東大寺

東大寺(とうだいじ、英: Todaiji Temple)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗の大本山の寺院。山号はなし。本尊は奈良大仏として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)。開山(初代別当)は良弁である。

正式には金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。現別当(住職・224世)は橋村公英。

奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、度々修復を受けており、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代中期の宝永6年(1709年)に規模を縮小して再建されたものである。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。

聖武天皇による東大寺大仏造立後に、国内では鎌倉大仏(現存)、雲居寺大仏(現存せず)、東福寺大仏(現存せず)、方広寺の京の大仏(現存せず)などの大仏も造立されたが、先発して造立された東大寺大仏・大仏殿の造形、建築意匠・構造は、それらの大仏・大仏殿に対し多かれ少なかれ影響を与えた。ただし江戸時代の東大寺大仏殿再建の際には、上記とは逆に、同時代に京都に存在していた方広寺大仏殿を手本として、東大寺大仏殿の設計がなされた(後述)。

江戸時代には、東大寺大仏 (像高約14.7m)、鎌倉大仏(像高約11.39m)、方広寺大仏(京の大仏)(像高約19m) の三尊が、日本三大仏と称されていた。

東大寺は1998年(平成10年)12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

 大仏(盧舎那仏像)西側より 創建と大仏造立  創建当時の大仏殿復元模型(大仏殿内所在)

8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていたことが分かっている。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子・基王の菩提を弔うため、若草山の麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られる、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺兼総国分寺と定められ[注 1]、寺名は金光明寺と改められた。

大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。

聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)10月15日である。当時、都は山背国の恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。また、天平勝宝元年(749年)には鎮守社として手向山八幡宮が創建されている。

難工事の末、ようやく大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・バラモン僧正菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは天平宝字2年(758年)であった。

東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。

東大寺と橘奈良麻呂

大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は、国費を浪費させ日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇にその自身の思惑とは程遠い現実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。

天平勝宝8歳(756年)5月2日、聖武太上天皇が崩御する。その年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。7月4日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。ここで永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父(橘諸兄)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったという。

奈良時代   奈良時代の東大寺伽藍の模型、北側より見る。奈良市役所所蔵平城京1/1000模型の一部

奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門と中門の間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。

奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。そのため、寺院では複数の宗派を兼学することが普通であった。東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗る[注 2]が、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。

平安時代

平安時代に入ると、桓武天皇の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受けたが、唐から帰国した空海が別当となり寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。朝夕の看経には、理趣経が今も読まれている。華厳経的世界の象徴である毘盧遮那仏(大仏)の前で理趣経が読まれるのは、空海が残した痕跡といってよい。

また、講堂と三面僧房が失火で、西塔が落雷で焼失したり、暴風雨で南大門、鐘楼が倒壊したりといった事件が起こるが、後に皇族・貴族の崇敬を受けて黒田荘に代表される多数の荘園を寄進されたり、自ら開発を行ったりし、伽藍の復興に力を入れた。やがて南都の有力権門として内外に知られるようになると、多数の僧兵を抱え、興福寺などと共に度々朝廷に強訴を行っている。

中世以降  南都焼討後再建され東大寺大仏殿の戦い時焼失した2代目大仏殿の模型 東大寺大仏殿の観相窓と唐破風 [参考] 絵図に描かれた往時の方広寺大仏殿(「花洛一覧図」京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ 一部改変) [参考] 往時の京の大仏の1/10の大きさの模像と伝わる、現在の方広寺本尊盧舎那仏座像[1]。 [参考] エンゲルベルト・ケンペルの方広寺大仏(京の大仏)のスケッチ(大英博物館所蔵) [2] ケンペルは方広寺大仏について日記に「これまで見たことのない程の大きさで、全身金色である」と書き記している[3]

東大寺は近隣の興福寺と共に治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡による南都焼討の兵火で壊滅的な打撃を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。この後、東大寺は本格的に復興が行われることとなり、後白河法皇は当時61歳の僧・俊乗房重源(ちょうげん)を大勧進職に任命し、大仏や諸堂の再興に当たらせた。重源の精力的な活動及び平家に代わり政権を握った源頼朝の援助により再建は着々と進み、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席の下、大仏開眼法要が、次いで建久元年(1190年)には上棟式が行われた。建久6年(1195年)には再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席の下、落慶法要が営まれた。

その後、戦国時代の永禄10年(1567年)10月10日、三好三人衆と松永久秀による東大寺大仏殿の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した。天正元年(1573年)9月、織田信長は東大寺を戦乱に巻き込むことと乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している[4]。

