София

( ソフィア (ブルガリア) )

ソフィア(ブルガリア語: София 発音 [ˈsɔfijɐ] ( 音声ファイル) ラテン文字表記:Sofiya、英語: Sofia)は、ブルガリアの首都。ヴィトシャ山のふもとに位置し、ブルガリアの政治・経済・文化・教育の中心地である。2008年の人口は1,346,665人である。北緯42度42分、東経23度20分。

ヨーロッパ最古の都市の一つであり、セルディカ (Serdica)、スレデツ (Sredets)、トリアディツァ (Triaditsa) と呼ばれた。その歴史は7千年以上に及ぶとされる。先史時代の(prehistoric)集落跡が現在のソフィアの中心や王宮の付近、オベリャ (Обеля)、スラティナ (Слатина) などで見つかっている。トラキア人が最も重要視していた、鉱泉の周囲に町を築いた紀元前7世紀にさかのぼる城壁は良いコンディションで保存されている。鉱泉は現在も湧水がある。時代の変遷とともに幾つかの異なる名前で呼ばれてきたソフィアの数千年にわたる歴史の痕跡は、今日でもその一部を見ることができる。

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2020年12月
古代  聖ゲオルギ聖堂(英語版) はバルカン半島で最古のキリスト教聖堂であり、4世紀にさかのぼる ソフィアはローマ帝国時代からキリスト教の一大拠点であった

ソフィアはかつてはトラキア人の集落であり、セルディカ (Serdica) またはサルディカ (Sardica) と呼ばれていた。おそらくこの呼称はトラキア人の部族セルディ (Serdi) に由来するものと考えられる。紀元前500年ごろ、別の部族オドリュシ (Odrysi) がこの地域に居住していた。彼らは独自の王国(オドリュサイ王国)を持った部族として知られる。紀元前4世紀の短い間、町はピリッポス2世とその息子アレクサンドロス大王によって支配された。

紀元前29年、セルディカは古代ローマによって征服された。町は地域の中核とされ、トラヤヌス帝(98年-117年)の時代にウルピア・セルディカ (Ulpia Serdica) と改称された。

セルディカについて言及した最古の文献は紀元前100年頃のクラウディオス・プトレマイオスによるものであると見られる。

セルディカは拡大し、やぐら、防壁、公衆浴場、役所、礼拝所、公共のバシリカ、アンフィテアトルム、裁判所、会同、劇場などが建造された。ディオクレティアヌスがダキアをダキア・リペンシス(Dacia Ripensis、ドナウ川沿い)とダキア・メディテラネア(英語版)に分割した際、セルディカはダキア・メディテラネアの首都とされた。町はその後1世紀半にわたって拡大を続け、政治・経済の中心地となった。町はキリスト教を公式の宗教として受け入れた最初の町の一つとなった(ガレリウス帝による)。そのため、コンスタンティヌス1世がセルディカを「我がローマ」と呼んだことはとても自然なことであろう。

セルディカはそれほど大きくはなかったものの、その都市設計の計画と建築は壮麗であり、多くの娯楽と活発で社会的な生活があった。東ローマ帝国のユスティニアヌス1世の時代には繁栄を謳歌した。この時のセルディカは巨大な城壁に囲まれており、その一部は現在も見られる。

町は447年にフン族によって破壊されたものの、ユスティニアヌスによって復興され、一時期トリアディツァ (Triaditsa) と呼ばれた。

中世  ボヤナ教会は第二次ブルガリア帝国の時代の最も重要な建築物の一つ 13世紀にボヤナ教会を増築したカロヤンの妻デシスラヴァのフレスコ画

ソフィアは、809年のクルム・ハーンの時代に、長期にわたるセルディカ攻城戦(英語版)の後に初めて第一次ブルガリア帝国の一部となった[1]。その後、町はスラヴ語でスレデツ (Средец / Sredets) と呼ばれるようになった。町は重要な要塞と政治の拠点となった。ヨハネス1世ツィミスケスの時代の971年にブルガリア北東部が陥落すると、ブルガリアの大主教ダミアン (Damyan) はソフィアをその主教座とした。幾度にも及んだ攻城戦が失敗に終わると、町は1018年に東ローマ帝国の手に落ちたが、イヴァン・アセン1世の時代に再度第二次ブルガリア帝国によって再征服された。12世紀から14世紀にかけて、ソフィアは交易と工芸の拠点となった。

