東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派の大本山の寺院。山号は慧日山(えにちさん)。本尊は釈迦如来。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。近代に入って規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院である。かつては身の丈五丈の釈迦如来座像を有し、山城国(現在の京都府の一部)では雲居寺大仏・方広寺大仏(京の大仏)に次ぐ高さを有する大仏として、威容を誇っていた。中世においては「南都(東大寺)の半仏雲居(雲居寺)、雲居の半仏東福(東福寺)」「南都の四半仏」と謳われるなど、身の丈十六丈の東大寺大仏・身の丈八丈の雲居寺大仏と並び称されていた(公称高寸法が実寸の高さでないことは後述)。

東福寺は宗派の雲水たちが修行する専門道場である一方で、紅葉の名所として著名な観光スポットであり、秋には数十万もの観光客が訪れる。域内には多くの国宝、重要文化財に指定された名建築を有し「東福寺の伽藍面(がらんづら)」とも呼ばれる。

東福寺は京都市東山区の東南端、伏見区と境を接するあたりにあり、東には泉涌寺がある。この地には延長2年(924年)に藤原忠平によって建てられた藤原氏の氏寺・法性寺の巨大な伽藍があった(法性寺は、JR・京阪東福寺駅近くに小寺院として存続している)。嘉禎2年(1236年)、摂政九条道家は、九条家の菩提寺として、この地に身の丈五丈(約15メートル)の釈迦如来像を安置する大寺院を建立することを発願し、寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。建長元年(1249年)に完成した身の丈五丈の釈迦如来像を安置する仏殿の建設工事は延応元年(1239年)から始めて、完成したのは建長7年(1255年)であった。

九条道家は開山(初代住職)として、当時宋での修行を終えて帰国していた禅僧・円爾(諡号:は聖一国師)を迎えた。円爾は駿河国栃沢(現・静岡市葵区)の人で、嘉禎元年(1235年)、宋に渡って径山(きんざん)興聖万寿禅寺の高僧・無準師範に入門、印可(師匠の法を受け継いだというお墨付き)を得て仁治2年(1241年)、日本へ帰国した。円爾ははじめ九州博多の承天寺に住したが、同寺が天台宗徒の迫害を受けて焼き討ちされたため、九条道家の援助で上洛、寛元元年(1243年)に東福寺の開山に迎えられた。

こうして当寺は天台・真言・禅宗の三宗兼学の寺院として建設が行われたが、工事は30年以上に亘って続き、法堂(顕教寺院の「講堂」にあたる)が完成したのは文永10年(1273年)であった。こうして五重塔をも備えた大伽藍が完成したが、元応元年(1319年)2月、大火災で伽藍は全焼し、身の丈五丈の本尊・釈迦如来像も焼失した。

1976年(昭和51年)韓国の全羅南道新安郡智島邑道徳島沖の海底から、大量の荷を積んだジャンク船(新安沈船)が発見されて引き揚げられた。積荷木簡の中には「東福寺」「十貫公用」などの字が見られることから、この船は焼失した東福寺の造営料を名目として、鎌倉幕府公認で派遣された唐船(寺社造営料唐船)であることが推測されている。

こうして再建が行われたが、建武元年(1334年)1月に方丈が焼失した。しかし、この年に当寺は京都五山に列せられる。延元元年(1336年)8月には兵火にあって仮仏殿が焼失するもこの8月のうちに再建に着手する。身の丈五丈の本尊・釈迦如来像も再び造立し、室町幕府の支援もあって貞和3年(1346年)6月には前関白一条経道により仏殿の上棟式が行われている。この際、東福寺は兼学寺院ではなく禅寺として復興が行われた。

観応2年(1351年)には南朝・後村上天皇の祈願所となっている。

当寺は「新大仏寺」とも呼ばれて栄えた。至徳3年(1386年)、法堂が再建される。享徳3年(1454年)には三重塔が建立された。室町時代には足利義持によって修理が行われている。