信長亡き後に天下人になった豊臣秀吉は、天正14年(1586年)に、焼損した東大寺大仏に代わる新たな大仏の造立を発願し[5]、京都に方広寺大仏(京の大仏)が造立されたが、秀吉は東大寺大仏再建への着手は行わなかった。平家に代わり政権を握った源頼朝が、早急に東大寺大仏再建への援助を行ったこととは対照的である。方広寺大仏は東大寺大仏に代わる大仏として発願されたため、豊臣秀頼の代には、寺号を「東大寺」とする(方広寺を東大寺の継承寺院とする)ことも企図され、朝廷との協議がなされた[6]。この件は豊臣氏の滅亡で立ち消えとなった。

東大寺は破損した大仏に応急処置として、溶けた大仏の頭部に新たに銅板で仮の頭を作成して付け、仮の大仏殿もなんとか建てていたが、慶長15年(1610年)に暴風で仮大仏殿は倒壊した。以降、大仏は露座のまま放置されることになった。

大坂の陣で豊臣氏が滅亡し、江戸幕府の全国支配が確立してからも、幕府による東大寺大仏再建の企図は直ぐにはなされなかった。一方で方広寺大仏(京の大仏)・大仏殿の修繕工事には積極的に江戸幕府が関与している。これは朝鮮通信使の旅程に方広寺が組み込まれており、日本側の体面保持・国威発揚の意図があったものとされる[7](1719年の第9回朝鮮通信使が、方広寺は秀吉の造立した寺であること、また秀吉の朝鮮出兵における朝鮮の戦死者の耳鼻を埋葬した耳塚が門前にあることを理由に、方広寺訪問を拒絶しトラブルに発展したことを契機として、方広寺は朝鮮通信使の旅程から外された)。

寛文2年(1662年)の寛文近江・若狭地震で方広寺大仏が損壊した際も(地震発生前から、経年劣化などで既に大仏は損壊していたとする説もある[8][9])、銅像から木像に改められてしまったが、江戸幕府の主導で早急に再建がなされた[7]。

前回の平家の南都焼討による東大寺大仏・大仏殿の焼失の際は早急に再建がなされたが、永禄10年(1567年)の東大寺大仏・大仏殿の焼失後はその再建が遅々として進まなかった。その原因について、江戸時代には京都方広寺に往時の東大寺大仏・大仏殿に匹敵する規模のそれが既に造立されており、僧や民衆の間で東大寺大仏・大仏殿を復興させようとする機運(世論)が高まりにくかったという点がある。しかし1600年代後半に、東大寺の僧公慶が立ち上がり、東大寺大仏の修理と大仏殿の復興を行おうと勧進を始めると、多くの人々からの喜捨を受けて、まず大仏の修理から行われることになった。修理は元禄4年(1691年)に完成し、翌年には大仏開眼供養が行われた。公慶は続いて大仏殿の再建に着手しようと江戸幕府将軍徳川綱吉やその母の桂昌院に謁見し、多額の寄進を受けた。こうしたこともあって大仏殿は宝永6年(1709年)に遂に完成した。

現存する3代目の東大寺大仏殿は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の11間からおよそ3分の2の7間に縮小されている。3代目東大寺大仏殿は従前の大仏殿とは外観が大きく異なる点が多い(堂外から大仏の御顔を拝顔できるようにする観相窓の採用、観相窓上部の唐破風の設置など)。同時代に存在していた方広寺2代目大仏殿の設計図は今日現存しているが、それと現存する3代目東大寺大仏殿を見比べると、間口(建物の横幅)が減じられていること以外はほぼ建物の外観が瓜二つであることが分かる。これは東大寺2代目大仏殿の焼失から百数十年が経過し、それの技法に倣うことは難しいが、同時代には方広寺2代目大仏殿が京都に存在しており、公慶など東大寺大仏殿再建に当たった者達が、それの意匠・技法を参考にしたためではないかと考えられている[10]。またその根拠として以下もある。東大寺大仏殿内部に設けられている売店の上方の壁に、江戸時代の東大寺大仏殿再建にあたり作成された設計図面である、巨大な「東大寺大仏殿建地割板図」が飾られている。上記は経年劣化のため図面が読めなくなっていたが、赤外線撮影による調査を行った所、大仏殿の計画が間口11間から7間に縮小する以前の、当初設計図面であることが判明した。上記図面は現存の東大寺大仏殿の意匠・構造よりも、より方広寺大仏殿のそれに近似しており、建築史学者の黒田龍二は「(東大寺大仏殿建地割板図は)方広寺大仏殿を参考に東大寺大仏殿再建のための雛形として描かれたと考えるのが妥当である」としている[11]。また現在の方広寺本尊の盧舎那仏座像は往時の大仏の1/10の大きさの模像とされるが、それの光背の意匠は、現存の東大寺大仏の光背の意匠と極めて近似しているので、大仏の光背の意匠についても、方広寺大仏のそれに倣ったものではないかとする説もある。

