厳島(いつくしま)は、広島県廿日市市宮島町にある島。瀬戸内海西部、広島湾の北西部に位置する。通称は安芸の宮島(あきのみやじま)、または宮島

厳島神社に関連する文献史料については豊富な研究・考察の実績がある一方、厳島という島そのものの歴史・民俗史については依然として未解明の部分も多い。

先史時代

本州に人が住み始めた旧石器時代には、厳島を含む瀬戸内海の島々にも人々が続々と渡った。厳島北岸の下室浜で後期旧石器時代のものとみられるナイフ形石器が採集されている[1]。広島大学による考古学的調査(2004年〈平成16年〉)では島北西岸の大川浦をはじめ下室浜・御床浦・須屋浦などの大野瀬戸に面した海岸一帯から、縄文から弥生時代の土器や石器が数多く発見されている[2]ほか、多々良潟、大江浦、大元園地など島全域で縄文・弥生期の出土例がある。

厳島は縄文海進がピークに達した頃に独立した島になったとみられる。それ以前の遺物として赤石[2]や大川浦[3]において縄文草創期の有茎尖頭器や槍先型尖頭器が採集されているほか、上室浜[4]や大川浦、御床浦[2]において縄文早期の鍬形鏃や押型文土器が出土していることからも、陸続きだった頃から厳島地域で人々が生活していたものとみられる。

弥山山頂一帯に見られる巨石群は磐座とみられる。磐座を祭祀対象とする山岳信仰の開始は一般に古墳時代以降とされる[5]。上述の厳島沿岸部の縄文遺跡および同時期の遺跡である地御前南町遺跡[6]など対岸の縄文遺跡からも祭祀に関わる明瞭な遺物は確認されていない[* 1]。郷土史家の木本泉はこれを縄文時代の祭祀遺跡と主張するが資料的裏付けに欠ける。弥山中腹からは古墳時代末以降の祭祀遺跡が発見されており、弥山に対する山岳信仰はこの頃始まったものと考えられている。

古代・中古

上述の上室浜や下室浜などから古墳時代後期の製塩土器が見つかっている[7][2]ほか、大川浦や須屋浦からは奈良-平安時代の焼塩土器が数多く採集されており[2][3]、盛んに塩作りが行われていた事が窺える。大川浦からは10世紀から12世紀のものとみられる「瑞花双鳥八稜鏡」が採集され、古瀬清秀(広島大学大学院)らは古代祭祀の場である可能性を指摘している[3]。下室浜からも、古墳時代の祭祀に用いられたとみられる滑石製勾玉が採集されている[1][8]。

弥山北側尾根上の標高270-280メートル地点にある岩塊群周辺の山中から、古墳時代末から奈良時代にかけての須恵器や土師器、瑪瑙製勾玉、鉄鏃などの祭祀遺物が採集されており、山頂から麓の斎場に神を招き降ろす祭祀が行なわれた磐座に比定する説がある[9]。弥山の本堂付近からは奈良~平安時代頃の緑釉陶器や仏鉢などが出土した。弥山水精寺(大聖院の前身)は従来鎌倉時代に対岸から移設したとされていたが、より古い時代に創建された可能性がある[10]。

平安時代には「恩賀(おんが)の島」と呼ばれた歌枕の地でもあり、以下の和歌が伝わる。恩賀の名は「神の御香が深い」ことに由来する。

入り海(いりうみ)の 二十浦(はたうら)かけて十島(としま)なる 中(なか)に香(か)深(ふか)き島(しま)は七浦(ななうら)  ── 小野篁
恩賀島(たぐひなきしま)の姿(すがた)は自(おの)ずから 蓬の山(よもぎのやま)も此処(ここ)にありけり  ── 在原業平

伝承では推古天皇元年(西暦換算〈以下同様〉:593年)、豪族佐伯鞍職がイチキシマヒメの神託によって厳島神社が創建されたと伝えられる。佐伯氏は佐伯直の出で伴造として安芸国佐伯郡を管掌しており、後に厳島神主家となった。文献上の初出は弘仁2年(811年)に名神に預かったという記事であり、『延喜式神名帳』(平安中期)において名神大社に列せられた。

