London

( ロンドン )

ロンドンLondon  ( 音声ファイル)ランドン))は、イギリスおよびこれを構成するイングランドの首都。イングランドの9つの地域(リージョン)のひとつ。

イギリスやヨーロッパ域内で最大の都市圏を形成している。ロンドンはテムズ川河畔に位置し、2000年前のローマ帝国によるロンディニウム創建が都市の起源である。ロンディニウム当時の街の中心部は、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)に相当する地域にあった。シティの市街壁内の面積は約1平方マイル(2.6km2)あり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。少なくとも19世紀以降、「ロンドン」の名称はシティの市街壁を越えて開発が進んだシティ周辺地域をも含めて用いられている。ロンドンでは市街地の大部分がコナベーションにより形成されている。

グレーター・ロンドンでは選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により統治が行われ、域内はシティ・オブ・ロンドンと32のロンドン特別区から成る。

先史時代・古代  ロンディニウムの範囲

ロンドン周辺にはケルト系のブリトンの集落跡が点在した形跡が確認される。最初の大きな開拓地はローマ帝国によって43年に創建された[1]。この開拓は17年間続いたが、61年ころブーディカが率いるイケニ族により強襲され焼き討ちされた[2]。また一説には紀元前1103年ごろ、トロイ王族の孫ブルートゥスがトロイヤ人の一団を率いてイタリアから移住、「ニュー・トロイ」としてロンドンが建設されたという[3]。紀元前1200年前後のトロイ崩壊後、トロイ王族のアイネイアースはトロイの移民を率いてイタリアに移住、ラテンの王ラティヌスの娘と結婚。ブルートゥスはアイネイアースの孫である。

その次の都市は繁栄し、紀元100年にそれまでブリタニアの首都であったコルチェスターから取って代わった。2世紀のローマ支配のロンドンは6万人の人口があった。

最近の2つの発見により、ロンドンは考えられていたよりも古くから人が住んでいたことが分かった。1999年に青銅器時代の橋がヴォクスホール・ブリッジの北側の砂浜で発見されている[4]。この橋はテムズ川を渡っていたか、今はない川の中に浮かぶ島を渡っていた。樹木学では紀元前1500年にさかのぼる木材が使われている。2010年には紀元前4500年にさかのぼる大きな木材で築かれた建物がヴォクスホール・ブリッジ南側の砂浜で発見された[5]。中石器時代のもので機能は分かっていないが、50メートル×10メートルの範囲で30センチの干潮時に見ることができる。この2つの構造物は南岸のテムズ川とエッフラ川が自然に合流する地点にあり、ローマ時代のシティ・オブ・ロンドンの上流4キロの場所にある。これらの構造体を構築するのに必要な労働力、貿易、安定性などから少なくとも数百人規模のコミュニティがあったことを示している。

中世  1300年頃、シティの範囲は市街壁内に収まっていた。 世界遺産のウエストミンスター寺院の絵画 (Canaletto, 1749 A.D.)

5世紀初期にはローマは事実上、ロンドンを放棄している。6世紀からアングロ・サクソン人がルンデンヴィック(英語版)で知られる開拓地がローマ人の古い街のわずかに西に築かれ、これは現在のコヴェント・ガーデンやロンドンで、人口は1万人から1万2,000人程度に達した。ただし、宗教的な中心地はカンタベリーであり、この側面でだけはロンドンは後塵を拝することになる。フリート川の河口には漁業や交易で栄えた港があったと思われるが、ヴァイキングからの防衛上の見地から、かつてのローマ人の市街壁を用いるため、東のロンディニウムへの移動を強いられた[6]。ヴァイキングの襲撃は増加の一途をたどり、886年にアルフレッド大王がデーン人の指導者であるガスラム(英語版)とウェドモーアの和議を締結するまで続いた[7]。アングロ・サクソン人のルンデンヴィックLundenwicは「旧市街」を意味するエアルドヴィックEaldwicと改称され、現在のシティ・オブ・ウェストミンスターのオールドウィッチにその名を残している[8]。10世紀、すでに国内最大の都市となり、貿易面でももっとも重要な都市となっていたロンドンは、イングランド統一によりさらに政治面での重要性も高めた。さらにこのころ、ウェセックスの伝統的な中心地であるウィンチェスターとの競合にも直面した。

