جامع الملوية (سامراء)

( サーマッラーの大モスク )

サーマッラーの大モスク(アラビア語: جَامِع سَامَرَّاء ٱلْكَبِيْر‎、ローマ字:Jāmiʿ Sāmarrāʾ Al-Kabīr)は、イラクのサーマッラーにあるモスク。アッバース朝の10代目カリフであるムタワッキルによって建設された。1278年にフレグ率いるモンゴル軍に破壊され外壁とミナレットを残すのみとなったが、今日に残る世界中のモスクで最も大きな面積を持つ。また、このモスクは2007年に国際連合教育科学文化機関によって世界遺産に登録された「都市遺跡サーマッラー」に含まれている。ムタワッキルのモスクとも呼ばれる。

サーマッラーへの遷都

アッバース朝の第8代カリフであるムウタスィムは、自らの親衛隊として即位前から3,000から4,000騎ほどのトルコ人マムルークを所有しており、カリフに即位するとこれを7,000騎にまで増やした[1][注釈 1]。しかし、ムウタスィムのトルコ人マムルークたちは都であるバグダードにおいて乱暴や狼藉を働き、バグダード市民からは嫌悪されていた[2]。また、マムルークの存在はホラーサーン軍からも反発を招いた[3]。

即位の3年後である836年、ムウタスィムはバグダード市民やホラーサーン軍からマムルークを守るべく、彼らを引き連れてバグダードの北方140から150キロメートルの所にあるサーマッラーに遷都した[3][4]。

モスクの建設

ムウタスィムの2代後、第10代カリフであるムタワッキルの時代にサーマッラーでは大規模な都市建設が行われた。カリフの宮殿や貴族の邸宅などが建設され、この中で848年または849年から852年にかけてサーマッラーの大モスクが建設された[5][6]。

放棄

サーマッラーは東西貿易の幹線道路から外れていたことなどを理由としてバグダードほどの繁栄は見せなかった[3]。892年、カリフであるムータミドはサーマッラーからバグダードに都を戻した。これによってサーマッラーの繁栄は失われ、やがて大部分が廃墟となった[7]。

調査

1907年、フランス人建築家であるViolletによって結成された調査団は調査のためサーマッラーに入った。しかし彼らの調査はカリフの宮殿のみに終わった。翌年、ドイツ人研究者のErnst Herzfeldらによる調査団がサーマッラーに入り、第1次世界大戦による中断を挟みながらサーマッラーの大モスクなどの建築物を調査した[8]。

1936年から1939年にかけてはイラク人らによる調査が行われた[8]。1940年にはサーマッラーの大モスクなどの修復作業が始まった。その後20年に渡り、モスクやミナレットの修復作業が続けられた[9]。

現在まで

2003年、サーマッラーの大モスクは多国籍軍によって無傷で占領された。これ以降、モスクの保全作業は停止された[10]。2005年にはモスクのミナレットの頂上が砲撃によって破壊された[11]。

2007年にはモスクはUNESCOの世界遺産に登録された[12]。

^ 佐藤 2008, p. 174, 175. ^ a b 佐藤 2008, p. 175. ^ a b c 佐藤 2008, p. 176. ^ 羽田 2016, p. 80. ^ Northedge 1990, p. 43. ^ 羽田 2016, p. 80, 81. ^ 羽田 2016, p. 81. ^ a b al-Janabi 1983, p. 306. ^ al-Janabi 1983, p. 306, 308. ^ Alsadik 2020, p. 8, 9. ^ Alsadik 2020, p. 8. ^ Alsadik 2020, p. 9.


引用エラー: 「注釈」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="注釈"/> タグが見つかりません

写真提供者:
Jim Gordon - CC BY 2.0
Taisir Mahdi - CC BY-SA 4.0
Ikhlas2 - CC BY-SA 4.0
Statistics: Position
86
Statistics: Rank
536237

コメントを追加

この質問はあなたが人間の訪問者であるかどうかをテストし、自動化されたスパム送信を防ぐためのものです。

セキュリティー
832541697このシーケンスをクリックまたはタップします: 4934

Google street view

動画

どこの近くで寝れますか サーマッラーの大モスク ?

Booking.com
489.888 総訪問数, 9.197 興味がある点, 404 保存先, 53 今日の訪問.