のコンテキスト イラク

イラク共和国
جمهورية العراق(アラビア語)
国の標語:الله أكبر(アラビア語)
神は偉大なり
国歌:موطني(アラビア語)
我が祖国

イラク共和国(イラクきょうわこく、アラビア語: جمهورية العراق‎、クルド語: كۆماری عێراق)、通称イラクは、中東に位置する連邦共和制国家である。首都はバグダードで、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。

詳細について イラク

基本情報
  • 通貨 イラク・ディナール
  • 母国語表記 العراق
  • 呼び出しコード +964
  • インターネットドメイン .iq
  • Mains voltage 230V/50Hz
  • Democracy index 3.62
Population, Area & Driving side
  • 人口 38274618
  • 領域 437072
  • 駆動側 right
履歴
  • メソポタミア
    メソポタミア
     
    キシュから出土した石灰岩の書き板 (紀元前3500年)

    現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野はティグリス川とユーフラテス川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方およびエジプトのナイル川流域とあわせて「肥沃な三日月地帯」として知られている。紀元前4000年ごろからシュメールやアッカド、アッシリア、そしてバビロニアなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。

    メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えばガラスである。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じたガラスが遺物として残っている。しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついでエジプトが先行した。Qattara遺跡 (現イラクニーナワー県のテル・アル・リマー) からは紀元前16世紀のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。紀元前15世紀になると、ウルの王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、ヌジ(英語版)遺跡からはゴブレットの破片が見つかっている。

    ペルシアの支配 ギリシャの支配 ペルシアの支配 イスラム帝国

    西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム (イスラム教徒) からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク (イラーク) と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化した。

    8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。

    10世紀末にブワイフ朝のエミール・アズド・ウッダウラ(英語版)は、第4代カリフのアリーの墓廟をナジャフに、またシーア派の第3代イマーム・フサインの墓廟をカルバラーに作った。

    モンゴル帝国
     
    バグダードの戦い (1258年)

    1258年にバグダードがモンゴルのフレグ・ハンによって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、イラン高原を支配する諸王朝 (イルハン朝、ティムール朝など) の勢力下に入った。

    サファヴィー朝

    16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン朝に奪われた。さらにオスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服した。

    en:Battle of DimDim (1609年 - 1610年)。1616年にサファヴィー朝のアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれ、イギリス人ロバート・シャーリーの指導のもとでサファヴィー朝の武器が近代化された。1622年、イングランド・ペルシア連合軍はホルムズ占領に成功し、イングランド王国はペルシャ湾の制海権をポルトガル・スペインから奪取した。1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世がバグダードを奪還した。しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速に弱体化した。

    オスマン帝国
     
    オスマン帝国下の中近東地域 (1849年)

    1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。

    18世紀以降、オスマン朝は東方問題と呼ばれる外交問題を抱えていたが、1853年のクリミア戦争を経て、1878年のベルリン会議で「ビスマルク体制」が築かれ、一時終息を迎えたかに見えた。しかし、1890年にビスマルクが引退すると、2度のバルカン戦争が勃発し、第一次世界大戦を迎えた。19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダード州(英語版)バスラ州(英語版)モースル州(英語版)の3州として統治していた (オスマン帝国の行政区画)。

    一方、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、サバーハ家のムバーラク大首長のもとで自治を行っていたペルシア湾岸のクウェートは、1899年に寝返ってイギリスの保護国となった。

    1901年に隣国ガージャール朝イランのマスジェデ・ソレイマーンで、初の中東石油採掘が行なわれ、モザッファロッディーン・シャーとウィリアム・ダーシー(英語版)との間で60年間の石油採掘に関するダーシー利権(英語版)が結ばれた。1908年にダーシー利権に基づいてアングロ・ペルシャン石油会社(英語版)(APOC)が設立された。1912年にカルースト・グルベンキアンがアングロ・ペルシャン石油会社等の出資でトルコ石油会社 (TPC、イラク石油会社(英語版)の前身) を立ち上げた。

