古くから飛騨国の庄川流域は白川郷と呼ばれており、その内「下白川郷」と呼ばれる川下側(北側)が白川村、「上白川郷」と呼ばれる川上側(南側)が荘川村(現:高山市)となった。江戸時代中期から白川村には合掌造り家屋が建設されており、300年以上前に建てられた家屋もあるという[1]。
1875年(明治8年)7月29日に町村が統合された際に、芦倉村、有家ヶ原村、飯島村、牛首村、内ヶ戸村、大窪村、大牧村、尾神村、荻町村、加須良村、小白川村、木谷村、島村、椿原村、野谷村、鳩谷村、平瀬村、福島村、馬狩村、牧村及び御母衣村が合併して、白川村は発足する[2]。1889年(明治22年)の町村制の施行により、白川村の区域をもって、白川村が発足する。
なお、旧大牧村、旧野谷村、旧尾神村及び旧福島村などの村々は大牧ダム(鳩谷ダム)や御母衣ダムの建設時に水没離村した[3]。
近隣との交通白川地域は長く地形的に隔絶された地域だったが、1926年(大正15年)に白鳥町とを結ぶ白川街道が改修されて馬車の往来が可能になった[3]。その頃に中心集落の平瀬に商店や旅館、料理屋が開業している[3]。
1945年(昭和20年)には村の往還(後の国道156号)が軍用道路となり五箇山方面からの路面が改修されたため大型車の通行が可能になった[3]。1955年(昭和30年)には国鉄バスが金沢まで、1956年(昭和31年)には濃飛バスが高山まで運行され、1958年(昭和33年)には岐阜 - 高岡間のバスが通行するようになった[3]。
単独村制の維持1995年(平成7年)から2005年(平成17年)にかけて行われた平成の大合併の際には、飛騨地域の全ての市町村で結成した「飛騨地域合併推進協議会」に白川村も参加し、また村内では独自に「白川村広域合併研究会」を設置した[4]。飛騨の最大都市である高山市に編入される形で一市二郡(吉城郡・大野郡)で合併する場合と、白川村単独を続ける場合とを比較検討し、2001年(平成13年)に「合併是非論展開表」を取りまとめた[4]。
検討の結果、合併した場合の面積は3,229km2で鳥取県に匹敵する広域となるため、一体的な行政運営が可能なのか疑問視されたこと、白川村から高山市の中心部までは83㎞もあり移動が困難であること、また人口1,900人足らず(当時)の白川村からは市議会議員を選出できない可能性があること、そして白川村独自のコミュニティ機能が崩壊することが心配され、8割近くの住民が合併に反対した[4]。また、南砺市との結びつきや世界遺産でもある白川郷のイメージを損ねてほしくないという内外の声もあり、2003年(平成15年)に同協議会を離脱し、単独村制を維持することにした。
現在、飛騨地域では唯一の村であり(その他の市町村は合併により高山市・飛騨市・下呂市の3市となった)、岐阜県内でも白川村の他には加茂郡の東白川村[注釈 1]の一村を残すのみである[5]。
^ “白川郷合掌造り集落保存の歴史(白川郷観光情報|白川村役場)”. 白川郷観光情報|白川村役場. 2020年12月23日閲覧。 ^ “村制施行(白川村役場)”. 白川村役場. 2020年12月23日閲覧。 ^ a b c d e 山口源吾「庄川上流限界地域における過疎山村の動向」『中央学院大学論叢. 一般教育関係』第7巻第2号、中央学院大学、1972年11月、127-146頁、ISSN 0286-5726、NAID 110001044185。 ^ a b c “岐阜県白川村/日本一美しい村つくらまいか ~合掌集落とともに自立を目指して~ - 全国町村会”. www.zck.or.jp. 2020年12月23日閲覧。 ^ “岐阜県の市町村一覧 - 岐阜県公式ホームページ(市町村課)”. www.pref.gifu.lg.jp. 2020年12月23日閲覧。
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