文明2年(1470年)、応仁の乱の戦火にあっていくつかの塔頭が焼失する。大永6年(1526年)にも焼失するが、天正年間(1573年 - 1593年)に豊臣秀吉によって寺領1854石が安堵されて再興される。

江戸時代になると徳川家康や徳川家光によって修理がなされている。

明治時代となり神仏分離令が出されると、70か院近くあった塔頭が25か院になった。1881年(明治14年)12月16日午後8時に失火のため出火し[1]、それが大火となり仏殿、身の丈五丈の本尊・釈迦如来像、法堂、方丈、庫裏などの主要な建物が焼失してしまった。なお、東福寺には巨大な「仏手」(現存部分の長さ2メートル)が保管されており、旧本尊像の左手部分のみが明治の火災の際に救い出されたものと推定されている[2]。

日露戦争の際には寺域が接収され、ロシア軍捕虜を入れる捕虜収容所となった。

1917年(大正6年)より仏殿と法堂を兼ねた本堂が建てられ、塔頭の万寿寺から釈迦如来像を移して本尊とし、1934年(昭和9年)に完成している。現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建だが、国宝の三門をはじめ、東司(便所)、浴室、禅堂などは焼け残り、中世の建物が現存している。

東福寺からは歴代多くの名僧を輩出しており、『元亨釈書』の著者である虎関師錬、室町時代に画僧として活躍し、その後の仏画や水墨画に多大な影響を及ぼした吉山明兆などが著名である。

境内には宋から伝わった「通天モミジ」と呼ばれる三葉楓(葉先が3つに分かれている)など楓の木が多い。もとは桜の木が植えられていたが「後世に遊興の場になる」という理由で伐採され、楓の木が植えられたものである。周辺は歴史的風土特別保存地区に指定されている。

1881年(明治14年)に焼失した仏殿・旧本尊像・脇侍像について  1881年(明治14年)に焼失した仏殿(京都府立京都学・歴彩館 京の記憶アーカイブ)。現存する三門と同じく、屋根先のたわみを防ぐいわゆる「太閤柱」が仏殿にも設けられていたことが分かる。 1881年(明治14年)に焼失した法堂?(京都府立京都学・歴彩館 京の記憶アーカイブ) [参考]千仏光背の例(法隆寺西円堂に安置される乾漆薬師如来坐像)。仏像自体の制作年代は8世紀後半ごろと推定されているが、光背は後補で弘安6年(1283年)の作。

先述のように、東福寺には巨大な「仏手」(現存部分の長さ約2m)が保管されており、旧本尊像の左手部分のみが1881年(明治14年)12月16日[3]の仏殿の火災の際に救い出されたものと推定されている[2]。これは創建時の本尊ではなく、14世紀に再興された本尊像の遺物である。この仏手からも分かるように、焼失した旧本尊座像は巨像であったとされ、『東福寺縁起』では、旧本尊座像の身の丈は5丈(約15m)され、脇侍の菩薩像は2丈5尺(約7.5m)とされている。戦国時代に来日したルイス・フロイスは東福寺を訪問し、現存しない東福寺仏殿・旧本尊像・脇侍についてフロイス日本史に以下の記述を残している。

