兼六園(けんろくえん)は、石川県金沢市に存在する日本庭園である。国の特別名勝に指定されている。広さは約11.7ヘクタール。

江戸時代

1676年(延宝4年)、加賀藩5代藩主の前田綱紀が、金沢城に面する傾斜地にあった藩の御作事所を城内に移し、その跡地に自らの別荘である「蓮池御殿(れんちごてん)」を建ててその周りを庭園化したのが兼六園の始まりである。庭は当時は蓮池庭(れんちてい)と呼ばれ、歴代藩主や重臣らが観楓の宴などをする場として使われていたが、1759年(宝暦9年)4月10日に発生した宝暦の大火で焼失した。それから15年後の1774年(安永3年)、10代藩主前田治脩によって蓮池庭が再興され、同年に翠滝と夕顔亭、1776年(安永5年)には内橋亭を造り、庭園が整備された。また、蓮池庭上部にある平坦な場所で当時は空き地になっていた千歳台に藩校である明倫堂と経武館を建てた[1]。

11代藩主の前田斉広は、1819年(文政2年)に37歳で隠居を表明した後、千歳台で自身の隠居所の建設を始め、藩校は現在のいしかわ四高記念公園の場所に移した。3年後の1822年(文政5年)には建坪4000坪・部屋数200を超える隠居所「竹沢御殿(たけざわごてん)」を完成し、この年に白河楽翁(松平定信)によって兼六園と命名された[2]。斉広の死後、竹沢御殿は12代藩主前田斉泰によって取り壊されるが、斉泰は1837年(天保8年)に霞ヶ池を掘り広げたり、栄螺山を築いたり[3]、姿形の良い木を植えるなどして庭を拡張・整備し、1860年(万延元年)には蓮池庭との間にあった塀を取り壊して、現在の形に近い庭園を築いた[1]。

明治時代以後

長らく殿様の私庭として非公開だったが、1871年(明治4年)から日時を限っての公開が開始。同年に園内の山崎山の下に異人館が建てられ、噴水前には理化学校が開設された。1872年(明治5年)には異人館は成巽閣とともに国内初の博物館である金沢勧業博物館となった。同館は1909年(明治42年)に廃止されるが、その間1879年(明治12年)に図書館、1887年(明治20年)に金沢工業学校(後の石川県立工業高等学校)が附属されるなど、大規模なものに拡張された。

1874年(明治7年)5月7日から正式に一般公開され、1876年(明治9年)には兼六園観光案内組合が組織され、積極的な観光利用の歴史が始まった。24時間開放されていたが[注 1]、石の持ち去りや灯籠の破壊などが後を絶たず、保存徹底の声が上がるようになり、維持・保存費用捻出も兼ねて1976年(昭和51年)から有料とし、時間を限って公開されるようになった。1985年(昭和60年)に特別名勝に指定された。

年表 1676年(延宝4年):前田綱紀が蓮池御殿を造り、その周辺に蓮池庭を作庭。 1759年(宝暦9年):4月10日、宝暦の大火で蓮池庭が焼失。 1792年(寛政4年):3月、現在の園内に藩校の明倫堂が開校。 1822年(文政5年):松平定信が「兼六園」と命名。前田斉広の隠居所・竹沢御殿が完成。 1851年(嘉永4年):9月、竹沢御殿が取り壊される。 1863年(文久3年):7月、成巽閣が完成。 1871年(明治4年):1月、山崎山の下に異人館が完成。正月から9月までの年間19日間、初めて一般に開放される。 1874年(明治7年):2月、太政官布告にもとづいて兼六園が公園に認可される。5月7日、正式に一般公開される。7月、園内に勧業博物館が創設される。 1878年(明治11年):10月、明治天皇が北陸御巡幸で兼六園を訪問。 1880年(明治13年):10月、明治紀念之標が建立される。 1922年(大正11年):3月8日、名勝に指定される。 1924年(大正13年):5月、室生犀星の招きで芥川龍之介が園内の三芳庵別荘に滞在。 1928年(昭和3年):11月、兼六園菊桜が天然記念物に指定される。 1930年(昭和5年):12月14日、前田慶寧の銅像ができる[4]。 1976年(昭和51年):9月1日、入園料が有料となる[5]。 1985年(昭和60年):3月20日、特別名勝に指定される。 1989年(平成元年):5月、兼六園広坂休憩館が開館。 2000年(平成12年):時雨亭が復元完成。 2018年(平成30年):園内の専用水路、伏越施設の遺構などは「辰巳用水関連施設群」の一部として土木学会選奨土木遺産に選ばれる[6][7]。名前の由来について  松平定信

兼六園の名前は1822年(文政5年)、前田斉広の依頼に応じて白河藩主だった松平定信(白河落翁)が命名したとされることが多い。兼六の語源は宋の詩人・李格非の『洛陽名園記』[8]の中で中国洛陽の名園・湖園を「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園」と謳った文をもとに命名した。その文は以下の通り。

洛人云、園圃之勝、不能相兼者六

務宏大者少幽邃、人力勝者少蒼古、多水泉者艱眺望

兼此六者、惟湖園而已

洛人の云ふ、園圃の勝、相ひ兼ねるあたはざるは六。宏大を務むるは幽邃少なし、人力勝れるは蒼古少なし、水泉多きは眺望艱し。この六を兼ねるは、ただ湖園のみ。

しかし、松平定信自筆「花月日記」文政5年(1822年)9月20日の記載には、「大塚へ行。秋色をミて、ただちにかへる。加賀の大守より額字をこふ。兼六園とて、たけ三尺ニ横九尺也。兎ぐの額にハいとけやけし、兼六とハいかがと、とひにやりぬ。」[9]とあり、兼六園の額字を頼まれた松平定信が兼六園の意味を知らなかったことから、この時点ですでに兼六園という名前があったことがわかる。 また、「明治園芸史」220頁に「前田候第12世斉広朝臣、証金龍造園竣功の後に、此湖園記文より、兼六という文字を取りて、園名と為し、白河少将楽翁公の揮毫を請ひて、扁額を作り、之を園門に揚げられしと云ふ、」[10]とあり、加賀藩主斉広が命名したことがわかる。

定信が揮毫した扁額は現在、石川県立伝統産業工芸館に展示されている。

兼六園は、小立野台地の先端部に位置していることから、園内に自然の高低差がある。これによって、園路を登りつめていく際の幽邃な雰囲気と、高台にある霞ヶ池周辺の宏大さ、眼下の城下町の眺望を両立させている。

^ a b 兼六園の歴史、兼六園HP、2016年3月30日閲覧 ^ 「日本の道100選」研究会 2002, p. 100. ^ 入園券 ^ 『愛蔵版 石川富山 昭和あのとき ストーリー編』(2014年8月5日、北國新聞社、富山新聞社発行)463頁。 ^ 『愛蔵版 石川富山 昭和あのとき ストーリー編』(2014年8月5日、北國新聞社、富山新聞社発行)473頁。 ^ “中部地方の選奨土木遺産 - 辰巳用水関連施設群”. 土木学会選奨土木遺産中部支部選考委員会. 2022年6月9日閲覧。 ^ 辰巳用水にまなぶ会 (2019年11月20日). “土木遺産認定銘板を城内に設置 – 辰巳用水にまなぶ会”. 2022年6月9日閲覧。 ^ 洛陽名園記 ^ 天理図書館報ビブリア. (学)天理大学出版部. (2012年10月)  ^ 長山 2007.


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