Московский метрополитен

( モスクワ地下鉄 )

モスクワ地下鉄(モスクワちかてつ、ロシア語: Московское метро)は、正式名称をモスクワ地下鉄公社ГУП «Московский метрополитен»)と言い、ロシアの首都モスクワ及びモスクワ州を通る地下鉄である。運営はモスクワメトロ公社(総称:モスクワ州統一企業「レーニン記念モスクワレーニン勲章と赤い労働者地下鉄」)によって行われる。1957年から1992年までレーニン記念モスクワ地下鉄(Московский метрополитен имени В. И. Ленина)と称した。ロシア国内で最大の地下鉄である。世界の地下鉄の年間輸送人員においては、世界で5番目に多い東京の地下鉄に続いて利用客の多い地下鉄となっている。最初の路線は、ソコリニキ駅 - パールク・クリトゥールイ駅間にスモレンスカヤ駅への分岐線付きで1935年5月15日に開業された。 全15路線(内4路線は後に2路線に統合される予定で2路線は一時的に接続され1路線として扱われている)で、モスクワモノレールとモスクワ中央環状線を除いて総延長は397.3 kmある。モスクワ地下鉄には230駅と2つの閉鎖駅(カホーフスカヤ駅とデロヴォイ・ツェントル駅)があり、48駅が文化遺産、また40駅以上がランドマークとされている。 モスクワ市の計画によると、2023年までにさらに55駅を建設することになっている。


多くの駅で社会主義リアリズムの様式に沿った豪華な装飾が施されていることでも知られており、他国の地下鉄とは対照的に美術館または宮殿のような雰囲気をもつことから、「地下宮殿」と呼ばれることもある。

今までに多くの駅名が変更されており、数回に亘って改名された駅もある。当初は、モスクワ地下鉄自体も、敷設に寄与したラーザリ・カガノーヴィチの名を冠していた。

未実現の計画  技師 A. I. アントーノヴィチ、N. I. ゴリネーヴィチ、N. P. ドミトリーエフ達による1902年のモスクワ都市鉄道計画 地下鉄第一路線の建設 モスクワ地下鉄70周年記念のロシアの小型シート(2005年)

モスクワに地下鉄を建設する最初の計画は1875年に提案された。それはクールスカヤ駅からルビャンスカヤ広場とトルブナヤ広場を経てマリナ・ロシャに至る路線計画であった。しかし、計画は実現されなかった。 1902年に技師ピョートル・バリンスキーとエフゲーニー・クノーレはザモスクヴォレーチィ - トヴェルスカヤ間を地下鉄で結ぶ計画を提案した。しかし、市議会は「クノーレとバリンスキーの計画を拒否する・・・」とし、提案を却下した。市議会議員は地下鉄計画の不備を理由としたが、それに加えて当時から存在していたモスクワ市電の団体が計画破棄に影響した(モスクワ市電は当時、市の財政にかなりの収益をもたらしていた)。 同年、鉄道技師A. I. アントーノヴィチ、N. I. ゴリネヴィチ、N. P. ドミトリエフによってモスクワ市鉄道計画が立案された。クノーレとバリンスキーの計画とは異なり、この計画では都市中心部を走る地下線と郊外を走る地上線または高架線が提案された。カーメル・コレジュスキー・ヴァル道路に沿った1本の環状線とそれへの乗り換えを可能にする駅の建設が計画された。

1913年、モスクワ市政府は、タガンスク-トヴェリ線(トヴェルスカヤ・ザスタヴァからカリトニコフまで)、アルバーツコ-ミャニツカヤ線(カランチョフスカヤ広場からキエフスキー駅まで)と、ヴィンダフスコ-ザモスクヴォレーツカヤ線(ヴィンダフスキー駅からZILプラットフォームまで)の3つの放射状線地下鉄路線からなる独自の地下鉄建設計画を作成した。1914年-1920年に予定された建設計画は市議会によって承認された。1914年春、カリトニコフで最初の車庫の建設が開始された。用地が確保され建材も運び込まれたが、第一次世界大戦の勃発によって計画は頓挫した。しかし、1923年-1927年にかけて建設が続けられ、カリトニコフの車庫は完成し、第4オクチャーブリスカヤ車庫となった。 電気技師M.K.ポリバノフによって1916年に提案された詳細な計画もあった。その計画は3つの放射線状地下鉄のトンネルが主要路線に接続され、その郊外を走る路線は電化されるというものであった。 1923年、モスクワ地下鉄建設計画は外国企業であるシーメンスに発注された。80kmのトンネルと86駅の建設を含むシーメンスによる案は1925年に完成した。しかし、資金不足によりこの案は実現には至らなかった。1925年にミャニツキー放射状線の計画が立案されたが、これも同様に実現には至らなかった。