東福寺というはなはだ高貴で古い僧院がある。(中略)はなはだ大きくかつ華麗な、全て木造の三つの寺院建築(三門・仏殿・法堂)が相互に近い間隔で建っている。その壮大な全建築は、非常に太い木柱の上に立てられ、地面には磨いた切石が敷かれている。(三つの建築の)うちの二つは一階建に過ぎない。第一の堂(仏殿)には、全て塗金した異常に大きい釈迦像がある。釈迦はバラモン風に蓮華の葉に坐しているが、すべてその(釈迦像の)大きさに相応し調和している。そしてその背後には、仏よりも高い一種の金属性の板があり、それには千体以上の小さい偶像が付いているが、いずれも約1パルモの長さである。なかんずく四十体は全て塗金され、二歳の幼児よりやや大きいと思われる(大きさである)。また釈迦(像)よりやや小さい像が二体、その傍らにある(脇侍の2体の菩薩像)。同所には四天(王)と呼ばれる恐るべき風貌をした大いなる巨人のような四体の別の像がある。日本人によれば、それらは世界の四方と天国への出入口を武装して警備している四名の兵士を表現しているという。その一人は手に剣を持ち、(両)足の下には非常に醜い悪魔を踏みつけ、他(の一人)は書くための筆を、(さらに)他(の一人)は、巻紙を手にしている。いずれも塗金されており、第四番目(の者)は鉾を所持している。そして鳩がその大きい建物に入らぬように、外には屋根まで達する網が張られている。[4]

戦国時代に東福寺にはフロイスの他にも宣教師が多々訪れているが、ガスパル・ヴィレラは「寺院の中央に三体の偶像があり、そのうちの一体は大男の偶像で、およそ15ブラサの高さを有する」と記録している(ただし1ブラサが何mかは諸説ある)[5]。

旧本尊像の5丈の真偽について、永井規男と引間俊彰の論文『東福寺室町再建仏殿の復原』では、実際は2丈5尺(約7.5m)ではないかとしている[注釈 1]。両氏の論文は、明治に焼失の旧本尊像を安置していた仏殿についての復原検討であり、江戸時代に描かれた絵図や、焼失前に撮影された仏殿の古写真、発掘調査の成果などをもとに検討がなされているが、その中で建物の復元に必要なため(旧本尊像が建物内部に納まらなければならないため)、旧本尊像の意匠・高さ寸法にも言及している。まず旧本尊像の高さ5丈というのは、旧本尊座像が立ち上がったと仮定した場合の寸法であり、実際の高さ(座高)はその半分の2丈5尺(約7.5m)程度であったとしている。そのように考えると、現存する仏手の寸法と、2丈5尺の座高で想定される旧本尊像の体のサイズとのバランスの整合が取れるとする(座像の高さを、立ち上がった際の想定寸法で表記することは、東大寺大仏などでも行われていたことである)。次に光背の高さについては、想定される仏殿内部の空間の高さ関係(梁と干渉しない高さ)及び、『愚子見記』(工匠・平政隆が著した建築書)に記される方広寺大仏(京の大仏)の座高と光背の高さ寸法との関係(高さ比率)に関する記述を参考にし、東福寺旧本尊像の光背の高さ寸法は、像高との比率から考えて44尺(約13m)程度ではないかとしている。また旧本尊像の下廻りについては江戸時代に作成された図面や文献記録から、床面より「高さ5尺の長方形の須弥壇」→「その中央に高さ3尺の八角形の須弥壇(八角形の須弥壇については論文中で根拠が述べられていないので、何らかの史料に基づくものか、もしくは当時の仏像の類例から想定したものかは不明)」→「旧本尊像」の順になっていたのではないかとしている。上記の寸法で旧本尊像を想定すると、諸資料から復原される仏殿の内部に上手く納まると両氏は論説している(東福寺旧本尊像の座高が実際に5丈(約15m)あったと仮定すると、光背の高さはそれ以上となるので、仏殿内部に納まらなくなるとしている)。

