九龍寨城

( 九龍城砦 )

九龍城砦九龍城寨、きゅうりゅうじょうさい、粤拼:gau2 lung4 sing4 zaai6)は、現在の香港・九龍の九龍城地区に造られた城塞、またはその跡地に建てられていた巨大なスラム街を指す呼称。

日本では九龍城砦を「九龍城」(きゅうりゅうじょう)と表記する場合があるが、香港本土で「九龍城」と言った場合は九龍城砦が存在した一帯の地域名あるいは行政地区名を指す。また、日本では九龍を「クーロン」と読む場合があるが、これは日本の立場から九龍を呼称した兵隊シナ語であり、現地でこの呼び方をしてもほぼ通じない。詳細は九龍を参照。

九龍城砦には非常に多くの複雑な歴史的背景が絡んでおり、中国の近代や現代史にも密接に関係している。

近世(960年代 - 1830年代)

始まりは宋(960年 - 1279年)時代に遡る。かつて香港や九龍半島にはたくさんの香木が生えていたほか、塩を産出しており、これらを輸出するための港が香港島南部の香港仔に開かれた。今日の「香港」という地名も「香木が集まる港」という意味合いから命名されたという説が最も有力である。

しかし香港付近の海域には当時しばしば海賊が現れ、周囲の治安を脅かしていた。このため現在の九龍城地区に軍事要塞が作られ、ここを拠点に香港の安全の確保を図っていた。砦として1668年に九龍烽火台が設置された。

近代(1840年代 - 1940年代)  九龍城砦(1898年) 城内に残る清代の建物

1841年にイギリスは清国との間で行われた阿片戦争に勝利。南京条約により清国から広州、福州、厦門、寧波、上海の5港の開港と香港島の割譲を認めさせた。1860年にはアロー戦争によって締結された北京条約により九龍市街の界限街以南の九龍半島が割譲された。この時点では九龍城砦はイギリス領よりわずかに外れた場所にあり、清国領内であった。

イギリスは1898年に、香港防衛を理由に深圳河以南の新界 (New Territories) 地区とランタオ島をはじめとする香港島嶼部の200余りの島々を99年間の期限付きで租借した。この時九龍城砦は完全にイギリス領に取り込まれてしまったが、英清両国で取り決めた租借条約により九龍城砦は租借地から除外され飛び地化、イギリスの香港防衛を妨げないという条件で引き続き清国役人が常駐した。しかし役人が祝い事で爆竹を鳴らしたことが、「イギリスの軍事活動の妨げになった」という理由で問題視され、清国の役人は九龍城砦から追放されてしまった。だが、イギリス側がこの時点で九龍城砦を占領することは条約違反となるのでこの場所を接収できなかった。

1911年の辛亥革命に端を発し翌1912年1月には中華民国が樹立、1912年2月に宣統帝(愛新覚羅溥儀)の退位により中国政府としての清朝は滅亡した。この時点で九龍城砦本来の機能は終了した可能性が高い。しかし、施設管理については後続の中華民国も清国と同じくイギリスの抗議により実現できず、またイギリスによる城内管理は中華民国側の抗議により断念され、膠着状態に陥った。

なお、1941年12月に日本軍が香港を占領した際、要塞に建設されていた城壁が近隣の啓徳空港拡張工事の資材となり取り壊された。この日本軍の占領により九龍城砦の管理交渉は中断した。1945年8月には日本の第二次世界大戦敗戦により香港は再びイギリスの植民地となるが、この時期の香港は経済や治安など生活上全ての面で不安定な状況にあった。

その中で、戦前より続いていた蔣介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党の中国内戦(国共内戦)が激化し、多くの難民が身寄りを求め香港に押し寄せ、どの勢力の主権も及ばない九龍城砦にはそれらの人々がなだれ込んだ。1949年10月に中国共産党率いる中華人民共和国が樹立しても難民がなだれ込む状況は全く変わらなかった。

現代(1950年代 - 1990年代)  九龍城砦の夜景(1993年)

城壁が取り壊されたことで、跡地には難民のバラックが建ち始める。中国大陸の情勢が落ち着きつつあった1950年代後半から1960年代前半においても難民の流入は止まらず、さらに、1960年代後半に中華人民共和国国内で始まった毛沢東らによるプロレタリア文化大革命の開始により、これを逃れる難民で人口流入は更に激しくなり、過度の居住人口により次第に無計画な増築によるスラムが出来上がっていった。