実現された計画 ソ連時代

1931年6月15日、ソビエト連邦共産党中央委員会で、モスクワ市党委員会の第一書記のラーザリ・カガノーヴィチによる報告の後、市内の交通状況を改善し、また、モスクワ市電への乗客の集中を緩和するためにモスクワ地下鉄を建設することが決定された。1931年11月に最初の試験区間の建設がルサコフスカヤ通りで開始された。計画立案中に、将来の地下鉄駅のプラットフォームを島式ホームにするか相対式ホームにするかの議論が起こったが、その結果、島式ホームを備えた3列アーチ式駅とすることが決定された。乗客の地上への移動のためにエスカレーターの設置が提案された。モスクワの技師ヴェニアミン・マコフスキーはモスクワの土壌の複雑な条件下では地下深くにトンネルを敷設する必要があり、またそれは可能であると述べた。 1933年に地下鉄第一期工事の計画が認可され、同年メトロストロイ社が主要な工事を開始した。第一期の路線の決定にあたり、まずモスクワ市電の乗客の動きを調べ、最も混雑するルートから建設することにした。 ソコリニキ駅 - コムソモーリスカヤ駅間、ビブリオチェーカ・イーミニ・レーニナ駅 - パールク・クリトゥールイ駅間は開盤工法で建設された。また、アレクサンドロフスキー庭園駅 - スモレンスカヤ駅間はトレンチカット工法で建設された。そして、オホートヌイ・リャート駅 - ジェルジンスカヤ広場駅間の地下深い区間ではイギリス式のシールド工法が採用された。建設作業には、欧米の専門の工事者や技師が招かれた。1935年2月15日、初の試験走行が行われた。 モスクワ地下鉄は1935年5月15日に開業した。最初の乗客となったのはクラスニープロレタリー工場の労働英雄であるピョートル・ニコラエヴィチ・ラティシエフであった。彼は1935年5月15日に開所したソコリニキ駅の発券所でA-1番の切符を購入した。プスコバヤ線は全長11.2kmで13の駅に12編成が運行された。第一期工事区間はソコリニキ駅 - パールク・クリトゥールイ駅間でスモレンスカヤ駅への支線を伴っていた。後にフィリョーフスカヤ線となったこの支線は、1937年にキエフスカヤ駅まで開通し、途中、モスクワ川を橋で渡った。独ソ戦の開戦までに、さらに2路線が開通した。1938年3月にアルバーツカヤ線がクールスカヤ駅まで延伸された(現在この区間はアルバーツコ=ポクローフスカヤ線に属する)。1938年9月、ゴルコフスコ・ザモスクヴォレーツカヤ線が開通し、ソコル駅からスヴェルドロヴァ広場駅を結んだ。(1990年以降はチェアトラーリナヤ駅に改名。) 独ソ戦中には地下鉄は防空壕として使用され、空襲の間に合計217人の子供が地下で生まれた。 1941年10月15日、戦略的重要施設として破壊の準備のためモスクワ地下鉄を3時間に渡って閉鎖するという命令がラーザリ・カガノーヴィチによって出された。地下鉄を破壊し、残った車両と装備は撤去することが提案された。1941年10月16日「パニックの日」の朝に地下鉄は閉鎖された。これはモスクワ地下鉄史上唯一の運休であった。しかし夕方には地下鉄破壊命令は撤回された。

 紙の切符(1940-1941)

モスクワ地下鉄の第三期工事は1940年に開始された。独ソ戦の開戦前のことであった。開戦後の数ヶ月間は建設工事が凍結されたが、モスクワ占領の脅威を脱した1942年5月には既に工事は再開していた。2つの支線が加わった。一つは1943年1月のスヴェルドフォヴァ広場駅 - スターリン工場駅(1956年にアフトザヴォーツカヤ駅に改名)間(モスクワ川を深いトンネルで交差するが、パヴェレツカヤ駅とノヴォクズネツカヤ駅がその後1943年11月に開業)で、もう一つは1944年1月のクールスカヤ駅 - イズマイロフスキー公園駅(2005年にパルチザンスカヤに改名)間であった(4駅)。戦時中に建てられた7つの駅には「独ソ戦中に建設された」という記念プレートがある。 戦後に第四期工事、つまり環状線とプローシャチ・レヴォリューツィ駅 - キエフスカヤ駅間のアルバート線の深部の建設が始まった。環状線は本来、サドーヴォエ環状道路の下に建設される予定であった。1区間目の部分のパールク・クリトゥールイ駅 - クールスカヤ駅(1950)間は、サドーヴォエ環状道路の真下に敷かれた。しかし後に北部を通る環状線はサドーヴォエ環状道路の外側に建設することが決定され、モスクワの9つあるターミナル駅のうち7つのターミナル駅への地下鉄からの接続が可能となった。1952年に環状線の2区間目の部分(クールスカヤ駅 - ベラルースカヤ駅間)が開通し、1954年には環状線が全線開通した。 1952年1月に計画事務所が設立されたが、1971年からはモスクワ地下鉄計画設計局となった。

