別府温泉

別府温泉(べっぷおんせん)は、大分県別府市内各地に数百ある温泉の総称。広義には別府温泉郷ともいい、特に古くから由来のある八つの温泉地は別府八湯(べっぷはっとう、1996年(平成8年)8月8日選定)と呼ばれている。狭義には広義の別府温泉(別府八湯)を構成する温泉のうちの別府市中心部にある温泉街(歴史的には北浜温泉)をいう(「#別府温泉」参照)。温泉都市として知られる別府は、源泉数、湧出量ともに日本一。

 別府駅開業記念式典(1911年) 紅丸(1912年就航) 地球物理学研究所本館
(現・京都大学大学院理学研究科附属地球熱学研究施設本部、1923年竣工) 「瀬戸内海の女王」くれない丸(現・ロイヤルウイング) 郊外には温泉付きマンションが林立するようになった(2008年) 別府駅周辺(2010年) ソルパセオ銀座商店街。近年は飲食店の集積が進み再活性化、「platform」も立地する。 国際的な会議も開催される「ビーコンプラザ」と「グローバルタワー」神話や開湯伝説と温泉街の形成

現代の別府市にあたる豊後国速見郡の鶴見岳山麓に温泉が湧くことは古代より広く知られていたが、鶴見岳の活発な噴火活動で荒地や沼地になっており、整備されていなかった。『豊後国風土記』や『万葉集』には、現在の柴石温泉の血の池地獄にあたる「赤湯の泉」や、鉄輪温泉の地獄地帯にあたる「玖倍理(くべり)湯の井」等についての記載がある。瀬戸内海を挟んで向かい合う伊予国(現代の愛媛県)について記した『伊予国風土記』逸文には、大国主命が鶴見山麓から湧く「速見の湯」を海底に管を通して道後温泉へと導き、少彦名命の病を癒したという神話が載る。771年(宝亀2年)に創祀されたとされる火男火売神社は、鶴見岳の2つの山頂を火之加具土命ひのかぐつちのみこと、火焼速女命ひやきはやめのみことの男女二柱の神として祀っており、別府八湯の守り神として信仰を集めている。

柴石温泉は平安時代、別府温泉と鉄輪温泉は鎌倉時代には湯治場として利用されていた。浜脇温泉は八幡朝見神社の門前町として栄え、鎌倉中期には大友頼泰が日名子太郎左衛門尉清元を温泉奉行とし、朝見川、永石川、流川沿いなどに湧出する温泉が整備されていた。流川の近くにあった楠温泉には元寇の役の戦傷者が保養に来た記録が残っている。鉄輪温泉は一遍が開いたと伝わる(「開湯伝説#一遍」参照)。

江戸時代には明礬温泉で明礬の生産が始まり、街道沿いの観海寺温泉や堀田温泉や亀川温泉が整備され、瀬戸内海沿岸各地から湯治舟が集まった。特に浜脇温泉と別府温泉は温泉番付では必ず上位に登場するなど、次第にそれぞれの温泉周辺に温泉街が形成され、庶民の湯治が一般的となった。これらの温泉街では湯治生活の必需品として炊事に用いる笊などの竹細工や、櫛などの柘植細工が盛んとなって現在も生産が続いており、工芸品としても発達した別府竹細工は国の伝統的工芸品にも指定されている。

山は富士 海は瀬戸内 湯は別府

明治時代に入り、別府では1882年(明治15年)に荒金猪六が「湯突き」と呼ばれる温泉掘削技術を導入し、自然湧出に依存していた温泉源を人為的に開発できるようになった[1]。

交通では、1871年(明治4年)に県令の松方正義によって別府港の整備が完成していた[1]。1873年(明治6年)には大阪開商社によって大阪航路が開かれ蒸気船「益丸」(18t)が就航し、2年後には他社の「満珠丸」「金刀比羅丸」「安全丸」「大西丸」「凌波丸」も就航して、大阪と別府を結ぶ瀬戸内航路は競争時代を迎えた[1]。

