Colombia

コロンビア
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のコンテキスト コロンビア

コロンビア共和国
República de Colombia
国の標語:Libertad y Orden
(スペイン語: 自由と秩序)
国歌:Himno Nacional de Colombia(スペイン語)
"コロンビアの国歌"

コロンビア共和国(コロンビアきょうわこく、スペイン語: República de Colombia)、通称コロンビアは、南アメリカ北西部に位置する共和制国家である。東にベネズエラ、南東にブラジル、南にペルー、南西にエクアドル、北西にパナマと国境を接しており、北はカリブ海、西は太平洋に面している。南アメリカ大陸で唯一、太平洋と大西洋の2つの大洋に面した国である。首都はボゴタ。

コロンビアは非常に多様な環境と文化、民族(88の部族と200の言語集団)を持つ国であり、ヨーロッパからの入植者、アフリカ人の奴隷の末裔、ヨーロッパ人が渡来する前からの先住民族が混在している。ヨーロッパ、中東、アジアからの移民が19世紀から20世紀の間に多く移住した。

コロンビアでは1960年代から政府軍、左翼ゲリラ、極右民兵の三つ巴の内戦が50年以上も続いている。1980年代から1990年代には麻薬戦争による暴力が横行し、世界で最も危険...続きを読む

コロンビア共和国
República de Colombia
国の標語:Libertad y Orden
(スペイン語: 自由と秩序)
国歌:Himno Nacional de Colombia(スペイン語)
"コロンビアの国歌"

コロンビア共和国(コロンビアきょうわこく、スペイン語: República de Colombia)、通称コロンビアは、南アメリカ北西部に位置する共和制国家である。東にベネズエラ、南東にブラジル、南にペルー、南西にエクアドル、北西にパナマと国境を接しており、北はカリブ海、西は太平洋に面している。南アメリカ大陸で唯一、太平洋と大西洋の2つの大洋に面した国である。首都はボゴタ。

コロンビアは非常に多様な環境と文化、民族(88の部族と200の言語集団)を持つ国であり、ヨーロッパからの入植者、アフリカ人の奴隷の末裔、ヨーロッパ人が渡来する前からの先住民族が混在している。ヨーロッパ、中東、アジアからの移民が19世紀から20世紀の間に多く移住した。

コロンビアでは1960年代から政府軍、左翼ゲリラ、極右民兵の三つ巴の内戦が50年以上も続いている。1980年代から1990年代には麻薬戦争による暴力が横行し、世界で最も危険な国の1つとなった。しかし、21世紀以降、コロンビアは劇的な治安の回復に成功し、アメリカ大陸における主要国と位置づけられている。

コロンビアの人口は、ブラジル、メキシコに続いて、ラテンアメリカで第3位である。世界的なコーヒー豆の産地として知られるほか、エメラルドの産出量は世界一であり、温暖な気候と豊富な日射量を活かしたバラ、カーネーションなどの栽培と切り花の輸出にも力を入れている。ランは国花である。

コロンビアはNATO唯一のラテン系パートナーであり、38のOECD加盟国の1つである。2020年、フォーブス誌が退職後の移住先として推薦する国々のリストに、コロンビアもランク入りした。

詳細について コロンビア

基本情報
  • 通貨 コロンビア・ペソ
  • 母国語表記 Colombia
  • 呼び出しコード +57
  • インターネットドメイン .co
  • Mains voltage 110V/60Hz
  • Democracy index 7.04
Population, Area & Driving side
  • 人口 49065615
  • 領域 1141748
  • 駆動側 right
履歴
  • 先コロンブス期
     
    エル・ドラード伝説を生み出したムイスカ人の黄金の筏

    紀元前1450年頃に、ボゴタ近郊のエル・アブラ(スペイン語版、英語版)の遺跡で先史文化の萌芽が見られる。中央アメリカから渡ってきた諸族の影響が大きくトウモロコシも彼らによって持ち込まれた。サン・アグスティンの遺跡も恐らく彼らによるものだと思われている。...続きを読む