11世紀、エドワード懺悔王はウェストミンスター寺院を建設し、シティより少し上流の地であるウェストミンスターに居住した。この見地に立てば、ウェストミンスターはシティの政府機能を担う立場を着実に奪っていったといえる[9]。1066年、ヘイスティングズの戦いで勝利し、イングランドを征服したノルマンディ公ギヨーム2世は同年のクリスマスの日に、ウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として即位した[10]。ウィリアム1世はホワイト・タワー(のちのロンドン塔)をシティの南東に建設し、市民を威圧した[11]。1097年、ウィリアム2世はウェストミンスター寺院にほど近い場所に、ウェストミンスター宮殿の基礎となるウェストミンスター・ホールを建設した[12][13]。12世紀、それまで国中を移動していた宮廷に同伴していた中央政府の各機関は次第に一箇所に固定化し、規模を増大させ、洗練されていった。多くの場合、政府機関はウェストミンスターに集中したが、国庫の機能はロンドン塔に置かれた。ウェストミンスターが首都として政府機能を果たす一方、シティは自治機能を有するイングランド最大の商業都市に発展していた。シティはその経済力を背景として、12 -13世紀に市長を選出する権利や独自の法廷を持つ権利を獲得し、14世紀半ばからは市参事会を選出し、王権から独立した高度な自治都市としての独立を保持した。人口は1100年に1万8,000人、1300年までには10万人ほどにまで成長していた[14]。

14世紀半ばにはペストが発生し、人口は3分の1程度減少した。1381年、ワット・タイラーの乱が発生した[15]。

近世  ロンドン大火

テューダー朝の時代、宗教改革にともなうプロテスタントへの移行が次第に進むにつれ、教会の私有化が進んだ[16]。ネーデルラント周辺地域へは未加工のウール生地が海上輸出された。生地の主たる用途は、大陸ヨーロッパの富裕層向けの衣服であった。しかし、当時のイギリスの海運会社は北西ヨーロッパ以外の海にはほとんど進出しなかった。イタリアや地中海への商業ルートは、通常アントウェルペンまたはアルプス山脈経由であった。海上輸送ではイタリアやドゥブロヴニクの貿易商と同様、ジブラルタル海峡を経由した。1565年のオランダとイギリス間の貿易再開は、瞬く間に活発な商取引をもたらした[17]。1566年、王立取引所が設立された。重商主義は進展し、イギリス東インド会社をはじめとする勅許会社が設立され、貿易は新世界へと拡大した。ロンドン港は北海において重要性を増し、国内外から移住者が来航した。1530年の人口は推計で5万人、1605年には22万5,000人に上昇した。

16世紀、ウィリアム・シェイクスピアや同時代に生きたロンドンの劇作家は、イギリス・ルネサンス演劇をはじめとして劇場の発展にしのぎを削った。テューダー朝が終わりを告げる1603年まで、ロンドンはまだ非常に小規模な都市であった。1605年、ジェームズ1世の暗殺計画を企てた火薬陰謀事件が発生した[18]。17世紀初頭や1665 - 1666年にはペストが流行し[19]、10万人または人口の5分の1が死亡した[20]。1666年、シティのプディング・レーンにてロンドン大火が発生し、市内の家屋の約85パーセントが焼失した[21]。建築家ロバート・フック指揮のもと[22][23][24]、ロンドン再建に10年の歳月を要した。1708年、クリストファー・レンの最高傑作であるセント・ポール大聖堂が完成した。ハノーヴァー朝の時代には、メイフェアをはじめとする新市街が西部に形成され、テムズ川には新たな橋が架橋され、南岸の開発が促進された。東部では、ロンドン港がテムズ川下流のドックランズに向かって拡張された。