    『イラクの旧社会階級と革命運動 イラクの旧地主および商人階級と共産主義者、バース主義者、自由将校の研究』という本を執筆したハンナ・バタートゥ氏は、イラクの王政が分裂した1921年から1958年までの期間について論じた。第1章では、イラクの階級区分の不明確な構造、アラブ人、クルド人、トルコ人、アルメニア人、アラム人、スンニ派のイスラム教徒、シーア派のイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ人、高官、シャイフ、ウラマー、貴族階級の役人などを取り込んだアイデンティティの集合体、土地所有の大きさ、所得や資本のレベル、階級の移動、そして最後にヨーロッパとの提携のレベルについて論じられている。著者は、「オスマン帝国下のイラクは、少なからず、自己中心的で相互に結びつきの弱い個別の社会で構成されていたが、一部には、金儲けと私有財産の拡大を志向する社会形態と、貴族の血筋や宗教の知識に価値を置く古い社会形態とが相互に浸透していた...また、町の外では、国家や共同体の部族形態や財産によって構成されていた」と述べている。 バタートゥ氏は、相対的に統一された国民的財産の下で存在していた階級は都市部にあったが、「初歩的な形で、広く認められた宗教共同体の中の構造にも並行して」存在しており、政治的な結びつきよりもむしろ経済的な結びつきに基づいた緩やかなものもあれば、さらに、孤立した自律的な都市国家と部族で構成された地域もあったことを明らかにしている 。 拡張主義やシャイフと高官の手による私有財産の集中などが増し、部族連合とマムルーク間の混乱があった 。 権力の集中化と強化を象徴している貨幣の役割、不動産、法的基盤、1858年および1932年の土地法によって、関係は親族関係は弱められ、物質的所有が強まっていった。 バタートゥ氏によると、都市部のアラブ人はイスラム教とオスマン帝国の法律に基づいて統治され、一方、部族のアラブ人は「イスラム教的な古代部族の慣習」に基づいて統治されていたという。都市や部族の違いに加えて、部族間の分離および都市間の分離があり、イスラム教の下では団結していても、シーア派とスンニ派の対立下では分裂し、別々のマハッラで生活しながら原始的な通信の下では疎遠になっていた(これが保護の形となっていた)。

    イギリス帝国
     
    サイクス・ピコ協定による中東分割。イラクの大部分を含む赤の地域がイギリスの勢力圏とされた。

    第一次世界大戦では、クートの戦い (1915年12月7日 - 1916年4月29日) でクート・エル・アマラが陥落すると、イギリス軍は8ヶ月間攻勢に出ることが出来なかったが、この間の1916年5月16日にイギリスとフランスは、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配するというサイクス・ピコ協定を結んだ。

    1917年に入るとイギリス軍は攻勢に転じ、3月11日にはバグダッドが陥落した(英語版)。しかし戦闘は北部を中心としてその後も行われた。

    英仏による占領統治

    1918年10月30日、オスマン帝国が降伏 (ムドロス休戦協定)。パリ講和会議 (1919年1月18日 - 1920年1月21日)。1919年4月、英仏間で石油に関するサンレモ原油協定を締結。サン・レモ会議(英語版) (1920年4月19日 - 4月26日) で現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められ、サンレモ原油協定(San Remo Oil Agreement)によってフランスはイラクでの25 %の石油利権を獲得した。トルコ革命 (1919年5月19日 - 1922年7月24日) が勃発。大戦が終結した時点でもモースル州は依然としてオスマン帝国の手中にあったが、1920年6月にナジャフで反英暴動(英語版)が勃発する中、8月10日にイギリスはセーヴル条約によりモースル (クルディスタン) を放棄させようとしたが、批准されなかった (モースル問題(英語版))。 1921年3月21日、ガートルード・ベルの意見によってトーマス・エドワード・ロレンスが押し切られ、今日のクルド人問題が形成された (カイロ会議)。