    先コロンブス期
     
    エル・ドラード伝説を生み出したムイスカ人の黄金の筏

    紀元前1450年頃に、ボゴタ近郊のエル・アブラ(スペイン語版、英語版)の遺跡で先史文化の萌芽が見られる。中央アメリカから渡ってきた諸族の影響が大きくトウモロコシも彼らによって持ち込まれた。サン・アグスティンの遺跡も恐らく彼らによるものだと思われている。紀元前1000年、インディオのグループは南アメリカでインカ帝国に次いで最も優れていたといわれる行政システムであったカシケ(CaciqueCacicazgos)と呼ばれる首長による一種の首長制[要曖昧さ回避]国家群を発展させた。その好例をチブチャ系 (Chibcha) のムイスカ、タイロナ、カリマ(スペイン語版、英語版)キンバヤ(スペイン語版、英語版)、シヌーなどの部族とその文化に見ることができる。紀元前300年頃、現在のニカラグアに相当する地域からチブチャ系の人々が渡って来てからは、彼らを中心に独自の文化が育まれた。特にボゴタ盆地に居住していたムイスカ人はトウモロコシとジャガイモを栽培し、カピバラの一種を家畜化して、生産物を低地民のコカや木綿と交換することにより生計を立てていた。

    スペイン植民地時代
     
    クリストファー・コロンブスのアメリカ大陸上陸

    西暦1500年に、ロドリーゴ・デ・バスティーダス(スペイン語版、英語版)に率いられたスペイン人探検家がカリブ海沿岸を訪れるとそれに続いて1502年、クリストファー・コロンブスはカリブ海とチョコ (Choco) の西岸を航行する。1508年、それまでにパナマ地峡を征服していたバスコ・バルボアはウラバを征服し始める。1510年11月にサンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエン(英語版)(Santa María la Antigua del Darién) が今のチョコ県に建設され、南アメリカ初のヨーロッパ人による恒久的な入植地となった。その地域の先住民族は、チブチャ系 (Chibcha) とカリブ系(Karib)が多数を占めていた。バカタ(スペイン語版)を首都とするムイスカ連邦(スペイン語版)(1450年 - 1537年、Bogotá Kingdom - バカタ王国(スペイン語版)とも)はムイスカ人の最大の王国だったが、征服者ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ(英語版)により征服された結果、病気、搾取などによりの著しい人口減少が起こった。ムイスカ人の首都バカタはサンタフェ・デ・ボゴタと改名され、以降、スペイン人の拠点となった。

    スペイン人は16世紀になると アフリカから奴隷を送り込み始める。その後、カルタヘナ・デ・インディアスはペルーからの黄金の積出し港となり、富を狙ってのジャマイカを拠点にしたイギリスからの攻撃が激しくなった。スペインはイギリスからの防衛のために1717年にアンデス北部を ヌエバ・グラナダ副王領として、ペルー副王領から独立して組織した。この副王領は資金不足により一旦廃止されるが、1739年に再び北部南米をベネスエラなどと共にヌエバ・グラナダ副王領が再編され、サンタフェ・デ・ボゴタに首都を定めた。しかし、その後も カルタヘナなどの都市に対してイギリス海軍や海賊の攻撃は続き、現在[いつ?]も城壁が残っている。

    1781年、ソコーロ(英語版)で増税に反対したクリオージョ達がコムネーロスの反乱(英語版)を起こした。これはメスティーソやインディヘナをも含めた人民蜂起であり、革命委員会(コムン)が結成されたためにコムネーロスと呼ばれたが、最終的には増税の実施が見送られたことによりこの反乱は終結した。

    独立戦争とグラン・コロンビアの崩壊
     
    アントニオ・ナリーニョ。
     
    ククタ議会(スペイン語版、英語版)でのフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルとシモン・ボリバルをはじめとするコロンビア独立の志士たち。

    19世紀はじめにこの地でも独立戦争が始まり、スペイン軍と独立派の死闘が繰り広げられた。独立運動は10年以上に及んだ。当時のコロンビアの総人口は約130万人と推定されており、うち1割強に当たる約10万~15万人(成人男性の2人に1人が戦死)が死亡する激烈な戦闘が行なわれた。

