青ヶ島村(あおがしまむら)は、東京都の島嶼部に位置する村。伊豆諸島南部の青ヶ島全域が村域。郡には所属していない。青ヶ島村を所管する行政出先機関は八丈支庁。

1785年(天明5年) - 天明の別れ4月18日から始まり5月頃まで続いた天明の大噴火が青ヶ島の最も新しい火山活動である。当時327人いたとされる島民のうち202人が八丈島からの救助により避難するも、避難に間に合わなかった残りの者は全員が爆発に巻き込まれて死亡したとされる。 八丈島での避難生活は、時には流人以下の扱いを受けるという悲惨なものであった。これは、不作続き(天明の大飢饉)で八丈島民だけでも食うのがやっとであったにもかかわらず、幕府が避難民の他地域への移住を認めなかったこと、さらに八丈島の流人はもともと武家など身分の高い人物ばかりだったこと、などの事情による。 かつての豊かな青ヶ島を夢見て帰島を企てる者も幾度かあったが、航海の途中で遭難したり、無事に辿り着いても噴火で荒廃した土地では生きていけず、叶わなかった。1817年(文化14年)佐々木次郎太夫が名主となり、彼の周到な計画のもとで、帰島事業が着々と進められる。1824年(文政7年) - 還住遂に還住(全島民帰還)を果たす。1835年(天保6年) - 島の再興が宣言される。検地が行われ、正規の年貢が納められるまでになる。天明の別れから復興まで半世紀もの歳月が掛かった。この時点での島の人口は241名(男133・女108名)であった。 定期船「還住丸」の名称はこの一連の出来事に由来している。1940年(昭和15年)4月1日 - 町村制施行[1][2]青ヶ島は東京都八丈支庁の管轄となり、青ヶ島村が置かれる。1946年(昭和21年) 1月29日 - 日本からの一時的な行政権切り離し連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)677号『特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件』[3]によって日本政府の行政権から切り離される。 3月22日 - 日本の行政下に復帰する。 同令841号『特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件』で伊豆諸島や小笠原諸島の他の町村と同じく、行政権が日本国政府に戻される。1974年(昭和49年)6月28日 - 村章を制定する[4]。 2014年(平成26年) - アメリカの環境保護NGOであるOne Green Planetが、「死ぬまでにみるべき世界の絶景13」という記事で[5]、日本では唯一青ヶ島を選出した。 2016年(平成28年)7月5日 - アメリカを代表する博物館・研究機関であるスミソニアン博物館が青ヶ島村を「活火山内に眠る日本の街」という記事で紹介した[6]。^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「角川日本地名大辞典」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「全国市町村名変遷総覧」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「連合軍最高司令部訓令677号」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「図典_日本の市町村章」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「ogp」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ Nalewicki, Jennifer. “The Sleepy Japanese Town Built Inside an Active Volcano” (英語). Smithsonian. 2019年8月25日閲覧。
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