    イギリス委任統治領メソポタミア

    1921年8月23日に前述の3州をあわせてイギリス委任統治領メソポタミアを成立させて、大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて王政を布かせた。クウェートは新たに形作られたイラク王国から切り離されたままとなった。

    en:Mahmud Barzanji revoltsでクルディスタン王国(英語版) (1922年 - 1924年) を一時的に樹立。

    1922年10月10日、en:Anglo-Iraqi Treaty (イラク側の批准は1924年)。1923年7月24日、ローザンヌ条約でトルコ共和国との国境が確定し、北クルディスタンが切り離された。1927年10月14日、ババ・グルグル(英語版)でキルクーク油田を発見。1928年、イギリスとトルコが赤線協定を締結。1929年、イギリスがイラク石油会社(英語版) (IPC) を設立。1930年6月30日、en:Anglo-Iraqi Treaty (1930)でイラク石油会社の石油利権を改正。en:Ahmed Barzani revolt (1931年 - 1932年)。

    王政

    ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。

    一方、アングロ・ペルシャ石油(英語版)とメロン財閥傘下のガルフ石油とが共同出資して1934年にクウェート石油会社を設立。1938年、クウェート石油はブルガン油田を発見した。

    1941年4月1日、イラク・クーデター(英語版)によりラシード・アリー・アル=ガイラーニー(英語版)のクーデター政権が出来たが、 5月2日、イラク軍とイギリス軍との間で交戦状態となった[1]イラク戦役で崩壊した。6月、シリア・レバノン戦役。8月、イラン進駐。

    1943年、en:1943 Barzani revolt。1945年12月、ムッラー・ムスタファ・バルザーニー(英語版)がソ連占領下の北西部マハーバードでクルド人独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立したが、イラン軍の侵攻にあい崩壊 (en:Iran crisis of 1946)。バルザーニーはソ連に亡命し、1946年8月16日にクルディスタン民主党結成。

    1948年、en:Anglo-Iraqi Treaty (1948)。5月15日、第一次中東戦争 (1948年 - 1949年) が勃発。

    1955年、中東条約機構 (METO) に加盟。 1956年10月29日、エジプトによるスエズ運河国有化に端を発する第二次中東戦争 (1956年 - 1957年) が勃発。アブドルカリーム・カーシムら自由将校団 (イラク)(英語版)が参戦している。中東情勢の激化に伴いスーパータンカーが登場した。

    アラブ連邦

    1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して、同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成した。

    イラク共和国 (第一共和政) カーシム政権

    1958年7月14日、自由将校団 (イラク)(英語版)のクーデターによって倒され (7月14日革命)、ムハンマド・ナジーブ・アッ=ルバーイー大統領とアブドルカリーム・カーシム首相による共和制が成立[注 1]。カーシムは、親エジプト派を押さえ込む為にバルザーニーに帰国を要請し、1958年10月にバルザーニーが亡命先のソ連から帰国。親エジプト派のアーリフは罷免・投獄された。

    1959年3月7日、アラブ連合共和国が支援する親エジプト派が蜂起したモースル蜂起(英語版)が勃発。3月24日、中東条約機構 (METO) を脱退。 1960年9月、カーシム首相がイラク石油会社 (IPC) の国有化を発表。1960年9月14日、バグダッドで石油輸出国機構(OPEC)結成。1961年6月19日にクウェートがイラクと別の国として独立。 6月25日、カーシムがクウェート併合に言及すると、7月1日にイギリス軍がen:Operation Vantageを発動し、独立を支援した。 9月11日、第一次クルド・イラク戦争(英語版) (1961年 - 1970年) が勃発した。

    イラク共和国 (第二共和政) 第1次バアス党政権 (アル=バクル政権)

    1963年2月8日に親エジプト派とバアス党の将校団のクーデターが起り、カーシム政権が倒された (ラマダーン革命)。大統領にはアブドゥッサラーム・アーリフ、首相にはアフマド・ハサン・アル=バクルが就任した。