アルバート線の深い区間の建設は冷戦の開始に関係していた。核戦争が発生した場合、地中深くに位置する駅はシェルターとして機能するはずであった。アルバート線は1953年に建設が完了した後に、上部にある路線(カリーニンスカヤ駅 - キエフスカヤ駅間)は閉鎖されたが、1958年にはフィリョーフスカヤ線の一部として再び使用されている。それまでは運転手が駅名を大声で言っていたが、1951年12月12日から地下鉄の駅名の放送が開始された。駅名の放送をする最初の電車はソコル駅からスヴェルドフォヴァ広場駅を通った。1953年2月から10月にかけて、環状線で初めて乗客向けの拡声器による車内放送の試験が行われた。1953年12月29日以降、環状線の全ての電車に乗客向けの拡声器による車内放送が導入された。1972年からは地下鉄の全路線に放送システムが導入された。1955年から、ソ連共産党中央委員会とソ連閣僚会議による決議「計画と建設における過剰の排除について(ロシア語版)」により、地下鉄開発の重点は駅の建設コストを抑えた上で建設を加速させることに置かれることとなった。各駅の建設には決められた一定の予算が割り振られ、その範囲内に抑える必要があった。駅の建設は高価な個々のプロジェクトから、より安価な規格建築プロジェクトに変わり始めた。古典的なスターリン様式で建設された最後の駅は、1957年5月1日にオープンしたフルンゼンスカヤ駅とスポルチーヴナヤ駅であった。

 セルポーフスキー放射状路線バッジ、1983年

1950年代の終わりから1960年代にかけて、環状線にだけ接続する放射状の路線の計画が発案された。そうして1958年にリーシスキー線が開通し、1962年にはカルーシュスカヤ線、1966年にはジュダーノフスカヤ線、1972年にはクラスノプレースネンスカヤ線が開通した。複数の放射状の路線が環状線の内部を通り接続され、1971年にカルーシュスコ=リーシュスカヤ線、そして1975年にタガーンスコ=クラスノプレースネンスカヤ線となった。 1970年代終盤から1990年代初めにカリーニンスカヤ線(1979年-1986年)とセルプホーフスコ=チミリャーゼフスカヤ線が開通した。それらは環状線内の半径線が中心部を通過し新たな放射線状路線となるという計画で建設されたものであった。1980年代中期に、モスクワ環状道路の外側の住宅地と空港を通る高速の環状線との乗り換えのない路線の計画が浮上したが、地下鉄の資金不足によりこの計画は無期限に延期された。 ソビエト連邦の崩壊の前年(1990年)に、リュビリーンスカヤ線の建設が開始された。 地下鉄は組織的にソビエト連邦鉄道人民委員会(ソ連鉄道省)の一部であったため、地下鉄の全職員用に、ソビエト連邦鉄道人民委員会の一般職員の制服を使用することとなった。 1975年、モスクワ地下鉄は鉄道省の地下鉄総局に移管された。