    1806年からフランシスコ・デ・ミランダに率いられた解放軍により、隣のベネズエラ総督領(スペイン語版、英語版)から解放戦争が始まったことを受けて、ヌエバ・グラナダでも独立戦争が始まった。1810年7月、アントニオ・ナリーニョが副王を追放してボゴタ県(スペイン語版)(サンタフェ・デ・ボゴタを中心)にクンディナマルカ共和国(スペイン語版、英語版)(1810年 - 1815年)の独立を宣言した。翌年にカルタヘナ県(スペイン語版)(カルタヘナ・デ・インディアスを中心)がカルタヘナ共和国(スペイン語版)(1811年 - 1815年)の独立を宣言し、すぐにボゴタの議会で地方諸州とボゴタはヌエバ・グラナダ連合州(英語版)(1810年 - 1816年)として合流し、軍隊の指揮権と全体の指導権をボゴタが持つことを認められた。

    ナリーニョとフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルは、1812年に崩壊したベネズエラ第一共和国(英語版)(1810年 - 1812年)を代表として抵抗を続けていた、シモン・ボリバルを統領とするベネスエラ人独立勢力らと協力してスペイン軍と戦い、ボリバルも1813年にはベネスエラ第二共和国(英語版)(1813年 - 1814年)を再び解放するが、本国でのフェルナンド7世の反動的復位によってスペイン軍は再び勢力を増し、連邦派(カルタヘナ派)と集権派(ボゴタ派)の不一致を突かれる形で1814年2月にはボゴタが陥落した。ボリバルはその後カリブ海側のカルタヘナを拠点にスペイン軍と戦いボゴタを奪還したものの(カラボボの戦い (1814年)(スペイン語版))、1815年6月にカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れ、辛うじてイギリス領ジャマイカに逃れた。1816年5月、スペイン軍の攻撃によりボゴタは陥落した。

     
    大コロンビア

    再びベネズエラに上陸したボリバルは1818年にジャネーロ(英語版)Llanero)の頭目だったホセ・アントニオ・パエス(英語版)の力を借り、1819年にはアンゴストゥーラを臨時首都としてのベネスエラ第三共和国(スペイン語版)(1817年 - 1819年)が再建され、グラン・コロンビア(Gran Colombia、1819年 - 1831年)が創設された。1819年8月のボヤカの戦いに勝利するとボゴタが解放され、ヌエバ・グラナダも最終的に解放されて、ボリバルはグラン・コロンビアの建国を正式に宣言し、コロンビアの首都も改名されたボゴタに定められた。

    1821年にカラボボの戦い (1821年)(英語版)での勝利によりカラカスが解放されると、ベネズエラも最終的に解放され、両国は改めて正式にコロンビア共和国(República de Colombia)を形成した。1820年には解放されたグアヤキルが、1822年にはキトが併合され、このコロンビア共和国は現在[いつ?]のコロンビア、ベネスエラ、エクアドル、パナマの全て及びペルー、ガイアナ、ブラジルの一部を含む北部南米一帯を占める大国家となった。1821年9月、ヌエバ・グラナダ人で、ヌエバ・グラナダを代表してボリバルの副官を務めていたサンタンデルはコロンビア共和国の副大統領となって不在の大統領に代わりヌエバ・グラナダを治め、ボリバルはその後エクアドル、ペルー、アルト・ペルー方面の解放に出征した。1824年にスクレ軍がアヤクーチョの戦い(英語版)で勝利し、全インディアス植民地の独立を勝ち取った。

