Spišský hrad

( スピシュスキー城 )

スピシュ城("スピシュの城"、スロバキア語:Spišský hrad)は、東部スロバキアのプレショフ県レヴォチャ郡スピシュスケー・ポドフラジエ市(Spišské Podhradie、スピシュの城下)郊外にある城。現在は廃墟であるが、中欧でも大きな城の一つである。タイトルは「スピシュスキー城」となっているが、Spišský hradとは「スピシュ(の)城」という意味であり、誤った表記である。

スピシュ城は、スラヴ人の城があった場所に12世紀に建てられた。旧スピシュ県(現・プレショフ県およびコシツェ県の一部)の経済・行政・政治・文化の中心地であった。1464年以前は名目上ハンガリー王国が所有し、のちサポヤイ家(ザーポリスキー家、1464年-1528年)、トゥルゾー家(1531年-1635年)、ツサースキー家(1638年-1945年)が所有し、1945年にチェコスロバキア政府が接収。1993年以降はスロバキア政府の国有地である。

15世紀初頭にハンガリー王国が深刻な財政危機に陥った際、北の隣国ポーランド王国がスピシュ県一帯の諸都市を担保として1412年にルボフラ条約に基づき大量の資金をハンガリーに緊急融資し、完済されるまでスピシュ県はポーランド王国の管理下となったが、スピシュ城はハンガリー王の所有物として残された。

ポーランド王国管理下の諸都市は、塩坑の開発による岩塩の生産と、東西陸上貿易を行う商業の発展で栄えた。ポーランド王国による行政と経済の権益は18世紀まで続いたが、1772年の第1次ポーランド分割によって債権者であったポーランド王国がオーストリアにこの一帯の土地を割譲させられ、1773年にポーランドがこの債権を強制的に放棄させられることで消滅した。

城は当初、ロマネスク建築の要塞化された石城で、2階建てのロマネスク様式宮殿と3つの本堂のあるロマネスク=ゴシック建築の聖堂が13世紀半ばに一帯に建てられた。2番目の城壁外居住地は14世紀に建てられ、城一帯は二重となった。15世紀に城は完全に再建されている。城壁は高くされ3番目の城外居住地が建設された。後期ゴシック様式礼拝堂は1470年頃付け足された。サポヤイ家は後期ゴシック様式に変え、上階を過ごしやすい家族の住居とし、16世紀と17世紀の典型的な後期ルネサンス様式の住居にした。

最後の所有者ツサースキー家は、生活の不便さから18世紀初頭に城から転居し、城の南東麓の集落であるスピシュ県(現・コシツェ県)スピシュスカー・ノヴァー・ヴェス郡ジェフラ村や西方約10kmのレヴォチャ郡スピシュスキー・フルホフ村に新たな邸宅を建てそこへ移り住んだ。のち1780年に城は火災に遭い、それ以降廃墟と化した。

写真提供者:
Petr Kratochvil - CC0
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