1900年(明治33年)5月には、九州初で日本で5番目の開業となる路面電車「別大線」が走り、またその運行の為に日本で2番目となる火力発電所が設置され、その電力で街灯も整備されると別府の中心部流川界隈は夜も不夜城の賑わい[注釈 1]を見せるようになる。1911年(明治44年)7月16日には別府駅が開業、1912年(明治45年)5月には観光開発を目的とした大阪商船の1000トン級客船「紅丸」くれないまるが阪神・別府航路に就航し、柳原白蓮ゆかりの赤銅御殿、麻生別荘など財界の大物の別荘も多く建てられるようになった。

次第に発展を見せた別府には、駅と港の周辺に商店、劇場、芝居小屋が立ち並ぶ歓楽街が形成されたり、高温の温泉が噴出する地獄が観光施設として整備されたり、少女歌劇を売りにした鶴見園や当時珍しいケーブルカー(別府ラクテンチケーブル線)が話題を呼んだ別府遊園(現・ラクテンチ)といった遊園地なども作られたりした。一方で、海・陸軍の病院(現・国立病院機構別府医療センター、国立病院機構西別府病院)や、九州大学の温泉治療学研究所と付属病院(現・九州大学病院別府病院)、京都大学地球物理学教室附属地球物理学研究所(現・京都大学大学院理学研究科附属地球熱学研究施設)など、豊富な温泉資源を医療や科学に活かす施設も次々に建てられた。

そして、別府観光の父油屋熊八の登場により別府温泉の名は全国へと広まった。当時流行の鳥瞰絵師吉田初三郎[注釈 2]を重用し、温泉マークや「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」というキャッチコピーを用いた別府温泉の宣伝手法は熊八のアイデアである。さらに、1928年(昭和3年)1月には別府地獄めぐり遊覧バスを運行し全国初の女性バスガイドの案内でまわる地獄めぐりは大人気となった。この頃、別府を舞台に大きな博覧会が催され、1928年(昭和3年)4月に開催された中外産業博覧会や、1937年(昭和12年)3月に開催された別府国際温泉観光大博覧会も多くの入場者を集めた。

ヘレン・ケラー、フランスの詩人ポール・クローデル、ピアニストのアルフレッド・コルトーといった欧米著名人も来訪した[3]。

また、1929年(昭和4年)から1940年(昭和15年)までの間、旧日本海軍の連合艦隊が度々入港した。1933年(昭和8年)の記録では、2月9日に「鳥海」「摩耶」「高雄」「愛宕」など1万トン級の最新鋭重巡洋艦を中心とする第二艦隊29隻が、さらに2月21日には第一艦隊旗艦の「戦艦「陸奥」」以下35隻が別府湾に停泊し、沖合にずらりと並んだ艦船から上陸してくる延べ何万人もの将兵で別府の街は海軍一色となった。

高度経済成長と観光ブームの到来

太平洋戦争で戦災に遭うこと無く終戦を迎えた別府には戦後、進駐軍が駐留。占領終了後の高度経済成長期には新婚旅行や修学旅行などで最盛期を迎えた。1950年(昭和25年)には、国際観光文化都市の第1号として国際観光温泉文化都市に指定され、1957年(昭和32年)には別府温泉観光産業大博覧会が開催されると、別府競輪場や別府タワー、鶴見岳の別府ロープウェイ、九州横断道路(やまなみハイウェイ)が開業するなど観光施設の開発も相次ぎ、宿泊施設も急激に増大していった。当時、大阪との間を結ぶ瀬戸内航路は最盛期を迎え、1960年(昭和35年)には「瀬戸内海の女王」とも呼ばれたくれない丸が就航したのをはじめ、3000トン級クルーズ客船が、最大時6隻体制で新婚旅行客などを別府へと運んだ。

