のコンテキスト フィリピン

フィリピン共和国
Republika ng Pilipinas(タガログ語)
Republic of the Philippines(英語)
国の標語:Maka-Diyos, Maka-Tao, Makakalikasan at Makabansa
(タガログ語: 神、国民、自然、国への愛情のために)
国歌:Lupang Hinirang(タガログ語)
最愛の地

フィリピン共和国(フィリピンきょうわこく、タガログ語: Republika ng Pilipinas、英: Republic of the Philippines)、通称フィリピンは、東南アジアに位置する立憲共和制国家。7641の島々がある島国であり、そのうち有人島に暮らす総人口は1億人を超える。首都はルソン島にあるマニラ市またはマニラ首都圏。

最大の都市はルソン島では人口が一位で旧首都のケソン市、ビサヤ諸島では大都市のセブ市、ミンダナオ島では面積が大きいダバオ市である。

詳細について フィリピン

基本情報
  • 通貨 フィリピン・ペソ
  • 呼び出しコード +63
  • インターネットドメイン .ph
  • Mains voltage 220V/60Hz
  • Democracy index 6.56
Population, Area & Driving side
  • 人口 109035343
  • 領域 343448
  • 駆動側 right
履歴
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    フィリピンの歴史 Philippine History Collage.jpg 
    この記事はシリーズの一部です。 フィリピン ポータル
    · · 先史時代
     
    タガログ人の男女

    フィリピンの歴史は多様な民族によって織りなされてきた。フィリピン諸島で最も古い民族は25,000~30,000年前に移住してきたネグリト族。次に新石器文化を持った原始マレー。この後が、棚田水田農耕を持った古マレーである。

    更新世中期の遺跡として、ルソン島北部のカガヤン渓谷にあるリワン遺跡が発見されている。そこからエレファス(古代象)、ステゴドン(ステゴドン象)、ライノセラス(古代サイ)などの絶滅種の動物化石が出土し、他の出土品ではチョッパー(片面礫器)、チョッピング・トゥール(両面礫器)、フレーク・トゥール(剥片石器)など多量に発見されている。カガヤン渓谷では「カガヤン原人」の骨化石を求めて発掘作業が行われている[1]。

    古代

    紀元前500年~紀元13世紀の間にマレー系民族が移住してきた。900年頃の日付が記録されているラグナ銅版碑文(英語版)などによれば、当時既にカウィ文字(英語版)やバイバイン文字など複数の文化を受容出来る成熟した都市国家を形成していたことが明らかにされている。

    イスラームの流入

    14世紀後半にイスラム教が広まった。中国大陸(明)や東南アジアとの交易で栄えたが、7000を超える諸島である現在のフィリピンに相当する地域に統一国家は形成されていなかった。

    スペイン植民地時代
     
    スペイン植民地支配に抗したフィリピンの国民的英雄ホセ・リサール

    大航海時代以降、ヨーロッパ列強は東南アジア各地を植民地化した。スペイン艦隊は太平洋を横断して東方からフィリピン諸島に到来。1521年、ポルトガル人の航海者マガリャンイス(マゼラン)が率いるスペイン艦隊が、ヨーロッパ人として初めてフィリピンのホモンホン島に到達した。マガリャンイスはこの後、マクタン島を攻めたが首長ラプ=ラプらに敗れ戦死した。1494年にスペインとポルトガルが結んだトルデシリャス条約でブラジルを除く新大陸(インディアス)がスペイン領有とし、1529年のサラゴサ条約でフィリピン諸島をスペイン領有とした。スペインはフィリピンをアジア進出の拠点とした。やがてスペインなどの航海者が来航するようになり、1565年にはスペイン副王領ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)を出航した征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(初代総督)がセブ島を領有したのを皮切りに19世紀末までスペインのフィリピン支配が始まった。徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を植民地首府とし、フィリピン諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。これ以降、約250年間、マニラとメキシコ太平洋岸(アカプルコ)をつなぐガレオン貿易が続いた。

    1762年に、一時的にマニラがイギリス軍に占領されたが、1763年にパリ条約が結ばれ再びスペインの管轄下に戻った。18世紀になってスペインは南部への侵攻を開始したものの、西南ミンダナオ島、スールー諸島、南パラワン島では、スールー王国をはじめとするイスラム勢力の抵抗に遭い、最後まで征服できなかった。

