Транссибирская магистраль

( シベリア鉄道 )

シベリア鉄道(シベリアてつどう、露: Транссибирская магистраль)は、ロシア連邦南部のシベリア(極東ロシアを含む)とヨーロッパロシアを東西に横断する鉄道。全長は9,297キロメートルで、世界一長い鉄道である。これとは別に、第二シベリア鉄道(バイカル・アムール鉄道、バム鉄道)もある。

ロシア帝国時代に建設され、2022年時点では会社形態のロシア鉄道により運営されている。

計画まで  シベリア鉄道の地図(1897年当時の路線、ドイツで出版されたもの)。

シベリアに鉄道を建設する案は、ロシア帝国でモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道が完成した後の1850年代に既に生まれている。

1850年代

シベリア鉄道の計画は1850年から始まり、その初期段階は1860年代まで続く。

ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーは、1850年に黒竜江(アムール川)河口を占拠。その後、遠征の功を挙げると、韃靼海峡のカストリ湾とアムール江岬のソフィウィスクとを連結する馬車道を建設しようとした。しかし、これは果たせずに終わった。また、同時にイギリス人技師ダンはニジニ・ノヴゴロドよりカザン及びペルムを経て、太平洋岸の一港に達する馬車道建設を発議したが、政府は耳を傾けなかった。同年、アメリカ人コリンズはアムール鉄道株式会社を設立し、イルクーツク - チタ間に鉄道を敷設する請願を出したが、精密な調査の後に廃棄された。

その他計画、請願は多数に登ったものの、いずれも実行に移されることはなかった。しかし、その中で優れたものとしては、1862年のココレフ会社が計画したボルガ川・オビ川間の線路――ペルムよりニジニ・タギルを経てチュメニに達するものがあった。

1860 - 1870年代

こうした頓挫にもかかわらず、1860年 - 1870年代は重要な進展を見せた。

1864年のヴャトカ飢饉の救済法を視察するため、1866年に同地方へ派遣されたコロテル・バグダノウィッチが任務を大体終えた3月23日、内務大臣に電報を送り、「将来、ウラル地方の飢饉を防御する唯一確実の方法は、内地よりエカテリンブルクへ、エカテリンブルクよりチュメニへ鉄道を敷設することにあります。このような線は、将来シベリアを貫き中国境に達するに及び、軍事上及び貿易上最大重要のものとなるでしょう」と述べた。この報告はいくらかの注意を引くことになった。

貿易家リウビモフは、1869年にペルムよりクングル、エカテリンブルク及びシャドリンスクを経て、ウルガンの北49ベルスタのビエルーゼンスク村までを実測し、報告した。また、西シベリア総督クルシヨフは同年、ツァーリ(ロシア皇帝)に意見書を提出し、シベリア連結鉄道速成の必要を論じ、ニジニ・ノヴゴロドよりカザンを経て、チュメニに至る線の近いことを説明した。

こうして、三つの計画案である、バグダノウィッチの北方線路、リウビモフの中央線路、クルシヨフの南方線路が生じ、政府内においてもその実現に向けての議論が始まった。

政府においては議論の末、約700ベルスタの線路によってカマ川とトボル川とを連結することは可能とし、特別に委員を選定し、ウラル地方に派遣した。委員はウラル鉱業の利益とシベリア貿易の利益の両立を計量の基礎とすることを当初の指針としていたが、両立の不可能なことをみてとり、後者を排して前者を優先することとなった。

やがて政府は1872年に渡る測量の後、三幹線を計画した。すなわち、

キテシュマ - ヴャトカ - ペルム - エカテンリンブルク 933ベルスタ ニジニ - カザン - クラスヌ - フィムスク - エカテリンブルク 1172ベルスタ アラチル - ウファ - チェリャビンスク 1173ベルスタ