    ボリバルは新たに独立したボリビア共和国の初代大統領となり、1827年にボリビアから帰還した。コロンビア共和国を集権的にまとめようとするボリバルと、連邦的な要求をするサンタンデルや、ベネスエラを支配する ホセ・アントニオ・パエス(英語版)の不満が高まった。サンタンデル派は1828年にはボリーバルの暗殺を謀り亡命した。キトを巡ってのコロンビアとペルーの戦争も起きた(グラン・コロンビア=ペルー戦争(英語版))。その後、ベネズエラが独立を要求した。1830年にエクアドル(キトとグアヤキルとクエンカが連合して赤道共和国を名乗った)は独立し、ベネズエラもパエスの指導下で完全独立を果たしたため、ボリバルは終身大統領を辞職し、ヨーロッパに向かってマグダレーナ川を下る中、サンタ・マルタ付近で失意の内に病死した。翌1831年にラファエル・ウルダネータ政権が崩壊すると同時にコロンビア共和国も崩壊し、残存部がヌエバ・グラナダ共和国として独立した。

    ヌエバ・グラナダの独立からコロンビア共和国の成立まで
     
    首都ボゴタのカテドラル

    1832年に亡命先からサンタンデルが帰国し、ヌエバ・グラナダ共和国の大統領に就任した。保護貿易により産業が発展し、奴隷貿易が廃止され、公教育が拡充するなど連邦的な政治が進んだ。1840年代にはコーヒーが栽培され始めた。この時代にコロンビア時代から続く中央集権派と連邦派が、保守党と自由党に組織し直された。1849年には商人や職人、新興ブルジョワジー、小農などの連邦派が自由党を結成し、これに対抗して貴族や大地主、教会などを支持基盤に保守党が結成された。これにより、コロンビアは現在まで続く二大政党制が確立されたが寡頭支配体制の維持という点で両党は共通していた。

    1849年から1853年まで大統領を務めたホセ・イラリオ・ロペス(英語版)はイエズス会の追放、教会財産の没収、黒人奴隷の廃止などの反教会、自由主義政策を採り、1880年までコロンビアでは自由主義政権が続いた。1855年に「手工業共和国」と呼ばれたホセ・マリア・メロ(英語版)将軍の政権が打倒されると、保護貿易は廃されて自由貿易が導入され、育っていた工業の基盤が壊滅した。自由貿易の導入によりイギリス資本による経済支配が進んだ。

    1857年には自由主義者マリアーノ・オスピナ・ロドリゲス(英語版)が大統領になり、1858年にはロドリゲスの手によりグラナダ連合(1858年 - 1863年)が発足した。ロドリゲスはイエズス会の帰国を認めて教会特権を復活させ、中央集権化を図るなど保守化したため、1861年に自由主義者だったカウカ州知事のトマス・シプリアーノ・ド・モスケラ(英語版)が蜂起し、7月にはボゴタに入ってロドリゲスを追放した。

    モスケラが政権を握ると、1863年に成立したリオ・ネグロ憲法では自由主義的な内容が採択され、グラナダ連合は各州が外交権を持つ8州からなる連邦制国家、コロンビア合衆国(1863年 - 1886年)が成立した。この時代にボゴタでは科学や文芸が発展を見せ、ボゴタは「南米のアテネ」と呼ばれた。1880年に保守派のラファエル・ヌニェス(英語版)が自由党右派と保守党に推されて大統領になると、ヌニェスはスペインに独立を承認させ、国立銀行を建設して経済の安定を図った。ククタ周辺でのコーヒー栽培の拡大により、コロンビアの主産業となり、鉄道網も拡大していった。

    1884年に再選されたヌニェスは連邦制を廃止しようとし、政治と教育にカトリック教会が参加することを認めたため、1885年に自由主義者が反乱を起こした。ヌニェスがこの内戦に勝利すると、1886年にリオ・ネグロ憲法は放棄されて、カトリック教会と国家の同盟、中央政府の権限拡大、大統領の任期を6年に延長、中央集権主義などを盛り込んで教権の強い中央集権的な憲法改正がなされ、コロンビア共和国が成立した。

    党派対立の時代
     
    レティシアを巡ってのペルーとの戦争に備えるコロンビア軍(1932年)

    1894年にヌニェスが死ぬと再び緊張が高まった。ラファエル・ウリベ・ウリベ(スペイン語版、英語版)将軍の指導する自由党急進派が蜂起した「千日戦争」(1899年 - 1902年)が勃発した。この内戦ではおよそ10万人の犠牲者が出た。内戦中にかねてからパナマを欲していたアメリカ合衆国のパナマ運河地帯永久租借案をコロンビア上院が拒否すると、アメリカはパナマ地峡の独立派を援助し、1903年に地峡地帯がパナマ共和国として独立した。