    アーリフ兄弟政権

    1963年11月18日にアブドゥッサラーム・アーリフ大統領ら親エジプト派の反バアス党クーデターが勃発 (1963年11月イラククーデター)。 1966年4月13日、アブドゥッサラーム・アーリフが航空機事故で死去。後継の大統領にアブドッラフマーン・アーリフが就任。親エジプト派としてナーセルを支持し、1967年にアメリカとの国交を断絶。 6月、第三次中東戦争。

    バアス党政権 (第三共和政) 第2次バアス党政権 (アル=バクル政権)

    1968年7月17日にバアス党政権が発足 (7月17日革命)、アフマド・ハサン・アル=バクルが大統領に就任した。 1970年3月11日、en:Iraqi-Kurdish Autonomy Agreement of 1970でクルディスタン地域 (アルビール県、ドホーク県、スレイマニヤ県) を設置。石油を産出するニーナワー県とキルクーク県は含まれなかった。1972年にソビエト連邦と友好条約を締結。 1973年10月、第四次中東戦争に参戦。同年10月16日、イスラエル援助国に対してイラクを含むOPEC加盟6カ国は協調した石油戦略を発動し、オイルショックが引き起こされた。 第一次クルド・イラク戦争後の和平交渉が決裂し、バルザーニーが再び蜂起して第二次クルド・イラク戦争(英語版) (1974年 - 1975年) が勃発。ペシュメルガ等を含め双方合わせて1万人超が死傷。その後、この戦いでイラク国軍を率いたサッダーム・フセインが実権を掌握した。

    サッダーム・フセイン政権

    1979年7月16日にサッダームが大統領に就任した。就任直後にはクーデターが計画されたが未遂に終わり、同年7月30日までに34人が処刑、約250人が逮捕された[2]。

    1980年にイラン・イラク戦争が開戦して1988年まで続けられた。

    1990年8月にクウェート侵攻後、1991年に湾岸戦争となり敗北した。

    イラク武装解除問題 (1991年 - 2003年)。en:Curveball (informant)による大量破壊兵器(英語版)情報。2003年3月、イラク戦争に敗れてサッダームも死亡し、バアス党政権体制は崩壊した。戦後、イラクの石油不正輸出に国連の「石油食料交換プログラム」が関与していた国連汚職問題が発覚した。

    バアス党政権崩壊後
    この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2009年9月
    連合国暫定当局(米英共同統治)

    旧イラク共和国の滅亡後は、アメリカ・イギリスを中心とする連合国暫定当局(CPA)によって統治されることとなり(2003年4月21日 - 2004年6月28日)、正式な併合・編入こそ行われなかったものの実質的にアメリカ合衆国の海外領土に組み込まれた。イラク戦争終結後もスンニー・トライアングルで暫定当局に対する激しい抵抗があったが、2003年12月13日の赤い夜明け作戦(英語版)ではサッダーム・フセインがダウルで拘束された。2004年4月、ファルージャの戦闘でCPA側が圧勝する。

    イラク暫定政権
     
    イラクをパトロールするアメリカ軍 (2005年6月)

    2004年6月28日、暫定政権に主権が移譲された。同時に有志連合軍は国際連合の多国籍軍となり、治安維持などに従事した。8月にはシーア派政治組織「サドル潮流(英語版)」のムクタダー・サドル率いる民兵組織「マフディー軍」が影響力を高めた。

    暫定政権は国連安全保障理事会が採択した、イラク再建復興プロセスに基づいて、2005年1月30日にイラクで初めての暫定議会選挙を実施し[3]、3月16日に初の暫定国民議会が召集された。4月7日にジャラル・タラバニが初のクルド人大統領に就任。移行政府が4月28日に発足し、10月25日に憲法草案は国民投票で賛成多数で可決承認された[3]。