また、審査委員会は1875年において、ニジニ・ノヴゴロドよりボルガ川岸に沿い、カザン、エカテリンブルク及びチュメニに達する線路を採択した。こうしてシベリア鉄道の計画は着々と推移していたが、チュメニを過ぎてシベリアまで延長するアムールスキーの案はいまだ停滞し、1875年、ウラジオストクよりハンカ湖に至る鉄道敷設の請願が出、政府もその必要性は認めたものの、財政の考慮から実行には至らなかった。

その間にも、本土の鉄道は随時拡張され、1877年にはオレンブルク鉄道、1878年にウラル鉄道が完成した。

1880年代

1880年、ロシア皇帝アレクサンドル2世の記念工事であるボルガ大鉄橋が完成され、またエカテリンブルク・チュメニ間の工事が着工された。エアテリンブルク - チュメニ間の鉄道はボルガ川とオビ川の水運を連結させるものであり、このため、もしオビ・エニセイ運河が完成されるなら、ボルガ川の水運はオビ川・エニセイ川と連なり、バイカル湖へ達することになる。この水路の活用を見込んだ時、シベリア横断鉄道の工事は実現に明らかな展望が生じた。かくして、鉄道により水路を連結し、鉄道と水路を併用する計画が生まれた。

まず、第一に挙げねばならないのは、1880年の始めのオストロスキ技師の設計である。「現時の状態においては、ベルム - トボリスク間の鉄道によりカマ川とイルチシュ川とを繋ぎ、オムスク - バルナウル間鉄道によりイルチシュ川とオビ川を繋ぎ、トムスク - クラスノヤルスク間鉄道によりオビ川とエニセイ川を繋ぎ、かくして水路と鉄道を繋げる事によって廉価に交通を開発、しかる後にその輸送力をもって全通鉄道の工事に着手する事」が、大体その要点であった。

次いで、オビ川・エニセイ川間の測量を終えたシデルスチル技師は、これに更に水路を活用すべきことを述べ、「オビ・エニセイ運河の開発の後、アンガラ川下部の急流を治水する事で、チュメニからバイカル湖までの5000リベスタの長水路を開く。バイカルから湖畔に沿ってスレテンスクに至る道のりには950リベスタがあるが、最初の150はバイカルの湖水とセレンガ川の川水を用いて、中間の450は幾多の小流があるためにアレースク湖からタンシンスクへ向かうヤブロノヴォイ山地に18リベスタの鉄道を敷設するのみで事足りる、残り350はインゴダ川及びシルカ川の両流を用いる事により、ボルガより太平洋岸に至る貫通シベリア大水路を作る事」を主張した。

これらを皮切りに、路線選択に関わる様々な計画案が出始めた。シベリアの二人の提督、コルフとイグナチフもこの流れに乗り、イムスク - イルクーツク間鉄道及びバイカル・ストレンスク間鉄道の設計案を提出。次いで、ウラジオストクよりラズトロノエ・ニコラスコエ・アヌチノを経て、ブス・ボストへ至る線路の設計案が提出された。しかしながら、シベリア鉄道の建設の実行方法の選定には重要な問題があり、これらは実行に移されなかったものの、ウスリー線を第一に敷設することは決定された。これに伴い、太平洋側の線路の起点はウラジオストクであることも決定された。

問題は西方の起点であった。この時、本土の東方の終点は3点、即ち、北のチュメニ、中央のミアス、南のオレンブルクであり、このいずれかを選択しなければならなかった。この選択は、1890年の委員会に託された。

1890 - 1891年  南シベリアの都市とシベリア鉄道本線の位置関係

当時、隆盛の水路併設鉄道案はチュメニを起点とするものだった。それはおおよそ次のようなものである。

 バイカル湖畔を行く列車(水)カザン - ペルム2344km、(ウラル鉄)ペルム - チュメニ2010km、(水)チュメニ - トムスク7289km、(新鉄)トムスク - イルクーツク4060km、(水)イルクーツク - ムイソフスキー埠頭392km、(新鉄)ムイソフスキー埠頭 - ストレンスク2627km、(水)ストレンスク - グラフスキー5989km、(新鉄)グラフスキー - ウラジオストク1001km