2代目東大寺大仏殿の焼失後に「2代目東大寺大仏殿焼失→初代方広寺大仏殿造立・焼失→2代目方広寺大仏殿造立→3代目東大寺大仏殿造立」と年数がさほど空くことなく、大仏殿が日本に存在し続けていたことは、大仏殿造立の技法が継承される上で好事となった。また単に技法が継承されるだけでなく、新たな技法の確立や建築意匠の改良もなされ、3代目東大寺大仏殿の柱材について、寄木材(鉄輪で固定した集成材)となっているが、この技法は2代目方広寺大仏殿で確立されたものとされ[12]、東大寺大仏殿にも取り入れられたとされる。豊臣秀吉による方広寺初代大仏殿造営時に、日本各地の柱材に適した巨木を伐採しつくしたため、森林資源が枯渇したようであり、苦肉の策と言える[12]。

なお今回の復興でも講堂、食堂、東西の七重塔などは再建されることはなかった。今は各建物跡に礎石や土壇が残されているのみである[注 3]。

宝永6年(1709年)から寛政10年(1798年)までは、奈良(東大寺)と京都(方広寺)に、大仏・大仏殿が双立していた。江戸期においては方広寺大仏(京の大仏)の方が、規模(大仏の高さ、大仏殿の高さ・面積)で上回っていた。これは先述のように豊臣秀吉が発願したもので、秀吉の造立した初代大仏、豊臣秀頼の造立した2代目大仏、江戸時代再建の3代目大仏と、新旧3代の大仏が知られるが、それらは文献記録(愚子見記、都名所図会等)によれば、6丈3尺(約19m)とされ、再建され現存の東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。東海道中膝栗毛では弥次喜多が大仏を見物して威容に驚き「手のひらに畳が八枚敷ける」「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さが描写される場面があるが、そこで描かれているのは、東大寺大仏ではなく、方広寺大仏である [13](なお初版刊行の1802年には、後述のように大仏・大仏殿は既に焼失している [13])。江戸時代中期の国学者本居宣長は、双方の大仏を実見しており、東大寺大仏・大仏殿について「京のよりはやや(大仏)殿はせまく、(大)仏もすこしちいさく見え給う[14]」「堂(大仏殿)も京のよりはちいさければ、高くみえてかっこうよし[14][東大寺大仏殿は方広寺大仏殿よりも横幅(間口)が狭いので、視覚効果で高く見えて格好良いの意か?]」「所のさま(立地・周囲の景色)は、京の大仏よりもはるかに景地よき所也 [14]」という感想を日記に残している(在京日記)。一方方広寺大仏については「此仏(大仏)のおほき(大き)なることは、今さらいふもさらなれど、いつ見奉りても、めおとろく(目驚く)ばかり也[15]」と記している。

方広寺(3代目)大仏は寛政10年(1798年)まで存続していたが、落雷で焼失した。

明治時代となり、神仏分離が行われると鎮守社の手向山八幡宮は東大寺から独立した。

『東大寺辞典』によれば現存する塔頭は18院であるが、この中には寺籍のみあって、独立した堂宇をもたないものもある。真言院、知足院のほか、大仏殿の北東に龍松院、龍蔵院、持宝院、宝厳院、大仏殿東側に宝珠院、中性院、上之坊、観音院、南大門西側、東大寺福祉療育病院に隣接して北林院、地蔵院、正観院がある。惣持院、清涼院は勧進所に所在、上生院、新禅院、金殊院は寺籍のみ残っている。


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^ 村山修一『京都大仏御殿盛衰記』法藏館、2003年、 p.159 ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社、1994年、 p.95 ^ ケンペル著・斎藤信訳『江戸参府旅行日記』平凡社、1977年 p.228-231 ^ 「東大寺を戦乱に巻き込むな」…信長の書状発見 ^ 河内将芳 『秀吉の大仏造立』法藏館、2008年、p.19 ^ NIKKEI STYLE 古きを歩けば(47)「豊臣の盛衰刻んだ大仏の梵鐘」 河内将芳の解説より ^ a b 村山修一『京都大仏御殿盛衰記』法藏館、2003年 ^ 井上和人『新編日本古典文学全集64 仮名草子集』注釈書 1999年、 p.22-24 ^ 丸山俊明『京は大火!大地震‼そのとき京人は、どうふるまったのか』びわこ学院大学出版専門委員会、2019年 p.12-14 ^ 奈良国立博物館『特別展 東大寺公慶上人 江戸時代の大仏復興と奈良』2005年 ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「名前なし-20230316123815」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ a b 大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』 2016年 ^ a b 麻生磯次 校注『東海道中膝栗毛(下)』岩波書店、1983年 p.172 ^ a b c 『本居宣長全集 第16巻』1974年出版 在京日記 宝暦七年の条 p.136 ^ 『本居宣長全集 第16巻』1974年出版 在京日記 宝暦七年の条 p.106
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