    新・イラク共和国(第四共和政) シーア派政権

    2005年12月15日に正式な議会と政府を選出するための議会選挙が行われた[3] (en:Iraqi parliamentary election)。2006年3月16日に議会が開会し、2006年4月22日にシーア派政党連合の統一イラク同盟(英語版) (UIA) がヌーリー・アル=マーリキーを首相に選出、5月20日に国連安全保障理事会が採択したイラクの再建復興プロセス最終段階となる正式政府が議会に承認されて発足し[3]、イラク共和国として再独立を果たした。これはイラクで初めての民主選挙による政権発足である。2006年12月30日、サッダーム・フセインの死刑執行。

    2008年3月にはムクタダー・サドルのマフディー軍と政府軍が戦闘状態となり (バスラの戦い(英語版))、シーア派内部の対立が顕在化した。

    世俗派の政党連合「イラク国民運動(英語版)」を構成するイラク合意戦線(英語版)は2010年2月20日に第2回総選挙をボイコットすると表明した。これは、イラク合意戦線の選挙立候補者にサッダーム旧政権の支配政党であるバアス党の元党員や旧政権の情報機関、民兵組織のメンバーが含まれているとして選挙参加を禁止されたためである[4]が、後に合意戦線は、ボイコットを撤回した。2010年3月7日に第2回議会選挙が行われた (en:Iraqi parliamentary election)。アッラーウィーの世俗会派イラク国民運動が第1党 (91議席) となり、マーリキー首相の法治国家連合は第2党となった (89議席)。しかし、マーリキーは、選挙に不正があったとしてこの結果を認めなかった。その後司法判断が下され、「選挙結果は正当」となった。

    アメリカ軍撤退後

    2010年8月19日までに駐留アメリカ軍戦闘部隊が撤退(英語版)、新生イラク軍の訓練のために残留したアメリカ軍も2011年末に撤退した[5][6][7]。

    2010年11月に議会は、タラバニを大統領に、マーリキーを首相に、ヌジャイフィを国会議長に選出し[3]、マーリキー首相が提出した閣僚名簿を議会が承認して、12月に第二次マーリキー政権が発足した[3]。

    2011年12月26日、バグダッドにある内務省の正面玄関で自爆テロがあり、少なくとも5人が死亡、39人が負傷したと警察が発表した。バグダッドでは22日にも爆弾テロがあり、70人近い死者、200人以上の負傷者が出たばかりであった。[8]。

    2017年8月31日、ISILによって支配されていたイラク北部の都市タッル・アファルでの戦闘に勝利し解放を宣言[9]。

    2017年12月9日、アバーディ首相は、ISILからイラク全土を解放したと発表した。

    ^ イラク軍、領内の英軍基地を攻撃(『東京日日新聞』昭和16年5月4日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p389 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 足場固めるフセイン体制 反対派一掃をねらう『朝日新聞』1979年(昭和54年)7月31日朝刊 13版 7面 ^ a b c d e f 外務省>各国・地域情勢>中東>イラク共和国>基礎データ ^ “スンニ派政党、不参加表明 イラク総選挙”. MSN産経ニュース. 共同通信. (2010年2月20日). オリジナルの2010年3月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100303081312/http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/100220/mds1002202148007-n1.htm 2011年1月10日閲覧。  ^ “オバマ大統領、イラク戦争終結を宣言 米兵前に演説”. 日本経済新聞 電子版 (日本経済新聞社). (2011年12月15日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM15013_V11C11A2000000/  ^ バグダッドで米軍撤収の式典 AFPBB News 2011年12月16日 ^ 米大統領がイラク戦争終結を宣言、「多大な業績」と評価 ロイター 2011年12月15日 ^ “イラク内務省前で自爆テロ、死傷者44人 検問所6カ所通過”. CNN.co.jp. (2011年12月27日). http://www.cnn.co.jp/world/30005061.html 2011年12月31日閲覧。 [リンク切れ] ^ 『イラク政府はタッル・アファルのISISからの解放を宣言』 2017年9月1日 Onebox News


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