    スペイン統治下で、メキシコやペルー、ボリビアから輸入した銀や、東南アジア各地や中国(清)の産物をラテンアメリカに運ぶ拠点としてガレオン貿易が盛んに行われた。フィリピンではマニラ・ガレオンと呼ばれるフィリピン製の大型帆船が多数建造され、メキシコのアカプルコとアジアを結んでいた。

    ヌエバ・エスパーニャ副王領の一部となった植民地時代に、スペイン人は海外進出の目的の一つであったローマ・カトリックの布教を進めた。スペイン人は支配下のラテンアメリカと同様にフィリピンでも輸出農産物を生産するプランテーションの開発により領民を労役に使う大地主たちが地位を確立し、民衆の多くはその労働者となった。

    支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されたが、いずれも規模が小さく局地的であり、容易に鎮圧されてしまった。独立運動が本格的になるのは、19世紀末、フィリピン独立の父とされるホセ・リサールの活躍によるところが大きい。リサールは、1896年12月30日に銃殺された。1898年、米西戦争勃発により、アメリカ合衆国はエミリオ・アギナルド[2]らの独立運動を利用するため支援した。ただこれは、後に判明するように、アメリカがスペインからフィリピンを奪って自国の植民地にすることが目的だった。

    1899年6月12日、初代大統領エミリオ・アギナルドの下、独立宣言がなされ、フィリピン第一共和国が成立した。フィリピン革命は、普通1896年8月から1899年1月までを指す。

    なお、征服者レガスピの1567年の書簡に、当時既に日本人がミンドロ島やルソン島へ毎年交易に来訪していたことが記されており、日比の交流はスペインが占領する以前からあったことがわかっている[3]。

    第一共和国と植民地時代
     
    米比戦争を描いたアメリカ合衆国の絵画『パセオの戦い』

    米西戦争の最中に独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカ合衆国に譲渡された。1899年1月21日にフィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。5月18日にサンボアンガ共和国(英語版)サンボアンゲーニョ(英語版)によって建国された。

    フィリピン共和国の建国を承認しないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したものの、米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺され、抵抗運動は武力鎮圧された。1901年にアギナルドが米軍に逮捕されて第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けることとなった。1903年にサンボアンガ共和国も崩壊したが、モロの反乱(英語版)は1913年まで続いた。フィリピン史では、1899年2月から1902年7月までをフィリピン・アメリカ戦争期として位置づけている[4]。

    その後、フィリピン議会議員マニュエル・ケソンの尽力で、アメリカ合衆国議会は1916年にジョーンズ法で自治を認めフィリピン自治領が成立した。1920年代にRCAが広域無線局を設置、ここを中継地点として香港経由で中国と交信した。1929年に世界恐慌が発生すると無課税でアメリカ本土に移入されていたフィリピンの砂糖がアメリカ本土の甜菜糖やキューバ糖に打撃を与え、アメリカの資産家で破産するものが続出した。そのためフィリピン糖排撃の声が高まり、関税を課すことを目的にフィリピン独立が叫ばれるようになった[5]。1934年にアメリカ議会はフーバー大統領の反対を押し切り[5]、タイディングス・マクダフィー法で10年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾したことで、フィリピン自治領からフィリピン・コモンウェルスに移行した。一方でアメリカはフィリピンにアメリカへの依存貿易を続けさせるなどの利権を確保し続けた[6]。

    第二次世界大戦と独立
     
    マニラに向けて進撃する日本軍戦車隊(1942年1月)

    1941年12月に始まった太平洋戦争劈頭、日本軍は南方作戦の一環として米領フィリピンに進攻し、アメリカ合衆国陸軍を駆逐してマニラに入城した。在フィリピン司令官だったダグラス・マッカーサーはオーストラリアへと脱出し、日本陸軍は1942年の上半期中にバターン半島やコレヒドール島に追い詰められた米比軍を降伏させ、フィリピン全土を占領した。