鉄輪、明礬、柴石の各温泉は、1985年(昭和60年)3月19日に国民保養温泉地に指定されるが、別府の観光客は1976年(昭和51年)をピークに既に減少に転じており、1980年代までは1200万人前後で推移したものの、1990年代のバブル崩壊後には1000万人台にまで落ち込んだ。観光客減少の原因としては、国内各地でのテーマパーク開園や海外旅行の一般化等の国民の余興と娯楽の多様化、団体旅行から個人旅行への変化等が挙げられている[4]。

しかしながら、これだけの多様な温泉群が密集する地区は全国的にも珍しく、平成になって韓国などの日本国外からの利用客が増加した[注釈 3][注釈 4]。さらに、人口10万人あたりの留学生数が日本一の大分県の中でも、立命館アジア太平洋大学などを抱える別府市は特に留学生が多く[7]、アジアのみならずヨーロッパやアフリカ各地からの留学生も、別府特有の共同温泉を中心とした地域コミュニティにも積極的に溶け込んで生活している。そしてこのような国際都市としてのメリットを活かして、欧米からの外国人個人旅行者の受け入れを本格化する取り組みを進めている[8]。

温泉資源活用の歴史

江戸時代、幕府の専売品である明礬(湯の花)の生産をほぼ独占的に行っていた別府では、1923年(大正12年)に大分県と別府町の援助で京都大学が地球物理学研究所を設置。1925年(大正14年)には日本で最初の地熱発電が行われ、戦後になっても温泉資源の活用に多角的に取り組んできた。1952年(昭和27年)4月に設立された大分県温泉熱利用農業研究所(現・花き研究所)では、野菜・花きの温泉熱利用による栽培、育種の研究が行われ、その他にも温泉による魚の養殖や、杉乃井ホテルでは消費電力の約半分を敷地内の地熱発電で賄っている。

最近では別府の多彩な泉質の源泉から取れる色とりどりの温泉泥の利用を、大分大学医学部、広島大学、日本文理大学、パドヴァ大学(イタリア)、大分県産業科学技術センターなどが共同で研究し、温泉泥美容ファンゴティカ[9]が開発されるなどしている。

医療分野においては、1912年(明治45年)には陸軍病院が、1925年(大正14年)には海軍病院が開院して温泉療法の実践が始まると、1931年(昭和6年)には九州大学の温泉治療学研究所(現在の九州大学病院別府病院)が設置され、温泉治療の研究が行われてきた。また太平洋戦争後は原子爆弾被爆者別府温泉療養研究所が開設され、被爆者援護においても温泉療法の研究が行われた。

このように別府において温泉資源の利活用が広範囲に及ぶようになったのは、明治期の上総掘りによる源泉掘削「湯突き」の発達によるところが大きい。明治12年(1879年)頃にこの技術が導入された結果[10][11][12]、明治9年(1876年)には全て自然湧出であった泉源が、明治44年(1911年)には、自然湧出泉が17ヶ所であったのに対し、掘削泉は76ヶ所となった[13]。温泉都市となった現在、市内には各町内ごとに住民がお金を出し合って設けた共同温泉が数百あるといわれており、自家源泉を持っている個人宅も少なくない。今では上総掘りから掘削機械に置き換わっているが、現在も複数の温泉供給会社が源泉数、湧出量ともに日本一の別府温泉を支えている。

別府八湯の再活性化

別府温泉では1996年(平成8年)8月8日8時8分8秒に有志が「別府八湯独立宣言」を発表し、それぞれの温泉の魅力の発信に取り組んだ結果、「別府八湯」の名が広く知られるようになった[14]。近年では、行政による老朽化していた市営温泉のリニューアルや街並み整備などの一方、別府アルゲリッチ音楽祭、別府八湯温泉道、別府八湯温泉泊覧会(オンパク)など地域の活性化を図るため、資源や人材を活用した新しい模索や試みも行われている。特に、オンパク的地域活性化の手法は、全国の同じような悩みを持つ観光地へと輸出され、各地で成果を上げつつある。

