道頓堀(どうとんぼり)は、大阪府大阪市中央区の繁華街および町名。または、同所の北を流れる道頓堀川の略称。町名は道頓堀一丁目と道頓堀二丁目があり、一丁目の堺筋以東は街区符号に「東」が付き、郵便番号も異なる。

一部で「とんぼり」と略称される事もあるが定着しておらず、地元では略さずに「どうとんぼり」と表現している(なお、かつては「どとんぼり」、「どとんほり」と呼ばれていたとする出典もある)。 なお道頓堀の名前は商人で開墾者の安井道頓に由来し、日本橋北詰交差点には石碑もある。

幸田成友によると、1612年(慶長17年)に南端が堀止になっていた東横堀川と西横堀川を結んで木津川へ注ぐ堀川の開削が開始され、摂津国の清和源氏の一流である河内国の河内源氏の流れを汲む畠山氏の一族、河内国渋川郡久宝寺(または、摂津国住吉郡平野郷)出身で安井道頓(成安道頓)が新川奉行に任命された。しかし、大坂の陣で道頓が戦死したため、従弟の安井九兵衛(安井道卜(どうぼく))や安藤藤次(平野藤次)らが引き継ぎ、1615年(元和元年)に完成した。当初は新堀・南堀川・新川などと呼ばれていたが、大坂城主の松平忠明が道頓の死を追悼し、また、相当な私財が投じられたことや功績に鑑み「道頓堀」と命名した[1]。

「大坂濫觴書一件」では、道卜が合戦後の工事再開の認可を受けた際、徳川氏からの人夫提供の誘いを断り、久宝寺から百姓を呼び寄せ、自らの手で工事を完成させたとあり、安井家の富豪のほど、また当時の町人の心意気を偲ばせる記述となっている。この開堀では両岸の開発も行われ、道頓堀川八丁が誕生。「九郎右衛門町」、「宗右衛門町」などの人名のついた各町は安井家出入りの百姓で、この時開発の衝にあったものの名に因んだものである。

道卜は振興策として、南船場の塩町通付近に形成されていた芝居町を道頓堀川の南岸に移転させた。当初は道頓堀通の北側に川を背にして芝居小屋が立ち、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎が行われていたが、前者は1629年(寛永6年)に、後者は1652年(慶安5年)に禁止された。1653年(承応2年)に芝居名代5株が公認され、興行権免許の印として櫓を正面に掲げた劇場が道頓堀通の南側に立つようになり、歌舞伎や人形浄瑠璃が演じられた。

1707年(宝永4年)10月の宝永地震および1854年(嘉永7年)12月の安政南海地震では、大阪湾に押し寄せた津波が河川を遡上し、道頓堀付近まで水没したと伝えられている[2][3]。

町名の変遷

明治初頭には、東から高津五右衛門町、道頓堀立慶町、道頓堀吉左衛門町、道頓堀九郎右衛門町となっていた。

1872年(明治5年) 二ツ井戸町、高津町十番丁、日本橋筋1丁目、東櫓町、西櫓町、九郎右衛門町に改編。 1982年(昭和57年) 日本橋筋1丁目の北端部、東櫓町、西櫓町、九郎右衛門町を道頓堀に改編。 1983年(昭和58年) 二ツ井戸町、高津町十番丁の北端部を道頓堀に改編。^ 大阪市市立図書館 道頓堀の名の由来について ^ 国をたどりて〜震災復興 歴史に学ぶ(2)忘れられた「大阪水没」(産経ニュース2011年9月30日)2011年10月15日閲覧[リンク切れ] ^ 長尾武(2008) (PDF) 長尾武 (2008):1854 年安政南海地震津波、大阪への伝播時間と津波遡上高、『歴史地震』第23号、63-79.
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