全長は約2万5715km、内、水路は1万6015km、鉄道は9700km程度となる。ウラル鉄道は既に開発されているから、7690km程の新設で済み、費用は鉄道に関するもので1625万ルーブル、水路は735万ルーブルの合計約2360万ルーブルと試算されていた。欠点は運送時間の問題で、モスクワよりウラジオストクまで荷物を運ぶのに75日、旅客を運送するのには35日、これはともかく貫通鉄道までの輸送路確保であるにせよ、水路の氷結のため1年の内わずか4か月しか充分に使用できないことはこの鉄道の見通しを明るいものにはしていなかった。

委員会はチュメニ線は中央との連絡が不便であるとして否定した。またオレンブルク線は西半分は土地が荒れており、東半分は工事が困難であるとして否定した。1890年末、委員会は「サマラ - ウファ - ズラトウスト - オムスク - トムスク - クラスノヤルスク - ニジニ・チウジンスク - イルクーツク」の中央路線案を採用した。

シベリア交通幹線はこれによって大体の方針を決定した。ロシア政府は、チュメニを西方の起点とすることを否定し、この間の線はボルガの水路のみによらないことを示した後、速やかに上述の水陸併用線の欠点を踏まえてこれを否定し、シベリア貫通大鉄道の敷設を決定した。

1891年3月29日、皇帝アレクサンドル3世は次の勅諭をアジア各地へ訪問中の皇太子ニコライに与えた。

「私は今日シベリア全土を貫通する鉄道敷設の詔勅を発し、天産富饒のこの地をロシアの線路に連絡させる。よって汝に命ず、東洋諸国の漫遊を終えた後に、シベリアに至ったならば、私のこの意を諸有司に告げて、兼ねてシベリア大線路ウスリー線の第一軌鉄をウラジオストクに布設するところに臨行せよ。この線路は国庫の財をもって布設し、その監督もまた官の任じるものであり、まさに国家事業である。汝がこの事業に参与するのは、私がシベリアと他の領内との交通を便にし、シベリアの平和的発達を図る希望切なるを世に知らしめるためである」

以上の勅諭を皇太子は5月12日、ウラジオストクにおいて宣揚し、シベリア鉄道定礎式の盛典を行った[注 1]。

決定に伴い、工事は直ちに着手すべきこととなり、七区に分かれた予算の概算書が決定された。その総計は3億5021万482ルーブルであった。なお、この七区とは、ミアスから繋がるチェリャビンスクに始まる、(1) チェリャビンスク - オビ、(2) オビ - イルクーツク、(3) イルクーツク - ミソウスク、(4) ミソウスク - スレテンスク、(5) スレテンスク - ハバロフスク、(6) ハバロフスク - グラススク、(7) グラススク - ウラジオストク、である。

シベリア最大の町だったトムスクはシベリア鉄道建設では不運なことにルートから外された。トムスク付近のオビ川沿岸地帯は湿地帯であり橋を架けるには不向きで、ルートはトムスクの南70kmにずらされ、オビ川渡河地点にはノヴォニコラエフスク(現在のノヴォシビルスク)の街が作られた。トムスクには盲腸線となる支線が本線上のタイガから繋がったに過ぎず(トムスク支線)、シベリア鉄道による交通や交易の中心となる機会は奪われてしまった。

横断鉄道は、少ない乗客や麦の輸送など、当面の地方交通を満たす程度の能力で建設された。これは後に日露戦争の際、軍関係の輸送のために地方の物流が犠牲になる結果を招いている。