厳島神社が現在の威容を構築したのは平氏一門の後ろ盾を得た平安時代末期である。

 『平家納経』 厳島神社所蔵

久安2年(1146年)、安芸守に任ぜられた平清盛は、父・平忠盛の事業を受け継いで高野山大塔の再建をすすめていたが、保元6年(1156年)の落慶法要に際し、高野山の高僧に「厳島神社を厚く信奉して社殿を整えれば、必ずや位階を極めるであろう」と進言を受ける。平治の乱で源頼朝が捕らえられ、清盛は正三位に列せられると、さっそく厳島神社を寝殿造の様式に造営した。海上に浮かぶ現在の壮麗な様式は、仁治2年(1241年)の造営による(現在の本社社殿は元亀2年〈1571年〉、毛利元就の再建によるもの)[11]。さらに四天王寺から舞楽を移し入れ、また多くの甲冑や刀剣などの美術工芸品を奉納したが、中でも特筆されるのが絢爛豪華な装飾を施した平家納経(国宝)である。また社領も対岸の佐伯郡などに加増されていった。

清盛の大きな狙いは日宋貿易にあった。父・忠盛は舶来品を院に進呈して朝廷の信を得ており、清盛は一層の貿易拡大を図っていた。博多の湊(日本最初の人工港)や大輪田泊(平氏政権の拠点・摂津国福原の外港。現在の神戸港の一部)を開いて自ら瀬戸内海航路を掌握し、「厳島大明神」は畿内へと通じる航路の守護神ともいえる重要性をもつようになった。呉市の倉橋島と本州の間にある音戸の瀬戸は、清盛が「扇で夕日を招き返し」て、開削を1日で終わらせたという伝説が残されているが、このときの航路整備に関連するものである。

清盛の庇護によって京の雅な文化が移入され、後白河上皇・高倉上皇・建春門院・建礼門院ら皇族や貴族が多く社参する一方、上述した貿易航路開拓により、宋の文物ももたらされた。清盛は宋船による厳島参詣も行っている。

1990~1991年に発掘調査が行われた菩提院遺跡(宮島町中西町、現宮島歴史民俗資料館収蔵庫)は、12世紀後半の土層から屋敷跡とみられる遺構や土器片が出土したことから、神社維持管理の為に清盛の造営と同時期に建てられた施設跡と考えられている[12]。この頃には島をご神体とする信仰が広がっており、祭祀のために滞在する神職や貴族がいた他は島に住む者はいなかった。[要出典]

厳島神社の北西約300メートルの地点にある経尾経塚(清盛塚)からは、1944年(昭和19年)に開墾された際に銅製経筒と陶製甕の外容器、経巻、青白磁合子、古鏡、刀片、青磁片などの遺物が出土したほか、研究者による踏査でも青白磁合子や白磁小壺、中世須恵器甕などの破片が採集されており、12世紀前半以降に埋納された経塚とみられている[13][14]。

中世

1185年の壇ノ浦の戦いをもって平氏が滅んだのち、鎌倉時代に入ると、厳島神社ははじめ源氏の崇敬を受けたが、政情が不安定になる中で徐々に衰退する。神主家を世襲していた佐伯氏は、承久3年(1221年)の承久の乱で後鳥羽上皇側に属したために争いの後に神主家の座を奪われ、代わって御家人の藤原親実が厳島神主家となった。厳島神社は承元元年(1207年)と貞応2年(1223年)に火災に遭っており、朝廷の寄進も受けて一応の再建はされたものの、戦国時代にかけては荒廃した時代であったと伝えられる。そうした中でも参詣者は絶えず、例えば出家して旅路にあった後深草院二条は乾元元年(1302年)に厳島を訪れ、秋の大法会がきらびやかであったことを「とはずがたり」に書き留めている。

正安2年(1300年)に水精寺の座主坊が対岸の地御前神社(厳島神社の境外摂社)から厳島島内に移されると、厳島神社の社人や供僧が島に定住するようになった。これによって町屋が形成され、厳島の発展がすすんだ。天文7年(1538年)には厳島大願寺の僧尊海が、一切経(高麗八万大蔵経)を求めて朝鮮半島に渡っている。尊海は大蔵経を持ち帰ることはできなかったが、持ち帰った八曲屏風「瀟湘八景図」の裏面に漢文による紀行文「尊海渡海日記」(大願寺所有、国の重要文化財[15])を遺している。これは日本最古の朝鮮紀行記録として知られるとともに、仮名書きで記した朝鮮語の語彙は中期朝鮮語研究の貴重な史料となっている[16]。