1762年、ジョージ3世はバッキンガム・ハウスを手中に収め、以後75年間にわたって同邸宅は拡張を続けた。18世紀、ロンドンの犯罪率は高く、1750年にはロンドン最初の専業の警察としてバウストリートランナーズ(英語版)[25]が設立された。総計で200件以上の犯罪に死刑判決が下され[26]、小規模な窃盗罪でも女性や子どもが絞首刑に処された[27]。ロンドンで生まれた子どもの74パーセント以上は5歳未満で死亡していた[28]。コーヒー・ハウスが意見を交わす社交場として流行したのにともない、リテラシーの向上やニュースを世間一般に広める印刷技術が向上し、フリート・ストリートは報道機関の中心地となっていた。

1777年のサミュエル・ジョンソンによる言葉を記す。「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与えうるものすべてがあるから」[29]

近現代  第二次世界大戦時、ドイツによる空襲を受けたロンドン

1831年から1925年ごろ、ロンドンは世界最大の都市であった[30]。著しく高い人口密度によりコレラが大流行し[31]、1848年に1万4,000人が死亡、1866年には6,000人が死亡した。特に、1854年8月の大流行は『ブロード街の12日間』というノンフィクションにまとめられている。1855年に、首都建設委員会が設立される。渋滞が増加し、首都建設委員会はインフラ整備を監督した。世界初の公共鉄道ネットワークであるロンドン地下鉄が開通している。首都建設委員会は1889年にロンドン郡議会(英語版)になり、ロンドン最初の市全域を管轄する行政機構として機能した。第二次世界大戦時、ザ・ブリッツをはじめとするドイツ空軍による空爆により、3万人のロンドン市民が死亡し、市内の多くの建築物が破壊された。終戦直後の1948年、ロンドンオリンピックが初代ウェンブリー・スタジアムにて開催され、同時に戦後復興をわずかに果たした。

1951年、フェスティバル・オブ・ブリテン(英語版)がサウス・バンクにて開催された。1952年に発生したロンドンスモッグの対応策として、1956年に大気浄化法 (1956)(英語版)が制定され、「霧の都」と揶揄されたロンドンは過去のものとなったが、大気汚染の問題はいまだに残されている[32]。1940年代以降、ロンドンには大量の移住者が流入した。多くはイギリス連邦加盟国の出身者である。内訳としてはジャマイカ、インド、バングラデシュおよびパキスタン出身者で、ロンドンに欧州屈指の多様性をもたらす要因となっている。

主として1960年代半ば以降、ロンドンは世界的なユースカルチャーの中心地となっていった。キングス・ロード、チェルシー、カーナービーストリート(英語版)といった地域ではスウィングロンドン(英語版)といったスタイルが流行した。流行の発信拠点としての役割はパンク・ロックの時代に復活し、1965年、ロンドンの都市的地域の拡大にともない、管轄範囲を拡大したグレーター・ロンドン・カウンシルが設立された。北アイルランド問題に関連し、ロンドンではIRA暫定派による爆破事件が発生した。1981年のブリクストン暴動(英語版)では、人種差別問題が注目を集めた。第二次世界大戦以後、グレーター・ロンドンの人口は次第に減少していった。ピーク時の1939年の推計人口が861万5,245人だったのに対し、1980年代では約680万人に減少していた。ドックランズのカナリー・ワーフ再開発事業にともない、ロンドンの主要港は下流に位置するフェリクストウ港(英語版)ティンバリー港(英語版)に移転した。また、カナリー・ワーフ再開発事業により、ロンドンの国際的な金融センターとしての役割は増加の一途をたどった。

1980年代、高潮による北海からの海水の流入をせき止め、洪水を防止するテムズバリア(英語版)が完成した。1986年、グレーター・ロンドン・カウンシルが廃止され、ロンドンは世界で唯一、中央行政機関が存在しない大都市となった。2000年、グレーター・ロンドンを管轄するグレーター・ロンドン・オーソリティーが設立された。ミレニアム記念事業の一環として、ミレニアム・ドーム、ロンドン・アイ、ミレニアム・ブリッジが建設された。2005年、ロンドン同時爆破事件が発生し地下鉄車両とバスが爆破された[33]。2012年、第30回オリンピックが開催された。1908年や1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催であり、同一都市としては史上最多となる。

アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界1位の都市と評価された[34]。

2020年、フランスのエマニュエル・マクロン大統領より、レジオンドヌール勲章を授与される[35]。

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