    内戦終結後、保守党のラファエル・レイェス(英語版)が大統領に就任した。この時期に独裁が強化され、保護貿易に基づいて国内工業の育成が図られ、保守党政権によってこの路線は続けられた。1921年にパナマ問題が解決するとアメリカ合衆国から膨大な投資が流れ込み、それまでのイギリス資本からアメリカ合衆国資本による経済支配が進んだ。1910年代からアンティオキア地方の開発と発展が進み、コーヒーの最大産地となったアンティオキアの中心地のメデジンは、ボゴタを抜いてコロンビアの成長の原動力となった。

    1930年にエンリケ・エラヤ・エレーラ(英語版)が労働者の支持を得て選挙に勝利し、自由党政権が復活すると、エレーラは1932年9月のコロンビア・ペルー戦争に勝利し、南部アマゾン国境のレティシアの領有権を確保した。これ以後1946年まで自由党政権が続いた。

    1934年、自由党のアルフォンソ・ロペス・プマレホ(英語版)が大統領に就任し、部分的な土地改革などが行われた。プマレホは1942年に再選されるが、政策に失敗して1945年辞任した。プマレホの政治は農民や労働者の利益に適ったものだったが、それでも寡頭支配体制が崩れることはなかった。自由党員だったホルヘ・エリエセル・ガイタンは1928年にユナイテッド・フルーツ社によるバナナ労働者虐殺事件(英語版)を批判したことからカリスマ的な魅力を発揮し、ガイタン主義を掲げてそれまで寡頭支配体制の枠外に置かれていた農民、労働者、学生から圧倒的な支持を受けた。

    「暴力」の時代
     
    コロンビアの首都ボゴタ。標高2600メートルに800万人が住む。

    1946年以降の十年間はラ・ビオレンシア(英語版)(「暴力」の時代、1948年 - 1958年)と言われ、争いが頂点に達した。1946年に保守党政権が誕生すると、保守党政権は徐々に自由党派に対するテロを繰り広げ、1948年にボゴタでのOAS会議中に、自由党党首のガイタンが当選確実といわれた選挙直前に暗殺された。ガイタン暗殺をきっかけに激昂した自由党派の市民と保守党派の市民が衝突し、ボゴタ暴動(英語版)(ボゴタソ)が発生した。この一連の暴動により、再びコロンビアは暴力の時代を迎え、1946年から1950年代末までの「暴力」の時代の死者は、全て併せると20万人にも及ぶと推測される。

    1950年に保守党の超保守派ラウレアーノ・ゴメス大統領は事態を収拾するためと称して教会の政治的権利の復活などを骨子とした独裁を激しくしていき、それに伴い暴力も拡大して行った。しかし、この内戦の中でも工業生産は増加した。ゴメスは反共を掲げ共産党系と自由党系のゲリラを弾圧し、反共政策の下でラテンアメリカ諸国で唯一朝鮮戦争に際して国連軍に軍隊を派遣した。

    地方での暴力が拡大し、ゴメスの独裁が保守党や支配層からも受け入れがたいものになっていくと、事態を収拾するために両党が軍部に介入を要請し、1953年6月14日、軍事クーデターにより朝鮮戦争派遣コロンビア軍の司令官だったグスタボ・ロハス・ピニージャ将軍が政権を握り、コロンビア史上三度目の軍事政権が発足した。ロハスはポプリスモ的な政策で民兵の武装解除を行い、部分的に「暴力」を収めることに成功したが、 1955年、ロハスが人民弾圧を行なった地主達に恩赦をかけたために農民が蜂起(ビジャリカ戦争)。1956年、ロハスに敬意を示さなかったという理由で多数の市民が虐殺される「牛の首輪事件(スペイン語版)」(Incidentes en la plaza de toros)の発生などにより、次第に民衆の間でも反ロハス感情が強まった。また、ロハスは労働者保護に努める中で、次第に自由党、保守党から離れてアルゼンチンのフアン・ペロンのような独自の支持基盤を労働者に持とうとしたため、支配階級も反ロハス感情を抱いた。反ロハス勢力が結集し、1957年にロハスは辞任に追いやられた。コロンビア軍事政権(スペイン語版)(1957年 - 1958年)。