戦国時代に入ると、安芸を本拠に勢力を伸ばしていた毛利氏と、衰退しつつこそあったものの周防・長門を領有していた大内氏が対立し、安芸・周防国境はその最前線となる。厳島は周防から安芸への水運の要衝とみなされた。弘治元年(1555年)、毛利元就は厳島を舞台に、大内氏の実権をにぎる陶晴賢を討ち、戦国大名としての躍進のきっかけとなった(厳島の戦いを参照)。以後毛利氏は中国地方10か国に加え豊前・伊予をも領有する西国随一の大大名に成長していくが、もともと厳島神社を崇敬していた元就は神の島を戦場にしたことを恥じ、戦後はこの島の保護・復興につとめた。現在の厳島神社の基盤は、元就の社殿大修理(元亀2年〈1571年〉)によるところも大きい。

 「藝備義兵防長攻逆勢圖」玉蘭斎貞秀画 千畳閣

天正15年(1587年)、すでに関白太政大臣となっていた豊臣秀吉は、多くの戦で亡くなった者の供養のため、厳島に大経堂を建立するよう政僧・安国寺恵瓊に命じる。建築に際して、柱や梁には非常に太い木材を用い、屋根に金箔瓦を葺くなど、秀吉好みの大規模・豪華絢爛な構造物を企図していたことが窺える。秀吉の死により工事が中断されたため、御神座の上以外は天井が張られておらず、板壁もない未完成の形で今日に伝えられている。本堂は非常に広く、畳が857畳敷けることから「千畳閣」と通称され、明治初期の廃仏毀釈の際には厳島神社末社豊国神社本殿となり現在に至る。

西暦1595年(日本は文禄4年)に現ベルギーのアントウェルペン(アントワープ。当時はスペイン領南ネーデルラント)で刊行された、ヨーロッパ最初の日本地図とされる「テイセラの日本図」[17]には、厳島がItoqulchimaとして記されている。この地図には令制国名といくつかの港町・大きな島名程度しか書かれておらず、厳島が重要視されていたことがうかがえる。

考古学的には、町内での建設工事に伴う発掘調査により、前述の菩提院遺跡や、祝師(ものもうし)屋敷跡などから中世から近世にかけての遺物が数多く出土している[18]。

近世  誓真釣井

江戸時代、厳島は広島藩に4か所ある町制(広島城下・三原城下・尾道・厳島)の一つとして直轄地とされ、宮島奉行のもと商業や廻船業が保護された。実質的に島を支配していたのは厳島神社・大聖院・大願寺の3寺社および宮島奉行で、厳島神社は島内および安芸国の寺社を統括する棚守に、大聖院は島内の供僧の統括に、大願寺は寺社の造営修理の統括に位置づけられた。宮島奉行とともに宮島元締役・宮島帳元がおかれ、厳島は神社を中心とした観光地として発展した。厳島を描いた当時の絵図でも参道に並ぶ店々が描かれており、そのにぎわいぶりが窺える。

厳島では平清盛以来舞楽の伝統があったところへ、毛利元就が永禄6年(1563年)に能を奉納したのを皮切りに観世太夫が演じる(永禄11年〈1568年〉)など芸能が発展した。歌舞伎や大相撲の興行も盛んで、井原西鶴の『浮世草子』には西国三大芝居どころとして金比羅・備中宮内(吉備津神社)と並び称されている。富くじも盛んに催された。

参拝客や文化人相手の観光商売が水もので、島に産業がないことを町衆が嘆いているのを知った宮島光明院の僧誓真は、弁財天の琵琶に着想を得てしゃもじを名物として売り出すことを町衆に教えた。願掛けの文字を入れたしゃもじ(杓子)はたちまち土産品として人気が出た。現在でもしゃもじの別名を「みやじま」と呼んで、高校野球では広島県代表がしゃもじで応援するのが定番となるほど定着している。誓真は水不足に悩む町衆のために井戸を掘ったり(「誓真釣井」)、小舟を着けられるよう雁木を造ったりと厳島のために尽くし、「宮島の大恩人」として慕われた。光明院の近くには「誓真大徳碑」が今も残っている。

幕末

尊皇攘夷・公武合体を掲げる長州藩と徳川幕府の対立が頂点に達し、長州征討において厳島対岸も戦場となった。慶応2年8月(1866年9月頃[* 2])、第二次長州征討の停戦会談が厳島・大願寺において行われた。幕府方代表は勝海舟、長州藩代表は広沢真臣と井上馨。桂小五郎(木戸孝允)も加わっている。勝海舟の自著『氷川清話』に、厳島の旅館で勝が毎日髪を結い直させていたというくだりがある。勝が「おれの首はいつ切られるかしれないよって、死に恥をかかないためにこうするのだ。」と言うと、髪結いの老婆はすっかり怖がってしまったという。