建設  ウスリー川付近での建設の様子(1895年) アムール鉄道(アムール川北岸の国内線)工事に従事する囚人 1900年代初頭

1891年に建設を開始し、露仏同盟を結んでいたフランス資本からの資金援助を受けながら難工事を進めた。軌間は1524mm(後に1520mmに改める)の広軌を採用した。これには、「1435mmの標準軌を採用した欧州と同じにするとナポレオンのような侵略者に使われれば脅威になると考えた」「皇帝の招いたアメリカの技術者が広軌論者だった」など様々な説がある。

建設はアメリカ横断鉄道同様、路線の両端から開始され、完成した区間から順次使用が開始された。東の終点のウラジオストクからはウスリー川に沿ってハバロフスクまでの鉄道、ウスリー線がまず1897年に完成した。サハリンなど各地に流されていた受刑者やロシア軍兵士が鉄道建設に従事した。西では1890年、ウラル川を超える橋が完成し、鉄道がヨーロッパ・ロシアを過ぎてアジアに到達した。オビ川を渡るオビ川鉄橋は1898年に完成し、1883年に鉄道建設に先立ってオビ川沿いに建設されたノヴォニコラエフスク(現在のノヴォシビルスク)は後にシベリアの中心都市と発展した。1898年、最初の鉄道がイルクーツクに達した。

イルクーツクの60km東にある長さ640km、最深部1600mのバイカル湖が、沿線最大の障害物となった。バイカル湖南岸は山岳地帯で難工事となり、予定を大幅に遅れた。このため、1900年から工事が完成するまでの間の暫定措置として、イギリス製砕氷船を使った鉄道連絡船による鉄道車両の輸送を行った(冬は湖上に線路を敷いて列車を走らせたこともある)。この区間が完成したのは日露戦争の最中の1904年9月である。

1896年、ロシア政府は清国政府から、満洲(現在の中国東北部)の北部を横断し、ハルビン(哈爾浜)などを経由する東清鉄道の敷設権を得た(露清密約)。1903年、東清鉄道は完成し、シベリア鉄道の短絡線として機能した。

その後アムール川北岸(左岸)を通ってハバロフスク橋でアムール川を渡り、ハバロフスクに繋がる区間が1916年に完成し、シベリア鉄道は全線開通した。

影響  ペルミ付近でカマ川を超える鉄橋

シベリア鉄道の建設の結果、シベリアからロシア西部やヨーロッパ諸国へ農産物を輸送できるようになり、シベリアの農業は一大発展の機会を得た。その効果は鉄道沿線のみならず、河川舟運を通じて鉄道につながる地域にも及んだ。たとえばアルタイ地方はオビ川の舟運とシベリア鉄道を経由して小麦を輸出できるようになった。1906年から1914年の間に4百万人の農民がシベリアに移住し、未開の原野が農地になった。

シベリアの農家が安い穀物をヨーロッパに輸出するようになった頃、ロシア西部の農業は、アレクサンドル2世による1861年の農奴解放令後の経済的な圧力でいまだに混乱していた。このため、ロシア西部を守り社会的な不安定が起こるのを防ぐため、1896年に政府はチェリャビンスクを通過する穀物に関税障壁をつくるためのチェリャビンスク関税区間 (Челябинский тарифный перелом) を設置し、同様の障壁を満洲側にも設置した。この措置はシベリアの輸出産品を大きく変えた。アルタイ地方、ノヴォシビルスク、トムスクには穀物を加工する製粉所が多く設立され、農場はバター生産に路線を変更した。1896年から1913年まで、シベリアは毎年平均で501,932tの小麦粉などを輸出した。

