられている[47]。

^ a b c d e f Janin (1953), p. 472. ^ a b c d e f g h i 日高ら(1990)、p.21-24、2.ドームを仰ぎ見るとき、◎ハギア・ソフィア大聖堂<ユスティニアヌス大帝による建設工事> ^ Alessandro E. FONI, George PAPAGIANNAKIS, Nadia MAGNENAT-THALMANN. “Virtual Hagia Sophia: Restitution, Visualization and Virtual Life Simulation” (PDF). 2007年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月3日閲覧。 ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「ja471」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ a b 日高ら(1990)、p.20-21、2.ドームを仰ぎ見るとき、◎ハギア・ソフィア大聖堂<ニカの乱> ^ a b c d e 日高ら(1990)、p.24-26、2.ドームを仰ぎ見るとき、◎ハギア・ソフィア大聖堂<第一ドームの崩壊> ^ Janin, Raymond (1950) (French). Constantinople Byzantine (1 ed.). Paris: Institut Français d'Etudes Byzantines. p. 41  ^ a b c d Müller-Wiener (1977), p. 86. ^ “Haghia Sophia”. Istanbul /: Emporis. 2011年12月4日閲覧。 ^ a b c 日高ら(1990)、p.28-29、2.ドームを仰ぎ見るとき、◎ハギア・ソフィア大聖堂<その後の歴史> ^ 井上浩一『ビザンツ皇妃列伝』(白水社)P137-138 ^ “The 'Abbāsid palace of Theophilus: Byzantine taste for the arts of Islam”. 2018年10月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月28日閲覧。 ^ Brubaker (2011), p. 115 ^ Maranci, Christina. "The Architect Trdat: Building Practices and Cross-Cultural Exchange in Byzantium and Armenia." Journal of the Society of Architectural Historians, Vol. 62, No. 3, September 2003, pp. 294–305. ^ Müller-Wiener (1977), p. 87. ^ a b Mamboury (1953) p. 287 ^ a b c d e f g h 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「Hidaka31」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ a b c d e f g h i j k l m n Müller-Wiener (1977), p. 91. ^ [1] ^ Ali, Daniel and Spencer, Robert. Inside Islam. West Chester: Ascension Press, 2003, pp. 108–110, 112–118. ^ Runciman, Steven (1965). The Fall of Constantinople, 1453. Cambridge: Cambridge University Press. p. 145. ISBN 0-521-39832-0  ^ Nicol, Donald M. The End of the Byzantine Empire. London: Edward Arnold Publishers, 1979, p. 88. ^ a b Nicol. The End of the Byzantine Empire, p. 90. ^ a b c Runciman. The Fall of Constantinople, p. 147. ^ Runciman. The Fall of Constantinople, pp. 133–134. ^ Nicol, Donald M. The Last Centuries of Byzantium 1261–1453. Cambridge: Cambridge University Press, 1972, p. 389. ^ Runciman. The Fall of Constantinople, p. 149. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「archnet.org」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ Janin (1953), p. 475. ^ a b Mamboury (1953), p. 288. ^ Tafur, Pero (1926). Travels and Adventures, 1435–1439. Trans. M. Letts. London: G. Routledge. pp. 138–148  ^ G. Gerola, “Le vedute di Costantinopoli di Cristoforo Buondemonti,” SBN 3 (1931): 247–79. ^ Necipoĝlu (2005), pg. 13 ^ Mungan, I. (2004). Hagia Sophia and Mimar Sinan. Mungan & Wittek (eds); Taylor & Francis Group, London. pp. 383–384. ISBN 90-5809-642-4. https://books.google.be/books?id=6j5nuvAd44QC&pg=PA383&dq=Sinan+earthquake+%22Hagia+Sophia%22#PPA383,M1  ^ 帝政ロシアにおける長さの単位(Аршин)。1 аршин ≒ 0.7112 m ^ a b c d Müller-Wiener (1977), p. 93. ^ “教皇「アヤソフィアを思い、非常に悲しんでいる」”. Vatican news (2020年7月12日). 2020年8月1日閲覧。 ^ “World Monuments Fund – Hagia Sophia”. Wmf.org. 2011年12月4日閲覧。 ^ “Ýstanbul Tanýtýmý - Ayasofya Müzesi”. Istanbul.gov.tr. 2011年12月4日閲覧。 ^ İbadete açık Ayasofya (トルコ語) ^ 世界文化遺産「アヤソフィア」宗教対立 揺れる融合の象徴/トルコ、モスクに戻す動き ギリシャ反発『朝日新聞』朝刊2020年6月14日(国際面)2020年6月28日閲覧 ^ “世界遺産アヤソフィアをモスクに トルコ大統領が大統領令”. 産経新聞 (2020年7月10日). 2020年7月11日閲覧。 ^ “トルコ ”モスク化”のアヤソフィアで86年ぶりに金曜礼拝”. NHKNEWSWEB (2020年7月24日). 2020年7月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月25日閲覧。 ^ “【アヤソフィア歴史的な礼拝開放】 ついに金曜日の合同礼拝が始まる”. TRT (2020年7月10日). 2020年11月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月24日閲覧。 ^ ““モスク化”した世界遺産で86年ぶり金曜礼拝 欧米のトルコへの反発懸念”. FNN (2020年7月25日). 2020年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月25日閲覧。 ^ “アヤソフィアでイスラム教礼拝 85年ぶりに「モスク」本格運用”. iza (2020年7月24日). 2020年7月25日閲覧。 ^ “世界遺産アヤソフィア、モスク化後初の集団礼拝…欧米各国は強い懸念”. 読売新聞オンライン (2020年7月24日). 2020年7月25日閲覧。
写真提供者:
Benh LIEU SONG from Torcy, France - CC BY-SA 2.0
-
Photographer: Myrabella - Public domain
Akurilo - CC BY-SA 4.0
Orjen - CC BY-SA 4.0
Statistics: Position
127
Statistics: Rank
383708

コメントを追加

この質問はあなたが人間の訪問者であるかどうかをテストし、自動化されたスパム送信を防ぐためのものです。

セキュリティー
724169358このシーケンスをクリックまたはタップします: 5338

Google street view

どこの近くで寝れますか アヤソフィア ?

Booking.com
487.354 総訪問数, 9.187 興味がある点, 404 保存先, 39 今日の訪問.