そんな中、2008年(平成20年)7月9日付で『別府市中心市街地活性化基本計画』が内閣総理大臣の認定を受けたことで、別府温泉(北浜)界隈では、空き店舗を改装した交流施設「platform」がいくつか整備され、一部には別府竹細工の職人工房(platform 07)、セレクトショップ(platform 04)などの観光交流拠点が誕生している。さらに、これらの「platform」をメイン会場に、2009年(平成21年)4月11日から6月14日までの間にトリエンナーレ形式で第1回の別府現代芸術フェスティバル 混浴温泉世界が開催されている。

温泉都市として発達し、戦災も免れた別府には、永瀬狂三設計の京都大学地球物理学研究所(現・京都大学大学院理学研究科附属地球熱学研究施設)本館や、吉田鉄郎設計の別府市公会堂、別府郵便局電話事務室(現・別府市児童館)など、良質な近代建築が今も残っている。観光ボランティアガイドが別府八湯の各エリアの街の魅力を紹介しながら案内する別府八湯ウォークが12コースあり、コースによっては毎日まち歩きツアーが開催されているものもある。

別府観光の歴史を伝える絵葉書、ポスター、レコードなど約2万点の資料が私設博物館「平野資料館」に所蔵されている[3]。

また、1995年(平成7年)にコンベンション施設ビーコンプラザを整備している別府は国際会議観光都市の認定も受けており、2007年(平成19年)12月には第1回アジア太平洋水サミットが、2010年(平成22年)8月には 2010年日本APECの成長戦略ハイレベル会合が開催された。

^ a b c “第8章 温泉観光の過去と現在”. 別府市. 2021年6月4日閲覧。 ^ 別府温泉御遊覧の志おり「日本第一の温泉別府亀の井ホテル御案内」 地図の資料館 ^ a b 平野芳弘:別府文化に浸る資料館◇明治以降の2万点収集、観光振興のヒントに◇『日本経済新聞』朝刊2020年1月31日(文化面)2020年9月12日閲覧 ^ 「文化的景観 別府の湯けむり景観保存計画」 第2部 文化的景観の調査報告 第8章 温泉観光の過去と現在 (PDF) 、別府市 ^ 「ウォン安で韓国人観光客急減 頭抱える別府温泉は対策会議」J-CASTニュース(2008年10月24日)2020年9月12日閲覧 ^ “宿泊代ウォンでOK 全国初別府でスタート”. 2011年6月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年5月30日閲覧。『大分合同新聞』2009年1月29日 ^ “【別府新聞】留学生数、最大の3588人に”. 2010年4月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年9月4日閲覧。『大分合同新聞』2010年3月24日 ^ “別府への外国人旅行者 受け入れ態勢充実へ”. 2010年1月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年9月4日閲覧。『大分合同新聞』2009年12月11日 ^ まちづくりと中心市街地活性化の情報サイトまちづくりQ&A「地域資源を生かした持続的な観光まちづくり」~オンパクで地域資源を商品に、そして産業に~鶴田浩一郎(PART2)[リンク切れ]街元気(経済産業省) ^ 由佐悠紀. “上総掘り”. 別府温泉事典. 別府温泉地球博物館. 2018年5月23日閲覧。 ^ 由佐悠紀. “最初の掘削”. 別府温泉事典. 別府温泉地球博物館. 2018年5月23日閲覧。 ^ “温泉掘削「別府式」技術や歴史知って 市教委が冊子発行”. 『大分合同新聞』. (2018年5月22日). http://www.oita-press.co.jp/1010000000/2018/05/22/JD0056928016 2018年5月23日閲覧。  ^ 段上達雄「第5章 温泉・湯けむりの民俗学的概要 第1節 別府温泉と上総掘り」『文化的景観 別府の湯けむり景観保存計画』別府市。https://www.city.beppu.oita.jp/pdf/gakusyuu/bunkazai/yukemuri_keikan/02_05.pdf2018年5月23日閲覧  ^ 宝守り育てるため 受け継がれる志(上)『大分合同新聞』2016年8月7日[リンク切れ]


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