ロシア革命  クラスノヤルスク橋 1900年パリ万博で金賞を受賞するなど、その技術力は高く評価された

ロシア帝国は日露戦争以降、共産主義が台頭し、政治的に不安定な状態になった。シベリア鉄道は中央政権の象徴と見られて、しばしば破壊行為の対象になり、大規模な修理が必要な状態となった。アメリカ合衆国(米国)のウィルソン大統領は、1917年6月にエリフ・ルートを現地へ派遣、資金の乏しいロシア臨時政府(2月革命 (1917年)で成立)と協調を図り、アレクサンドル・ケレンスキーとシベリア鉄道修理などの交渉を締結。アメリカ側は鉄道修理物資をロシアに到着させるが、スティーブン技師など他300名の鉄道技師が到着する前に十月革命でロシア臨時政府が倒れたことから、修理には至らなかった。また十月革命に続くロシア内戦により、鉄道も到るところ破壊されて不通の状態となる。このような状況下、アメリカのスティーブン技師は、鉄道の要所に破壊抑止のための従業員を配置し、これがその後の共同管理へと繋がった。

1918年に、本国移送中のチェコ軍団が沿線を占領し、その救出を理由にして日本、イギリス、フランス、アメリカ、イタリアなどの連合国軍によるシベリア出兵が起こった。実際の所、日本のシベリア出兵は東清鉄道の利権を認めさせることが目的であったが、これは同時に、シベリア鉄道の管理権の帰属にも絡んでいた。

結局、日米仏伊英中の6か国管理で、ロシア側がその委員会をとりまとめること、スティーブン技師らの技術部がこれを実質上管理すること、東清鉄道に関しては日本の利権をある程度認めることを、出兵期限内の間継続すると取り決めた。この結果、日本は現地の反革命軍(白軍)などと協力して1922年までイルクーツク以東の沿線を占領し、極東共和国成立などの事態となった。

両大戦間期

その後、内戦に勝利したソビエト連邦新政府が、シベリア鉄道とその沿線である極東ロシアを実効支配した。シベリア鉄道は、後述するアジアと欧州の移動のほか、ソ連国内の経済開発や、ソ連軍の兵員や兵器・物資といった軍事輸送に重要な役割を果たした(ノモンハン事件時[1]など)。

1932年、満洲国が成立した。東清鉄道は1935年に満洲国に売却されて満洲国国有鉄道の一部となり、1937年にソビエトの広軌から標準軌に改軌されたため、シベリア鉄道の短絡線としての役割は低下した。その代わり、中華民国や朝鮮半島の鉄道と直通運転が可能となった。

東清鉄道を失ったソビエト連邦にとって、シベリア鉄道の輸送力増強が緊急の課題となり、路線の複線化工事が推進された。スターリンの独裁政権により追放された多くの政治犯がこの沿線で強制労働に従事した。1941年(昭和16年)に完成したハバロフスク橋付近のハバロフスク・アムール川底トンネル工事にも多くの囚人が投入された。このトンネルは現在もモスクワ方面行きに使用されている。

第二次世界大戦  シベリア鉄道の電気機関車

1939年9月に第二次世界大戦が始まったが、当初、ドイツとソビエトは独ソ不可侵条約により友好関係を維持した。日本は同盟国のドイツにシベリア鉄道で大量の物資を供給していた。

しかし、1941年6月にドイツはソビエトに侵攻して独ソ戦が始まったため、ドイツ向けの輸出は困難となった。ただ、1941年4月に日ソ中立条約を結んでいたため、日本人がシベリア鉄道を使うことは可能だった。第二次世界大戦末期、1945年5月のドイツ降伏後にビザが下りた駐独大使館員や駐欧州大使館員が日本への帰国に使用した。

しかし、ソビエトはドイツ降伏後に極秘に対日戦の準備を進めていた。シベリア鉄道の輸送力を使い大量の兵員と物資が満洲国境に輸送され、8月9日にソ連対日参戦となった。

冷戦下

第二次世界大戦後も路線の重要性は変わらなかったが、冷戦下のソ連は太平洋艦隊の軍港であるウラジオストクへの外国人立ち入りを禁止したため、1956年(昭和31年)に国交が回復した日本との貿易や、シベリアを横断する外国人の往来には、ウラジオストクの東側にある商港ナホトカが利用され、シベリア鉄道からは支線を利用することになった。外国人乗客はロシア号の乗車がモスクワ - ハバロフスク間に限定され、ハバロフスク - ナホトカ間は連絡列車を利用した。