オスマン帝国  ソフィア近郊を進軍するオスマン帝国軍(18世紀)

ヴワディスワフ3世による1443年のソフィアへの進軍が終わってからは、町のキリスト教徒の指導者らは抹殺され、オスマン帝国のルメリア州の州都となり、その後4世紀以上にわたってオスマン帝国の支配が続いた。町にはトルコ人が住むようになった。16世紀にソフィアの都市設計と外観はオスマン様式となり、多くのモスク、泉、ハマムが設けられた。この間、町の人口は7千人から、17世紀中期には5万5千人に膨れ上がった。

町はブルガリア人の反乱者 (haiduk) によって1599年に数週間にわたって包囲された。1610年、カトリック教会はルメリアのカトリック教徒のためのソフィア管区を設置し、1715年にカトリック教徒の大半が流出するまで維持された[2]。16世紀には126世帯のユダヤ人の世帯があり、967年からソフィアにはシナゴーグがある。

オスマン帝国時代の終焉  19世紀のソフィア

ソフィアは露土戦争のさなかの1878年1月4日にロシア帝国によって征服され、1879年には新たに誕生した自治公国であるブルガリア公国の首都となった。ソフィアはマリン・ドリノフ(英語版)によって首都候補として提案され、1879年4月3日に認められた。解放されたときの人口は11,649人であった[3]。

町が一般的にソフィア(古代ギリシア語で知恵を意味する)と呼ばれるようになったのは、1376年に聖ソフィア聖堂が立てられた後と考えられている。しかしながら、資料によって19世紀末まで、町はソフィア、スレデツの両方の呼称で呼ばれていた。ブルガリア=オスマン戦争(英語版)によって1382年にソフィアはオスマン帝国に包囲され、長期間にわたる攻城戦の末に町はオスマン帝国に制圧された。1878年にソフィアがオスマン帝国の支配から解放された後、ブルガリア人の革命委員会からは古い呼称であるスレデツを維持したいという強い願望が出されていたが、ロシア人の支配者は呼称をソフィアと決定した。

解放後の数十年の間で、主にブルガリアの他の地域からの大規模な人口流入により、町の人口は一挙に膨れ上がった。公国は1908年にブルガリア王国となった。1925年4月16日にブルガリア共産党によって聖ネデリャ教会襲撃事件が引き起こされ、170人が死亡、500人が負傷した。 政府は即日、戒厳令を布いた[4]。

第二次世界大戦が始まった後の1941年3月1日、ブルガリアは日独伊三国同盟に加盟。当日からドイツ機械化部隊の一群がソフィアに進駐、ブルガリア在住のドイツ人らはハーケンクロイツの旗を掲げて歓迎した[5]。 戦況が枢軸国側に不利な状況になると、ソフィアは連合国による爆撃(英語版)を受けた。後に町はソビエト連邦に征服された。アメリカ合衆国、イギリス、フランスの支援の下でのソ連による征服に続いて、ドイツと同盟を結んでいたブルガリアの政府は共産主義者に取って代わられた。プラハ、ワルシャワ、ブカレストなどと同様に、ソフィアは社会主義国家であるブルガリア人民共和国の首都となった。ブルガリアはこの戦争で領土を失うことは無かったが、多くの人命が失われ、また、ブルガリア国外のブルガリア人との結びつきは大きく損なわれた。この間、ソフィアの人口は急速に拡大し、工業発展が重視され、多くの新しい工場や製作所が町とその周囲に建造された。これによって郊外に多くの新しい町が生まれ、交通ネットワークが拡大した。

^ Theophanes Confessor. Chronographia, p.485 ^ s:Catholic Encyclopedia (1913)/Sardica ^ Кираджиев, Светлин (2006). „София. 125 години столица. 1879-2004 година“. ИК „Гутенберг“. ISBN 978-954-617-011-8 ^ 「ソフィアに戒厳令が布かれる」『大阪毎日新聞』1925年4月19日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編pp.630-631 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ ドイツ軍、ブルガリアに進駐(『東京朝日新聞』昭和16年3月3日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p386 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
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