先述のように座像の大仏の高さを実寸(座高)ではなく、立ち上がったと仮定した場合の寸法(身の丈)で表記することは、他の大仏でも行われており、東大寺大仏は十六丈(実寸は14.7mなのでかなり誇張されている)、方広寺大仏は十六丈(実寸は6丈3尺)、雲居寺大仏は八丈(実寸は4丈とされる[7])と公称していた。万里集九の詩集「梅花無尽蔵(永正3年(1506年)作)」には「南都の半仏雲居、雲居の半仏東福[7](雲居寺大仏の身の丈は東大寺大仏の半分で、東福寺大仏の身の丈は雲居寺大仏の半分)」という記述があり、東福寺旧本尊像の身の丈は、東大寺大仏の身の丈の4分の1ということになる(東大寺大仏の身の丈の公称高は16丈で、東福寺旧本尊像の身の丈の公称高は5丈なので、約4分の1である)。東福寺旧本尊像の身の丈五丈が実寸ではなく、立ち上がったとした場合の仮定寸法であることは、歴史学者の森克己も指摘しているほか[8]、日本の歴代仏師の業績を記した「本朝大仏師正流系図」の仏師院信の業績には、「建武三年東福寺仏殿之釈迦高二丈五尺、同脇士西弥勒、東聖観音、各一丈二尺五寸、四天一丈二尺五寸」とする記述がある[9]。

美術史学者の根立研介は旧本尊像が光背を有していたことは確実であるとしている。根立は旧本尊像の造立された時代の仏像の作風や正徳元年(1711年)に出版された『山城名勝志』に「光中ノ化仏五百躯」という記述があることから考えて、光背は無数の数の化仏で装飾されていたのではないかとしている(いわゆる千仏光背)[2]。そしてその光背の意匠は、かつての東大寺大仏の光背の意匠に倣ったものではないかとしている(東大寺大仏の光背は、創建時は化仏500余尊で装飾されていたとされるが[10]、2回に渡る大仏の再建で、化仏の数は削減されていき、現存のものは16体である)。東福寺には像高85cmほどの座像の仏像で、背面が平坦でその左右端部に鉄環が打たれている像が3躯保管されているが、これはかつての旧本尊像の光背の化仏ではないかとしている[2](先述のフロイスの記述では、光背の化仏は小型のものが約1,000体、中型のものが40体付いていたとされるが、ここで述べているのは中型の方の化仏である)。また東福寺塔頭南明院の本尊は、東福寺旧本尊像光背の化仏であるとする伝承がある。上記について根立は、南明院の本尊は修繕がなされて像風が変わってしまっている部分もあるが、先述の3躯と類似した仕様が多々見られるので、南明院の本尊も東福寺旧本尊像光背の化仏であろうとしている[2]。なお即宗院や霊源院など、東福寺塔頭は旧本尊像が座していた蓮台の遺物とされる蓮弁を所蔵している所が多い。これは明治の焼失の際、旧本尊像の遺品である焼け残った蓮弁を形見分けとして東福寺塔頭に1枚ずつ配布したためとされている。

旧本尊像の印相(手印)については、現存する左手は「与願印(よがんいん)」であるので、右手は通例通り「施無畏印(せむいいん)」であろうとされる[2]。

『山城名勝志』の東福寺旧本尊像の紹介の項には、「釈迦眉間蔵遮那像其長五寸」とする記述があり、旧本尊像の眉間に小型の眉間籠り仏が納められていたことが分かる(現存せず)[2]。大仏の眉間に仏像を納めることは他の大仏でも行われており、方広寺大仏(京の大仏)は落雷で焼失してしまったが、眉間籠り仏は現存している。また『山城名勝志』には旧本尊像の脇侍として、観音・弥勒のニ菩薩像と四天王像が仏殿に安置されていたとする記述がある。旧本尊像の仏手と同じく、脇侍像も焼失を免れた遺物が何点か東福寺に保管されており、「いずれかの像の髻(全長110cm)(おそらく菩薩像の一部であろうとされる。旧本尊像の像容は不明だが、旧本尊像が宝冠釈迦如来(髻を結い、宝冠を戴く釈迦如来)であれば旧本尊像の一部の可能性もある。)」「四天王像足下の邪鬼の一部」「文政12年(1829年)の補修の銘のある多聞天像の手先の一部」「菩薩像の持物と思われる蓮茎 ・水瓶」「四天王像のいずれかの持物と思われる戟の先端」などがある[2]。