1950年代以降に東南アジアや中東、アンカレッジを経由しての欧亜間航空路の発達により旅客ルートとしてのシベリア鉄道の重要性は低下したが、貨物取扱量は冷戦時代でも年々増加した。また、1984年にはシベリア鉄道の北側にバム鉄道が全通し、シベリア開発の両輪となった。

ペレストロイカ後  1998年に完成した新しいハバロフスク橋をハバロフスク側からモスクワ方面に見る。古い橋の橋脚がすぐ右側(上流側)に残っている。

1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連の最高指導者となり、ペレストロイカを断行したが、経済的な混乱は拡大した。また、ソビエト上空の航空路の開放により旅客運輸の重要度はますます低下し、さらに設備更新の停滞などもあり、シベリア鉄道の輸送力は低下した。1991年のソビエト連邦の崩壊後は「ロシア号」の運行が毎日から隔日に削減されるなどの影響を受けている。

1992年1月にウラジオストクが対外開放されたため、外国人旅客も全線の乗車が可能となった。1998年には新しいハバロフスク橋が完成して、上面はシベリア横断道路で利用されている。2000年にNHKで放送された『五大陸横断 列車の旅』によるとモスクワ - ウラジオストクまでが1等約15000円、2等約7500円であり[注 2]、当時のロシアの物価が極めて安かったことが捉えられる(2001年のロシアの月収は6000円前後)。

1929年に始まった電化工事は2002年に全線で完成し、列車の積載量は6,000tにまで大きく増加した。複線化工事も2016年には全線で完成し[2]、情報システムの自動化、極東ロシア各港湾と直結する支線建設などの整備も継続している。ロシア鉄道は、シベリア鉄道の輸送能力を現状の1.5倍、年1億8000万トンに引き上げる計画を進めている[3]。バム鉄道と合計の貨物輸送能力は2020年で1億4400万トンで、2012年との比較で5割増えている[4]。

現状と今後の展望  クラスノヤルスク駅

シベリア鉄道はアジアとヨーロッパを結ぶ重要な交通路の一つである「シベリア・ランド・ブリッジ」の中核であり、空路を除くと最短・最速の北東アジア-欧州連絡ルートである。実際シベリア鉄道を利用して貨物輸送を行うと、海路と比較するとかなりの時間短縮を図れる。

ソ連崩壊後は外国人でも全区間乗車可能となり、世界中から観光客が急増したことから、内装もいっそう豪華になり、シャワー付き個室の提供や、1等客室にシャワー室が設けられた他、客車は様々な塗装に塗り替えられている(詳細は後述)。

例えば中華人民共和国の首都北京からドイツのハンブルクまでは、輸送が順調な場合は海路の半分の日数である15日で到着する[5]。東京からサンクトペテルブルク間を海路の場合約40日程度かかるが、ウラジオストクからシベリア鉄道を利用した場合、同区間を約25日程度で輸送できる[6]。そのため、日本の商社や製造業、ドイツ鉄道をはじめとするヨーロッパの鉄道会社が興味を示しており、シベリア鉄道を管轄する国営ロシア鉄道やその関連企業との業務提携を積極的に進めている[7][8][9]。2008年1月には、ロシア、中華人民共和国、モンゴル国、ポーランド、ドイツの各鉄道会社が、中華人民共和国 - ドイツ間のコンテナ貨物輸送で協力することが発表され[10]、同年10月にそのトランス=ユーラシア・ロジスティクスの最初の列車が湘潭からハンブルクに到着した[11]。