    アメリカは1935年にはフィリピンの独立を約束していたので、日本も1943年5月の御前会議でフィリピン(フィリピン行政委員会)とビルマを独立させた[7]。1943年10月14日、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が成立した。しかしアメリカは日本の傀儡政権であるとしこれを認めなかった[8][9]。その後ラウレルは日本との協力関係を築きフィリピン政府の運営を進めた。日本の敗戦が濃厚になると1944年12月8日に親日義勇隊のマカピリが設立されベニグノ・ラモスなどが参加し、戦闘に加わった[10]。また、アメリカの援助を受けて結成された反日ゲリラ組織のユサフェ・ゲリラと共産系のフクバラハップが各地で抗日ゲリラ戦争を行った。

    1944年9月21日、22日、アメリカ軍機によりマニラ市内が激しい空爆にさらされると、同月23日、ラウレル政権はアメリカとイギリスに対して宣戦布告を行った[11]。 しかし同年末に米軍が反攻上陸、フィリピン・コモンウェルスが再び権力を握った。第二次世界大戦によって110万人のフィリピン人が犠牲となり[12]、マニラに20棟あった16世紀から17世紀にかけて建立されたバロック様式の教会は、アメリカ軍の攻撃により2つを残して破壊された。

    再独立
     
    第三次フィリピン共和国がアメリカ合衆国より独立(1946年7月4日)

    1945年の日本敗戦に伴い、独立を失いアメリカの植民地に戻ることを余儀なくされることとなったが、1946年のマニラ条約で、フィリピン・コモンウェルスの組織を引き継ぎ、戦前から約束されていたフィリピン第三共和国が再独立した。

    冷戦下では地主支配(アシエンダ)打倒を訴える共産系のフクバラハップが勢力を拡大し、ルソン島ではゲリラ戦争が続いたが、1950年代中に共産ゲリラはアメリカからの全面的な支援を受けたラモン・マグサイサイの手によって一度壊滅した。その後、親米政権によって農地改革が行われたものの、実効性には乏しいものとなった。

    マルコス独裁
     
    フェルディナンド・マルコスとイメルダ夫人(1984年10月20日)

    1965年より反共産主義を唱えるフェルディナンド・マルコス大統領がマルコス独裁国家(英語版)体制を築いた。アメリカ合衆国からの支持を得たマルコス政権は、20年に渡る開発独裁政権となり、イメルダ・マルコス大統領夫人をはじめとする取り巻きによって、私物化され腐敗した政権に対して、中華人民共和国やソビエト連邦からの支援を受けたモロ民族解放戦線や再建共産党の新人民軍(NPA)による武装蜂起が発生した[要出典]。

    エドゥサ革命

    民衆の不満が高まったため、1986年2月22日に起きた「エドゥサ革命」(二月革命、ピープル・パワー革命)でマルコス政権は崩壊し、現在のフィリピン第四共和国体制が成立した。この革命は同年2月22日の国軍改革派将校の決起から25日のコリーアキノ政権樹立に至る4日間の出来事であった。民主化を求める市民が、マニラ首都圏の中心部でデモや集会、座り込みや兵士に花束を渡す行動を起こした。その模様をリアルタイムで、多くのテレビカメラの放列が世界中に生放送した。これらマスメディアの報道が心理的圧力となり、フィリピン共和国軍は市民に銃を発砲出来無かった[13]。

    マルコスとイメルダはアメリカ合衆国ハワイ州に亡命した[14]。新人民軍による三井物産マニラ支店長誘拐事件(1986年11月15日 - 1987年3月31日)が発生。

    第二次世界大戦後の冷戦期間中のフィリピンは、同じく西側諸国に属すこととなった日本と同様に、極東アジアにおけるアメリカの重要な拠点となり、米軍に基地を提供していたが、1990年代初頭の冷戦終結を受けた米軍のアジア駐留軍縮小、およびピナトゥボ山の噴火に伴う基地機能の低下、フィリピン国内のナショナリズムの高揚、フィリピン共和国憲法改正により、在比米軍は軍備を沖縄に集約し、フィリピンから撤退した。

    フィリピン紛争
     
    噴火するピナトゥボ山(1991年6月12日)