近代  『日本三景之内安芸厳島之図』楊洲周延画 明治元年(1868年)

慶応4年3月13日から明治元年10月18日(1868年の4月5日から12月1日)にかけて神仏分離令が発布されると、民衆を巻き込んだ廃仏毀釈運動が激化し、厳島の寺院は主要な7ヶ寺を除いてすべて廃寺となった。厳島神社や千畳閣などに安置されていた仏像等も寺院へ移されたり、一部が失われるなどしている。

1876年(明治8年)、老朽化していた海上の厳島神社の大鳥居が建て替えられた。現存しているのはこの時の大鳥居である。

初代内閣総理大臣・伊藤博文は厳島の弥山三鬼大権現を厚く信奉しており、厳島をたびたび訪れている。三鬼堂や大願寺の掲額は、伊藤の直筆によるものである。また、大願寺境内には「伊藤博文お手植えの松」が9本残されている。なお、「宮島みやげ」としてのみならず、広島県を代表する土産菓子となったもみじ饅頭の起源について、「伊藤博文が厳島を訪れた際に島の茶屋の娘をからかった逸話を基に発案された」という説が広く流布している。詳しくは別項「もみじ饅頭」を参照のこと。

島の東沖合いにある江田島に海軍兵学校が設けられたことから、神の島・厳島は兵学校生徒の尊崇も受けた。兵学校の訓練の一環として、弥山登山や遠泳も行われており、海軍の幹部にとっては思い入れのある島であるとともに、「神聖な島」というイメージが天皇への絶対的な忠誠という意識を喚起させていたことも、当時の日記などから読み取ることができる。

 厳島神社大鳥居 1900年ごろ

1889年(明治22年)、佐伯郡で町村制が施行され、厳島では全島を区域とする厳島町(宮島町の前身)が発足する。

1897年(明治30年)8月、広島湾要塞の一翼を担う鷹ノ巣低砲台が島内に着工。翌1898年(明治31年)、鷹ノ巣高砲台を着工。砲台そのものは1926年(大正15年)に廃止[19]されたが、砲座や観測所などの遺構群が現存する。

1923年(大正12年)、厳島は国の史跡名勝に指定され、以後、近代的な保護・整備体制が充実していく。

 厳島神社とその周辺 1930年代ごろ

第二次世界大戦中には、厳島の南沖合いの柱島沖が聯合艦隊の泊地となり(柱島泊地)、海軍工廠を持つ呉市や、第2総軍・陸軍第5師団司令部が置かれた重要拠点・広島市の防衛上、周辺海域は重要さを増していた。

1936年(昭和11年)、日独合作映画『新しき土』の撮影が行われた。

1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下では、爆風によって島内の民家の窓ガラスが割れるなどの被害を受けた。

現代

日本の敗戦と共に、厳島は連合国軍・GHQに接収された。占領後の1954年(昭和29年)には、新婚旅行代わりの日本訪問中のマリリン・モンローとジョー・ディマジオの夫妻が厳島を訪問している。

1950年(昭和25年)には、厳島全体が瀬戸内海国立公園の追加指定区域になった。また、同年、厳島町が「宮島町」に改称した。1952年(昭和27年)には、厳島神社社殿の「昭和大修理」が竣工する。1959年(昭和34年)には広島県立水産資源研究所(現・宮島水族館)がオープンした。

1960年代から1970年代にかけて、厳島周辺の海域の水質悪化はピークを迎えた。海上保安庁は、直径30㎝の白い円盤を海に沈めて透明度を測定していたが、1969年の厳島付近の調査ではわずか20cmで円盤が見えなくなるという、日本屈指の汚染状態となっていた。汚染源は、工場排水やし尿投棄によるものであった[20]。

1991年(平成3年)9月27日に襲来した台風19号では、厳島神社左楽房(国宝の附指定)や能舞台(重要文化財)が倒壊するなど甚大な被害が出た。

1996年(平成8年)には、厳島神社がユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。日本の世界遺産としても日本の世界文化遺産しても6件目の物件であった。同年に原爆ドームも(5件目として)登録されている。

 2016年G7広島外務大臣会合の際の厳島神社訪問

台風による被害は2004年(平成16年)の台風18号も大きなもので、厳島神社左楽房・能舞台・平舞台・高舞台・祓殿・長橋・廻廊などが倒壊・浸水した。この頃には、厳島周辺で海水面の上昇が著しく、ややまとまった雨量程度でも浸水の被害が出るようになってきたことが指摘され始めており、大潮のたびに激しく洗われて地盤から危うくなり始めたヴェネツィア(イタリア)などと同じく地球温暖化による悪影響の分かりやすい実例と捉えられ、その意味でも注目を集めるようになった。