平戸藩藩主の松浦清が著した『甲子夜話』には、東福寺の僧印宗の目撃談として、1798年(寛政10年)に発生した、方広寺大仏(京の大仏)の落雷による焼失の過程が記述されているが、その中で方広寺大仏が焼失したことで、図らずも東福寺旧本尊像が京都一の高さの像になったことが述べられている[11]。(印宗の目撃談については、東福寺から方広寺まで約2kmで、東福寺境内から方広寺大仏殿が落雷で炎上・焼失するさまが目視できたことによる。印宗は数日後に大仏殿の火災現場を訪問している。)また『甲子夜話』には東福寺仏殿について以下の記述がある。「東福寺仏殿は五百年前九条家の建立にてそのまま尚在り。殿は十七間余りもあり。因て本尊の像も、(方広寺)大仏の外はこの本尊より大ひなるは京中には無と云伝ふ。又此仏殿も巨屋なれば、家根裡まで昇る段梯子ありて、常々昇るに、破風口まで三四廻も折曲りてこれを設く。破風口に唐戸を構へ、人ここより屋脊等に出づべし。又この唐戸のあたりの柱材に人の姓名を鐫(ほ)りつけたる、所々に見ゆ。又は利刃などを以て斫(き)りつけたると覚しき痕も往々あり。又山門の材木にも所々に有り。因て寺に問たれば、言ふ。大坂御陣のとき、この寺関東の御陣所となり、諸軍卒ここに屯しゐたる中、その佩刀を以て鐫創せしものとぞ。」

明治焼失の仏殿の古写真は、1881年に作られた京都の名所の写真帖である『撮影鑑 2』に掲載がある。それは京都府立京都学・歴彩館が所蔵しており、デジタルアーカイブで公開されている(文冊番号1のコマ番号18)。ただし樹木が仏殿正面に植わっている関係で、仏殿の大部分は樹木で隠れて写っておらず、仏殿の西端部分しか写っていないという欠点がある。東福寺旧本尊像は東大寺大仏に匹敵する巨像で、それを安置する仏殿も東大寺大仏殿のような巨大建造物であったと紹介されることもあるが、上記写真から考えて、少なくとも仏殿については、巷で言われるほど巨大な建造物ではなかったとされる。なお旧本尊像の写真については、これまでの所確認されていない(アーネスト・サトウやアーネスト・フェノロサなど日本文化に造詣が深い外国人が焼失以前の東福寺に多々訪れており、何らかの資料が残存している可能性はある)。

明治に焼失した仏殿の礎磐石は、仏殿の柱径をうかがい知れる貴重な資料だが、再建された本堂(仏殿兼法堂)正面に植わるイブキの根元周囲に、花壇のように円形に並べて無造作に置かれている[注釈 1]。

^ 横山秀哉「東福寺古僧堂の遺構から見た禅宗伽藍」(『禅文化(42)』1966年 収録) ^ a b c d e f g h 根立研介「東福寺の彫刻 -南北朝・室町時代の遺品を中心に-」(『MUSEUM』591号、2004年) ^ 横山秀哉「東福寺古僧堂の遺構から見た禅宗伽藍」(『禅文化』42号、1966年 ) ^ ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳 『日本史3 五畿内編1』中央公論社、1978年、p.240-241 ^ 松田毅一 『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第3期第4巻』1998年 p.425 ^ 永井規男・引間俊彰「東福寺室町再建仏殿の復原」(『日本建築学会近畿支部研究報告集. 計画系』36号、1996年) ^ a b 竹村俊則『昭和京都名所圖會』1980年 p.193 ^ 森克己『日宋文化交流の諸問題』1975年 ^ 『続群書類従 第35輯 拾遺部』1972年 ^ 伊藤ていじ『重源』1994年 p.317 ^ 『史料京都見聞記』第5巻、 1992年 p.137


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