    フィリピンの共産主義勢力フクバラハップは、第二次世界大戦中に日本軍と戦い、日本軍の撤退後もアメリカ軍と独立後のフィリピン政府軍と戦闘を続けたが、1954年までにマグサイサイ指揮下のフィリピン政府軍に制圧された。1969年、毛沢東主義による革命と体制変革をめざすフィリピン共産党 (CPP)(再建共産党)は新人民軍(NPA New Peoples Army)を結成し、フィリピン政府軍に対する武装闘争を開始した。NPAは、ルソン島を中心にフィリピン全国に展開し、フィリピンの軍隊・警察・インフラ・企業に対する武力攻撃を繰り返し、フィリピン政府軍はNPAの武力攻撃に対して掃討戦を継続しているが、海外のテロ支援国家の支援を受けるNPAを完全制圧することは難しく、2013年時点、武力行使は継続中である。

    ミンダナオ地区にイスラム教による自治区を作ることを目的としたモロ民族解放戦線 (MNLF Moro National Liberation Front) は、1970年にフィリピン政府軍に対して武装闘争を開始し、MNLFと政府軍の武力紛争は1996年まで継続した。1996年、MNLFはフィリピン政府との和平協定を締結して武装闘争を終結し、フィリピン政府はミンダナオ地区にMNLFのイスラム教による自治を受け入れ、その後はミンダナオ・イスラム自治区の与党として活動している。しかし2013年9月、後述するMILF主導の和平交渉への反発から、再び政府軍と衝突した[15]。

    モロ・イスラム解放戦線 (MILF Moro Islamic Liberation Front) は、モロ国民解放戦線 (MNLF) がフィリピン政府と和平協定を締結しようと方針転換したことに反対し、フィリピン政府軍との武力闘争を継続するために、1981年にMNLFから分離独立し、フィリピン政府軍に対して武装闘争を継続した。1997年、MILFはフィリピン政府と停戦協定を締結したが、その協定は2000年にエストラーダ政権により破棄された。2003年、MILFはアロヨ政権と停戦協定を締結したが、2005年にMILFは停戦協定を破棄してフィリピン政府軍に対する武力攻撃を再開。2012年10月、政府との間で和平枠組み合意に至る[16]。

    アブ・サヤフ・グループ(Abu Sayyaf Group)は、フィリピンのミンダナオ島、スールー諸島、ボルネオ島およびインドネシア、マレーシア、タイ、ミャンマーなどの東南アジア地域にイスラム教で統治する国家の設立を目ざして、1990年にフィリピン政府に対して武装闘争を開始した。アブ・サヤフ・グループは、フィリピン政府軍および一般市民に対して爆弾攻撃、暗殺、誘拐・監禁、身代金要求を繰り返し、2000年以後は活動地域をマレーシア、インドネシアへも拡大し、2013年時点、武力闘争を継続中である。

    アジア通貨危機以降

    フィリピン経済に転機が訪れたのは、1990年代後半だった。1997年にアジア通貨危機が発生すると、そのあおりを受けてペソ暴落に見舞われたが、経済がバブル状態ではなかったので、財政破綻したタイ、一時期国家崩壊の危機に陥ったインドネシア、国家破綻しかけた韓国などに比べると回復は早く、国際通貨基金(IMF)の管理下になることを免れた。

    フィリピンの経常収支は1000万人に及ぶ海外在住労働者の送金によって支えられており、出稼ぎ、特に看護師はフィリピンの有力な産業と言ってもよい[17]。主要な貿易相手国はアメリカと日本であるが、近年は距離的にも近い中華人民共和国や中華民国(台湾)、大韓民国との貿易も増えている。

    東南アジアではベトナム・インドネシアと共にNEXT11の一角にも数えられており、今後も経済発展が期待できる新興国の一つに数えられている。

    また、長年の懸案であった、ミンダナオ島を活動拠点とする南部の武装ムスリム勢力に対しては、MILF(モロ・イスラム解放戦線)との和解交渉が成立するなどの進展が見られた。ミンダナオ島にも、アメリカなどからの直接投資も入り始めている。一方、ISILへの支持を明確化したアブ・サヤフの活動が活発化。2017年5月、フィリピン軍は、ミンダナオ島マラウィ市にてアブ・サヤフと市街戦になった[18]。