    「国民戦線」体制

    1958年、支配層はロハス政権の教訓として、自由党と保守党の特権を侵しかねない政権の発生を恐れ、両党による「国民戦線(スペイン語版、英語版)」体制(1958年 - 1974年)が成立した。これは両党間で4年毎に政権を交替するという「たらいまわし」連立政策であり、これに反対する自由党系農民の蜂起が相次いだ。キューバ革命(1953年 - 1959年)の影響を受けて、1961年にアメリカ合衆国のケネディ大統領主導によって進歩のための同盟が発足、コロンビアは同盟のモデル国家となったが、社会問題の根本的解決には至らなかった。同年、国家人民同盟(スペイン語版、英語版)(ANAPO)が発足。

    コロンビア内戦

    1964年からゲリラ活動は活発化し(コロンビア内戦)、1966年にはコロンビア革命軍 (FARC) が発足した。1968年にメデジン公会議で解放の神学が誕生した。1970年の選挙でANAPO党から出馬した、ロハスが不正選挙で負けると、学生を中心とした左翼ゲリラ4月19日運動 (m - 19) が生まれた。

     
    首都ボゴタは南米有数の世界都市である。

    1974年、「国民戦線」体制が終結し、通常選挙が執り行われアルフォンソ・ロペス・ミケルセンが大統領に就任。さらに1978年の選挙では自由党のフリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ大統領が現職のロペスを破り、新大統領に就任した[1]。トゥルバイ大統領は、反政府運動の高まりに対し戒厳令を布告して弾圧を加えた結果、多くの活動家が秘密警察による拉致や拷問を受け、その多くが失踪した。

    1982年に就任した保守党のベリサリオ・ベタンクール・クァルタス(英語版)大統領はFARCなど左翼ゲリラ勢力と和平を実現し、1985年にはFARCが合法政党である愛国同盟(英語版) (UP)を創設したが、議員や関係者が次々に暗殺され、1994年には政党資格を喪失した。また85年には左翼ゲリラm - 19によるコロンビア最高裁占拠事件、ネバド・デル・ルイス火山の噴火(死者・行方不明者25000人以上)など災難が相次ぎ、ベタンクール大統領は「社会・経済非常事態宣言」を発令した。1986年に就任した自由党のビルヒリオ・バルコ・ヴァルガス(英語版)大統領により、1989年メデジン・カルテルとの大規模ゲリラ戦闘「麻薬カルテル戦争(英語版)」(プラン・コロンビア(スペイン語版、英語版)、麻薬戦争)が勃発し、大統領選挙中の8月18日にルイス・カルロス・ガラン・サルミエントが暗殺された。麻薬カルテルの本拠地がメデジンからカリに移った。1990年、大統領に就任した自由党のセサル・ガビリア・トルヒージョは野党を含む挙国一致内閣を組閣し、1991年に1886年憲法が全面改正され、施行された。