2005年(平成17年)11月3日、宮島町は大野町とともに廿日市市に編入される。これに伴い、厳島神社の住所(社務所所在地住所)は「佐伯郡宮島町1-1」から「廿日市市宮島町1-1」に変わった。

2016年(平成28年)のG7伊勢志摩サミット(第42回先進国首脳会議)に伴う広島外務大臣会合の際は、初日にG7の外務大臣が揃って厳島神社を訪問した。

2023年(令和5年)、G7広島サミット(第49回先進国首脳会議)においては、各国首脳が厳島神社を訪れ、その後「岩惣」に移動してセッション3「外交・安全保障」をワーキングディナー形式で実施した。

^ a b 荒木亮司・三枝健二「宮島町下室浜遺跡のナイフ形石器」『研究紀要』第5集(2005) 広島県立歴史民俗資料館 ^ a b c d e 古瀬清秀, 加藤徹, 今井千佳子「厳島における考古学的踏査とその検討(1)」『内海文化研究紀要』第34号、広島大学文学部附属内海文化研究施設、2006年、1-22頁、ISSN 03863182、CRID 1520853833797331200。  ^ a b c 古瀬清秀, 加藤徹, 竹広文明, 脇山佳奈, 荒木亮司「厳島における考古学的踏査とその検討(2) : 大川浦遺跡に関する考古学的検討」『内海文化研究紀要』第35巻、広島大学大学院文学研究科附属内海文化研究施設、2007年3月、1-54頁、doi:10.15027/25393、ISSN 03863182、CRID 1390290699831241984。  ^ 中越利夫「大野瀬戸周辺の遺跡・遺物(2)-宮島町上室浜遺跡採集の石鏃について」『内海文化研究紀要』第24号(1995) 広島大学文学部内海文化研究施設 ^ 時枝務『山岳霊場の考古学的研究』 株式会社雄山閣 2018 ^ 河瀬正利「広島県佐伯郡廿日市町地御前南遺跡出土の遺物について」『広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室年報VII』(1984) 広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室 ^ 中越利夫「大野瀬戸周辺の遺跡・遺物(1)」『内海文化研究紀要』第23号(1994) 広島大学文学部内海文化研究施設 ^ 荒木亮司「下室浜採集の遺物について」『宮島自然植物実験所ニュースレター』第6号(2005) 広島大学大学院理学研究科付属宮島自然植物実験所 ^ 妹尾周三「安芸、厳島における新発見の祭祀遺跡 : 弥山の中腹で発見された岩塊群の検討」『Museum』第639号、東京国立博物館、2012年、5-21頁、ISSN 00274003、CRID 1522262180723700736。  ^ 妹尾周三「安芸厳島(伊都岐島)弥山水精寺の創建について」『佛教藝術』第304号(2009) 毎日新聞社 ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝 28(厳島神社)』(朝日新聞社、1997)、pp.2, 231 ^ 『菩提院遺跡発掘調査報告 - 宮島町立歴史民俗資料館収蔵庫建設に伴う発掘調査の記録』(2005) 宮島町教育委員会 ^ 『台風被災復興支援 厳島神社国宝展』(2005) 奈良国立博物館 ^ 村上勇・西尾克己「中国地域の経塚出土陶磁-貿易陶磁の出土状況と様相について-」『貿易陶磁研究 第24号』(2004) 日本貿易陶磁研究会 ^ 国指定文化財等データベース:紙本墨書尊海渡海日記文化庁.2020年9月24日閲覧 ^ 辻星児 (2007). “『尊海渡海日記』に記された朝鮮語について”. 文化共生学研究 (岡山大学院文化科学研究科) 5 (1): 71-84. doi:10.18926/10976. http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/metadata/10976 2023年6月19日閲覧。.  ^ “テイセラ日本図”. 愛知学院大学. 2020年9月24日閲覧。 “正確には、アブラハム・オルテリウスがテイセラの原図を基に「世界の舞台」1595年版に収録したもの。” ^ 『祝師屋敷跡発掘調査報告書』(1995) 祝師屋敷跡地内埋蔵文化財発掘調査団 ^ 土木学会『日本の近代土木遺産』2005年版p220-221(土木学会出版) ^ 「広がる海の公害 特にひどい宮島 汚染、四年前の十倍」『中國新聞』昭和45年1月4日 15面


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