マサダ(ヘブライ語: מצדה‎)は、第一次ユダヤ戦争の遺跡で、イスラエル東部、死海西岸近くにある城址。「マサダ」とはヘブライ語で「要塞」を意味する。

 マサダから見た死海
J.フェラ画、1870年頃[1]

紀元前120年頃、死海のほとりの砂漠にそびえる切り立った岩山の上に建設され、後にヘロデ大王が離宮として改修した。山頂へは「蛇の道」と呼ばれる細い登山道が一本あるのみ、周囲は切り立った崖で、難攻不落と言われた。

66年、ローマ帝国に対してユダヤ人が決起しユダヤ戦争が勃発した。70年、ティトゥスの指揮するローマ軍団によってユダヤ側の本拠地であったエルサレムが陥落(エルサレム攻囲戦)。エルアザル・ベン・ヤイルに率いられた熱心党員を中心としたユダヤ人集団967人が包囲を逃れ、マサダに立てこもった。籠城側は兵士のみではなく、女性や子供も含まれていた。

1万5千のローマ軍団が周囲を包囲したが、さすがのローマ軍も、攻撃を寄せ付けないマサダの峻厳な地形に攻めあぐねる。やがてローマ軍はユダヤの捕虜と奴隷を大量動員して土を運び、山の西側の崖をそっくり埋めて突入口の建設を開始する。ユダヤ側は執拗に防戦したが、二年がかりで山腹は着実に埋められ、やがて陥落は目前となった。敗北が確実となったある日、指導者たちは集まって今後の方針を協議した。抵抗を続ければ全員が殺され、降伏すれば全員が奴隷となるのが当時の慣習であったためみんなで自殺することにした。

73年5月2日、ユダヤ人が集団自殺したことをまだ知らないローマ軍部隊は完成した侵入路を通り、城内に突入する。ローマ兵は内部の状況を把握していなかったため、死にもの狂いの抵抗を予想していたが、当然防戦する者は1人もいなかった。ユダヤ戦記には穴に隠れていた2人の女と5人の子供だけが生きのびたと書かれている。

マサダ陥落によってユダヤ戦争は一旦は終結した(後に第二次ユダヤ戦争が発生する)。陥落後のマサダはローマ軍により徹底破壊され、長い間その所在が分からなくなっていたが、1838年にドイツ人考古学者によって所在が確認された。

マサダは現代ユダヤ人にとり、民族の聖地となっている。イスラエル国防軍将校団の入隊宣誓式はマサダで行われ、士官学校卒業生は山頂で「マサダは二度と陥落せず」と唱和し、民族滅亡の悲劇を再び繰り返さないことを誓う。

ヨセフスの問題

ヨセフスの問題とは、「集団自決するある人数の者が円形に並び、数えてX番目の者が仲間に殺してもらい、最後の1人は自殺する。最後の1人になるには何番目に並べばよいか」という問題。ヨセフスとはユダヤ戦争時の指揮官で、当時は実際に似た方法が取られ、兵士はまず自分の妻子を殺してから一箇所に集まり、仲間を殺す役をくじ引きで選んだという。遺跡からは、そのために使われたといわれる名前を書いたくじが出土している。

^ Louis Figuier著 Les merveilles de l'industrie Tome 1 (1873年) より
写真提供者:
Classical Numismatic Group - CC BY-SA 3.0
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