    政治腐敗

    1994年に就任した自由党のエルネスト・サンペール・ピサノ大統領が選挙期間中にカリ・カルテルから選挙資金を受け取っていたことが発覚し、「ナルコ・ゲート事件(スペイン語版、英語版)」(西: Proceso 8.000)に発展した。議会はサンペールを弾劾する構えを見せ、アメリカ合衆国連邦政府もサンペールに入国ビザの発給を拒否するなど外交問題に発展した。1998年に就任した保守党のアンドレス・パストラーナ・アランゴ大統領は、対米関係重視の政策をとり、翌1999年1月にはFARCとの和平対話を開始するも、2002年初頭のFARCによるテロを受け、和平プロセスを中止。同夏、自由党系の新政党「プリメーロ・コロンビア(スペイン語版)」から就任したアルバロ・ウリベ大統領は治安回復を重点課題とし、2006年5月、ウリベは大統領に再選した。同年、アルバロ・ウリベ大統領の「パラポリティカ・スキャンダル(スペイン語版、英語版)」(西: Parapolítica)が発覚。2008年、3月1日に国境のプトゥマヨ川を越えたエクアドル領内でコロンビア革命軍(FARC)掃討作戦を実施、ラウル・レジェス他23名がコロンビア空軍の空爆で殺害された。エクアドル大統領ラファエル・コレアは領空侵犯として抗議(アンデス危機)。同年4月にウリベ大統領の「イディスポリティカ・スキャンダル(スペイン語版、英語版)」(西: Yidispolítica)が発覚した。2010年6月には大統領選挙でウリベ政権下で国防大臣を務めたフアン・マヌエル・サントスが当選し、同年8月7日に大統領に就任した。2010年7月下旬にはボゴタの南方の町マカレナで2000体余りの虐殺されたと思われる遺体が発見された[2]。

    現在、コロンビアの治安は良くなってきているが、やはり郊外や、観光地が少ない地域に行くとゲリラの集団が活動している場合がある。

    左翼ゲリラ(FARC)との和平交渉

    コロンビア最大の左翼ゲリラであるコロンビア革命軍(FARC)は最盛期に約2万人の勢力を有したが、ウリベ政権期の対ゲリラ強硬策が奏功し、その勢力は2015年末時点で約6,000人までに減少している。

    ウリベ大統領の後継として、2010年に大統領に選出され、2014年に再選されたサントス大統領はウリベ大統領の強硬策から大幅に路線転換し、2012年末からコロンビア革命軍(FARC)とキューバの首都ハバナで和平交渉を開始した。和平交渉自体は、紛争が継続したまま開始されており、FARCは度々一方的停戦を宣言し、双方向停戦を呼び掛けているが、実際には衝突は散発的に起きており、政府側は双方向停戦に応じていない。2015年9月にサントス大統領は、2016年3月23日を期限として和平最終合意に署名することを発表したが、期日までに最終合意には至らず、交渉が継続されている。

    期日までに合意されなかったことから世論の批判も高まっており、サントス大統領の支持率も低下した。

    2016年8月24日、コロンビア政府とFARCは共同声明で50年以上にわたる内戦の終結に合意したと発表した。9月26日にカルタヘナで署名式典を行った。10月2日の国民投票において和平合意は否決されるが、政府は和平合意の修正協議を行い、11月、新たな和平合意をFARCとの間で署名し、国会で承認された(なお、新和平合意について国民投票は実施されなかった)。和平合意成立後は,合意の実施フェーズに移行し、2017年9月にはFARCの武装放棄プロセスが終了した。また、サントス大統領は、2017年2月に国民解放軍(ELN)との和平交渉も正式に開始した。ノルウェー・ノーベル委員会は、サントス大統領による内戦の終結に導く努力を認め、2016年10月7日にノーベル平和賞を送ると発表した[3]。

    だが、このような左翼ゲリラとの和解は反発を呼び込み、大統領選では再び強硬派で極右とも言われるイバン・ドゥケが大統領選挙で当選した。再び和平合意の遵守は暗礁に乗り上げとの報道もされた[4]。その後一部の左翼ゲリラの元幹部が、再び武装闘争を行うとの動きもあるが、主流派は和平合意を順守としており政権も、分離派に対する武力掃討作戦を展開しつつ和平合意自体は尊重しており、大きな混乱は生じていない。

    ^ 見えない内戦の傷跡 大統領訪問を歓迎 豊富な商品、物価も平静『朝日新聞』1978年(昭和53年)7月18日朝刊、13版、7面 ^ http://www.asahi.com/international/update/0807/TKY201008070193.html ^ “The Nobel Peace Prize 2016” (English). Nobel Foundation. 2016年10月7日閲覧。 ^ “コロンビア「ノーベル賞の和平」暗雲 大統領に見直し派”. 朝日新聞. (2018年6月19日). https://www.asahi.com/articles/ASL6L43V0L6LUHBI00Y.html 2019年1月27日閲覧。 
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