厳島神社(いつくしまじんじゃ、公式表記:嚴島神社)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。

古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。

平成8年(1996年)12月にユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている。

創建

社伝では、推古天皇元年(593年)、当地方の有力豪族・佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に市杵島姫命を祀る社殿を創建したことが始まりとされる。「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとする説がある。

厳島神社の鎮座する厳島(宮島)は「神に斎く(いつく = 仕える)島」という語源[* 1]のように、古代から島そのものが神として信仰されたと考えられている。厳島中央の弥山(標高535m)山頂には巨石が連なっており、山岳信仰の対象であったとされる。

概史

文献での初出は、弘仁2年(811年)に名神に預かったという記事である。平安時代中期の『延喜式神名帳』では「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」と記載されて名神大社に列したほか、安芸国一宮とされた。その頃には神職は佐伯氏が掌握した。この社格が昇っていく過程で祭神が整備されていったと考えられており、祭神の市杵島姫命が明記されるのは『一宮記』以降になる。

 平清盛肖像 神仏習合時代の「厳島女」(七面天女)。葛飾為斎・画

平安時代末期、神主・佐伯景弘と当時の安芸守・平清盛の結びつきを契機に平家一族から崇敬を受けた。仁安3年(1168年)頃、平清盛が社殿を造営し現在と同程度の大規模な社殿が整えられた[* 2]。平家一門の隆盛とともに厳島神社も栄えて平家の氏神となった。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けるが、建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の火災で建物の全てを焼失している。そのため、現在残る社殿は仁治年間(1240年-1243年)以降に造営されたものである。

厳島は神の住む島として禁足地とされ、鎌倉時代頃までは地御前神社(外宮)において主な祭祀が行われていた。鎌倉時代末期から南北朝時代以降、社人・僧侶が禁を破って住むようになったとされる[1]。

戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢は徐々に衰退する。毛利元就が弘治元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収めて厳島を含む一帯を支配下に置き、厳島神社を崇敬するようになると再び隆盛した。元就は大掛かりな社殿修復を行なった。また、豊臣秀吉も九州遠征の途上で厳島神社に参拝し、大経堂(現:千畳閣)の造営を行なっている。

江戸時代には厳島詣が民衆に広まり、門前町や周囲は多くの参拝者で賑わった。

明治維新後、明治新政府が派遣した大参事によって社殿が「仏式」と判断され、神仏分離の原則によって社殿の焼却が命じられた(廃仏毀釈)。厳島神社の棚守(宮司に相当)が東京の明治新政府に直訴したことによって社殿の焼却は免れたものの、仏教的と考えられた社殿の彩色がすべて剥がし落とされて「白木造」に改められ、千木と鰹木が新設されるなどの「復古」が行われた。また大経堂(千畳閣)は内陣の木鼻を切り落とし、仏像などを撤去したうえで末社「豊国神社」に改めるなど、社殿の損壊と分離が行われ、大聖院(旧別当寺)、大願寺といった寺院が独立した。

明治4年(1871年)近代社格制度において国幣中社に列し、明治44年(1911年)に官幣中社に昇格した。明治末に社殿が国宝に指定されたことを機に、廃仏毀釈で破壊された部分が明治末の大修理と大正の修理で復旧され、千木と鰹木も撤去された(このため、明治時代の厳島神社の写真にのみ千木と鰹木が写っている)。

神階 弘仁2年(811年)7月17日、名神に預かる (『日本後紀』)- 表記は「伊都岐島神」、文献上の初見。 天安3年(859年)1月27日、正五位下から従四位下 (『日本三代実録』)- 表記は「伊都岐島神」。 貞観9年(867年)10月13日、従四位上 (『日本三代実録』)- 表記は「伊都岐島神」。神職  神紋「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」

厳島神主家参照。飛鳥時代に厳島神社を創建したとされる佐伯鞍職に始まり、文献に記載のない期間を経て平安時代以降は代々佐伯氏が世襲したことが分かっている。平安時代末期には佐伯景弘が平家一門と結んで繁栄を見せた。

鎌倉時代に入り承久の乱では後鳥羽上皇側として活動したため、佐伯氏は神主家当主の座を降り藤原親実が新たな厳島神主家となった。その後の佐伯氏は厳島神社の神官として活動する。瑞渓周鳳の『臥雲日件録』1465年(寛正6年)6月18日条に「日本所謂三大宮司、盖厳島・熱田・富士之三所也」とあり、厳島神社の大宮司は熱田大宮司・富士大宮司と共に日本三大宮司に数えられている[2]。

以後、藤原氏が戦国時代に滅亡するまで神主家を務めた。藤原氏滅亡後は佐伯氏が復権し現在に至っている。

近年の自然災害

社殿は海の上に建てられているため、台風・高潮の影響・被害を受けるのは宿命的であり、床の木材の隙間を空けて敷くなどの対策を取っているが、それでも大型の台風が直撃した際には倒壊などの被害を受けることがある。しかし、そのたびに大規模な修復を行っており、修復することを前提に建てられた社殿であるといえる。

平成3年(1991年)、台風19号 - 重要文化財の「能舞台」が倒壊。桧皮葺の屋根も大きな被害。 平成11年(1999年)、台風18号 - 国宝の「神社」及び「社殿」が大きな被害。 平成16年(2004年)、台風18号 - 国宝附指定の「左楽房」が倒壊。桧皮葺の屋根も被害。 平成24年(2012年)4月3日 - 暴風で大鳥居の檜皮屋を覆う銅板に被害。


引用エラー: 「*」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="*"/> タグが見つかりません

^ 『広島県の地名』佐伯郡宮島町 厳島神社項。 ^ 東京大学史料編纂所『大日本古記録 臥雲日件録抜尤』岩波書店、1961年、161頁。 
写真提供者:
JordyMeow - CC BY-SA 3.0
Zones
Statistics: Position
128
Statistics: Rank
381969

コメントを追加

この質問はあなたが人間の訪問者であるかどうかをテストし、自動化されたスパム送信を防ぐためのものです。

セキュリティー
563849127このシーケンスをクリックまたはタップします: 5121

Google street view

どこの近くで寝れますか 厳島神社 ?

Booking.com
489.802 総訪問数, 9.196 興味がある点, 404 保存先, 53 今日の訪問.