日本との関連では、ロシア政府は2016年、シベリア鉄道をサハリン、北海道まで延伸する構想を経済協力の一部として希望していると報道された。具体的には大陸からサハリン間の間宮海峡(7km)と、サハリンから稚内間の宗谷海峡(橋またはトンネル、42km)[12]の建設が必要となるが、ロシア政府は間宮海峡での橋・トンネル建設について2020年に断念を表明している[13]。「間宮海峡#トンネル・架橋計画」「宗谷トンネル」も参照。カザン - ウラジオストク間の高速鉄道化構想も上記計画の一部とされる。

バム鉄道を含めて輸送された日本の貨物は2018年に海上コンテナ7万個を超え、対前年比で10%増えた。ただし、ほとんどはロシア国内との輸出入で、ロシア以外の欧州とのトランジット輸送は3000個程度にとどまる。中国が一帯一路構想を掲げて国策として進めるカザフスタン経由の中欧班列(満洲里駅経由の中欧班列はシベリア鉄道に乗り入れる)に対抗して[14][15]、 ロシア鉄道はロシアの物流企業FESCOと共同での「トランス・シベリア・ランドブリッジ」サービスや、ロシア運輸省、日本の国土交通省、物流業界とつくる「日本トランスシベリヤ複合輸送業者協会」との連携により、ドア・ツー・ドアの日欧を19日以内に結ぶ中継輸送の開拓を進めていたが[3]、2022年にロシア・ウクライナ戦争が勃発し不透明な状況にある。

シベリア鉄道は21世紀の現在もロシア国内の最も重要な輸出路であり続けている。ロシアの輸出に関わる輸送の30%はこの鉄道が担っている。多くの外国からの旅行者を惹きつける一方、国内の旅客輸送の重要な一部でもある。輸送量・速度をさらに高めるべく、バム鉄道の複線化、カーブの直線化といった工事を進めている。完了すれば、最長編成1キロメートルの列車も運行できるようになる。欧州企業が環境保護を重視するようになっているため、列車事故でバイカル湖などに石油が流出した場合に拡散防止や回収を早くできる体制も整備している[4]。


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^ 戦史研究センター戦史研究室 花田智之「ノモンハン事件におけるソ連の軍事と外交」『ブリーフィング・メモ』2017年9月号(防衛省防衛研究所)2019年7月7日閲覧。 ^ シベリア鉄道の現状と将来 ~辻久子先生に聞く~ ^ a b 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「日経産業20190628」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ a b 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「道新20210615」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ China-to-Germany Cargo Train Completes Trial Run in 15 Days - bloomberg ^ Mitsui talking to Russian railway operator on trans-Siberian freight service ^ 記事名不明『秋田魁新報』2007年10月23日[リンク切れ] ^ 記事名不明『日本経済新聞』2007年10月18日[リンク切れ] ^ 記事名不明『西日本新聞』2007年10月22日[リンク切れ] ^ Beijing to Hamburg fast cargo rail link planned - China Post ^ “Why The China-Europe 'Silk Road' Rail Network Is Growing Fast”. フォーブス. (2016年1月28日). https://www.forbes.com/sites/wadeshepard/2016/01/28/why-china-europe-silk-road-rail-transport-is-growing-fast/ 2019年11月3日閲覧。  ^ 「シベリア鉄道の北海道延伸を要望 ロシアが大陸横断鉄道構想 経済協力を日本に求める」『産経新聞』2016年10月3日(2021年6月24日閲覧) ^ サハリン・本土結ぶ構想断念 露大統領特別代表「費用高すぎる」『読売新聞』朝刊2020年12月7日(国際面)2021年6月24日閲覧 ^ “満洲里駅経由の「中欧班列」が5000本に 内モンゴル自治区”. AFPBB (2019年9月29日). 2019年11月3日閲覧。 ^ “シベリア鉄道vs一帯一路、日本企業が選ぶのは?”. 東洋経済新報社. (2019年4月22日). https://toyokeizai.net/articles/-/277753?page=3 2019年11月3日閲覧。 
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