1960年代後半から1970年代にかけては鉄筋コンクリート(RC造)のペンシルビルに建て変わったものの無計画な建設のために九龍城砦の街路は迷路と化し、「九龍城には一回入ると出てこられない」とも言われるようになった。また行政権が及ばなかったために売春や薬物売買、賭博、その他違法行為が行われ、中国語で「無法」地帯を意味する「三不管」(サンブーグヮン)の地域と呼ばれるようになり、黒社会(暴力団)である三合会の拠点となっていた[1]。

そのため、イギリス領である香港領内での認可を受けておらず、中華民国および中華人民共和国内のみで通用する免許で開業した歯科医院や海賊版の出版物の出版、コピー商品の製造、麻薬の取り引きなどが半ば公然と行われていた。また衛生法上許可し難い環境下での中華料理の点心製造などがあったが、最盛期には香港のホテルや飲食店で使われた点心のかなりの割合を請け負っていたとの説もある[要出典]。城内警備においては1970年代後半から1990年代にかけて住民達が一丸となり自警団を組織し治安の改善を図った。

1984年にイギリスのマーガレット・サッチャー首相と中華人民共和国の趙紫陽首相が行った英中共同声明調印により、香港が1997年7月1日に中華人民共和国に返還されることが決まり、1987年には香港政庁が九龍城砦を取り壊し、周囲のアパートや郊外のベッドタウンに政庁が建設した高層アパートへ住民を移住させる方針を発表したが、補償などの問題で住民はこれに異を唱えた。また何十年もの間行政が立ち入ることはなかったが、共同声明の後に漸く香港警察の警官が定期的に巡回を行った。その頃には香港の他地域よりもむしろ城内の方が安全であったと伝えられている。

九龍城砦が取り壊される直前の1990年代初頭には、0.026km2(約200m×120〜150m)の僅かな土地に5万人もの人々がひしめき合って人口密度は約190万人/km2と世界で最も高い地区であった。これは畳1枚に対して3人分の計算である。比較参考値として東京ドームの面積は0.0467km2、観客席の収容人数は4万5000人である。

取り壊し  1991年の九龍城砦、周囲に整備された公園から望む 九龍寨城公園(2005年)

1993年から1994年にかけて取り壊し工事が行われ、1995年には、同じ街区の低層スラムとなっていた箇所で早期に整備され、小規模のサッカー場やバスケットボールコート、マウンテンバイクの走行コースなどが設置された賈炳達道公園 (Carpenter Road Park) や、同時期に建設されたショッピングセンターの九龍城廣場 (Kowloon City Plaza) に隣接する形で、九龍寨城公園 (Kowloon Walled City Park) が造成された。

再開発後の九龍寨城公園には中国趣味の庭園や、在りし日の九龍城砦の状況を簡単に展示する資料館がつくられた。この資料館は九龍城砦の中心に最後まで残され老人ホームとして使われていた砦時代の平屋の兵舎を改修、そのまま流用している。

また、九龍城砦の解体時に廃棄物の中から発見された扁額や大砲などの多くの文化財は当初香港政庁の計画では九龍の尖沙咀 (Tsim Sha Tsui) にある香港歴史博物館で保存、展示する予定であったが城内に住む住民の抗議により九龍寨城公園の資料館で保管することになった。

現在

1998年の旧:香港国際空港(啓徳空港)の移転などで九龍城上空の騒々しさは無くなり、活気ある商店街を中心に周囲は閑静な住宅街となっている。九龍寨城公園へは観光客が時折訪れるものの、普段は周辺住民の憩う公園となっており、太極拳やスポーツイベントなどの各種文化活動も住民と地元役所の手により行われている様である。庭園には東屋や十二支、龍といった石製の置物も設置され、どことなく不思議な趣を感じさせる場所となっている。公園北側の高台からは、九龍城街区の街並みが一望できる。

^ Carney, John (16 March 2013). "Kowloon Walled City: Life in the City of Darkness". South China Morning Post.
写真提供者:
Ian Lambot - CC BY-SA 4.0
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