    2018年7月26日、ロドリゴ・ドゥテルテ大統領はムスリムによる自治政府樹立を認める「バンサモロ基本法」に署名[19]。翌年の住民投票の結果、従来のイスラム教徒ミンダナオ自治地域よりも強い自治権を有するバンサモロ自治地域が発足した。

    2020年以降、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大に伴い、海外へ赴く出稼ぎ者やフィリピンに来訪する観光客の出入国が難しくなった。さらに2021年8月から10月にはマニラを中心に感染拡大を防止するためにロックダウンも行われ、国内の経済は大きなダメージを受けた[20][21]。 2022年初頭、感染者数が減少傾向を見せたタイミングで入国制限の緩和が行われ、同年3月末の時点で海外からの観光客の予約件数は、2019年の72%のレベルまで回復する傾向を見せた[22]。

    ^ 青柳洋治「ルーツ」エリア・スタディーズ(2009):22 ^ 彼は中国系の血をひき、マニラ南西の町長だった。(レイナルド・C・イレート/寺田勇文訳「フィリピン革命」エリア・スタディーズ(2009):34 ^ 伊川健二「聖ペドロ・バウティスタと織豊期の日西関係」『待兼山論叢. 文化動態論篇』44巻 2010年 pp.25-46, NAID AA12381574, 大阪大学大学院文学研究科 ^ 永野善子「アメリカ時代」エリア・スタディーズ(2009):43 ^ a b 南方:99 ^ 南方:100 ^ 森武麿『日本の歴史 アジア・太平洋戦争』(集英社)p.250 ^ 水田政憲『ひと目でわかる「GHQの日本人洗脳計画」の真実』p.46 ^ 森武麿『日本の歴史 アジア・太平洋戦争』(集英社)pp.250‐251 ^ 佐藤守『大東亜戦争は昭和50年4月30日に終結した』p.122 ^ ラウレル政権、米英に宣戦布告(昭和19年9月24日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』(毎日コミュニケーションズ刊 1994年)p.710 ^ 日本と比米との激しい戦闘で全土が焦土と化し、およそ111万人以上の犠牲者と60億ドル(1950年価格)にのぼる物的損害を出した。(中野聡「日本占領期」エリア・スタディーズ(2009):50 ^ 清水展「二月革命」エリア・スタディーズ(2009):177 ^ オアフ島の小高い丘の中腹に建つ敷地面積約500坪の豪邸で一家が亡命生活を送った。既に腎臓病などが悪化し3年半後の1989年9月死亡した。72歳であった。(大野卓司「イルメダとコリー」エリア・スタディーズ(2009):181) ^ “比政府軍、「武装勢力ほぼ制圧」 ミンダナオ島衝突”. AFPBB (2013年9月30日). 2013年10月18日閲覧。 ^ “モロ・イスラム解放戦線”. 世界のテロ組織等の概要・動向. 公安調査庁. 2013年10月18日閲覧。[リンク切れ] ^ 二村泰弘 (2005年5月6日). “貧困と海外就労│フィリピンの事例から” (日本語). アジア経済研究所 (日本貿易振興機構). オリジナルの2016年2月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160228081849/http://www.ide.go.jp/Japanese/Serial/Poverty/200506/07.html 2016年5月1日閲覧。  ^ 「フィリピン南部で市街戦、比海兵隊員13人死亡 米特殊部隊が支援」AFP(2017年6月11日)2017年6月15日閲覧 ^ “イスラム自治政府樹立へ、バンサモロ基本法が成立”. JETRO (2018年7月30日). 2018年8月19日閲覧。 ^ “フィリピン首都圏に最強レベルの封鎖措置、デルタ型抑制目指す”. ロイター (2021年8月2日). 2022年4月16日閲覧。 ^ “マニラ首都圏、10月15日まで新型コロナ対策「アラート・レベル4」継続”. JETRO (2021年10月5日). 2022年4月16日閲覧。 ^ “アングル:持ち直し始めた東南アジア観光業、各国で「温度差」”. ロイター (2022年4月16日). 2022年4月16日閲覧。
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