ソ連崩壊後

1992年-1994年に、セルプホーフスコ=チミリャーゼフスカヤ線の北部区間の完成により、ビビレヴォ駅 - アルトゥフィエヴォ駅間が開通した。1980年代半ばに計画が始まったリュビリーンスカヤ線は1995年に開通した。1990年代半ばに、モスクワにおいて「中量軌道輸送システム」、「モノレール」などの新たな高速輸送の開発計画が提案された。2000-2001年に、セルプホーフスコ=チミリャーゼフスカヤ線の南の区間が完成し、ウーリツァ・アカデミカ・ヤンゲリャ駅 - アンニノ駅間が開通した。2002年の終わりに、終点駅のブリヴァール・ドミトリヤ・ドンスコヴォ駅まで開通した。これはモスクワ市内(セーヴェルノエブトフ地区)に位置しつつも、初めてモスクワ環状道路外にある駅であった。2003年に開通したブートフスカヤ線は完全にモスクワ環状道路外に位置していた。2004 年にモスクワモノレールが建設された。またミニメトロ計画がキエフスカヤ駅からビジネス街のモスクワシティ方面に向かう特別分岐線として実現された。通常の地下鉄線と比較して半径が小さく、起伏が急で、プラットフォームもより短くなるはずであった。しかし、その後ミニメトロ計画は中止となり、その結果、2005年にヴィスタヴォチナヤ駅とメジュドゥナロードナヤ駅の 2つの駅を持つ通常の分岐線が作られた。 2003年-2009年に、アルバーツコ=ポクローフスカヤ線はキエフスカヤ駅からミチノ駅まで延伸され、フィリョーフスカヤ線の線区を組み入れた。この路線にはモスクワ州初の駅であり民間の資金で建設された初めての駅であるミャキニノ駅が建設された。2007年-2010年に、リュビリーンスコ=ドミトロフスカヤ線が市内中心部を通り、マリイナ・ロシチャ駅まで延伸された。 2010年5月15日に モスクワ地下鉄は75周年を迎えた。それを記念し、全ての駅に記念プレートが設置され、それには駅の開業日と建築家の名前が刻まれていた。しかし、そのプレートには地下鉄の公式サイト上の記述との不一致があり、特に名称変更の日付での不一致が大部分であった。 1990年11月5日の名称変更が1991年に施行とされており、ヴォロビヨーヴイ・ゴールィ駅の名称変更の年は2002年とされている。(1999年が正しい。名称変更当時は改築のため閉鎖中であった。)また、サヴョロフスカヤ駅とオトラドノエ駅の区間に関しては、公式サイトには1991年3月1日と記載されているがプレートには3月7日とある。2011年12月に、リュビリーンスコ=ドミトロフスカヤ線の南部分のマリイノ駅とジャブリコヴォ駅間が開通した。 2012年8月に環状線にカリーニンスカヤ線が加わった。ノヴォコシノ駅が開業しその出口のいくつかは部分的にモスクワ市郊外のレウトフに位置していた。同年12月に、アルマ・アチンスカヤ駅(ザモスクヴォレーツカヤ線)とピャトニツコエ・ショッセ駅(アルバーツコ=ポクローフスカヤ線)が開業した。これらはどちらもそれぞれの路線の終点駅となった。2013年の11月に、タガーンスコ=クラスノプレースネンスカヤ線が環状線の外側の地域にも延伸され、レールモントフスキー・プロスペクト駅とジュレビノ駅が開業した。 2014年1 月、ソンツェフスカヤ線のパールク・パベーディ駅 - デロヴォイ・ツェントル駅間が開通した。同年2月、ブートフスカヤ線はレソパルコヴァヤ駅 - ビツェフスキー公園駅間が開通したことにより、カルーシュスコ=リーシュスカヤ線への乗り換えが可能になった。8月には、シチュキンスカヤ駅とトゥシンスカヤ駅の区間にスパルタク駅が開業したが、これは1970年代には建設されていたが、40年間放置されていた駅であった。12月にはトロパリョヴォ駅が開設され、ソコーリニチェスカヤ線の延伸の第1段階となった。

 2016年2月に200番目の駅としてサラルィエヴォ駅が開業。

2015年9月に、同時に3市に出口を持つコテルニキ駅が開業した。12月にはアフトザヴォーツカヤ駅とコロメンスカヤ駅の間にテクノパーク駅が開業した。2016年1月に、ノーヴァヤ・モスクワ地区まで地下鉄が開通し、ソコーリニチェスカヤ線のルミャンツェヴォ駅が開業した。2月にその先にサラルィエヴォ駅が開通し、モスクワ地下鉄の200番目の駅になった。 2016年9月10日にモスクワ中央環状線に沿って旅客用交通が開業した。6日後に、リュビリーンスコ=ドミトロフスカヤ線の北部放射線がマリイナ・ロシチャ駅からペトロフスコ・ラズモフスカヤ駅まで、その間のブッテルスカヤ駅とフォンヴィージンスカヤ駅とともに開通した。新たな区間の開通により、ペトロフスコ・ラズモフスカヤ駅での乗客の流れが変わり、その結果セルプホーフスコ=チミリャーゼフスカヤ線の乗客数が減少した。 2017年3月、ソンツェフスカヤ線の 2番目の区間であるパールク・パベーディ駅 - ラメンキ駅間が、その間の2駅と共に開通した。12月にはザモスクヴォレーツカヤ線はレチノイ・ヴァクザール駅からホヴリノ駅まで北方に延伸された。ホヴリノ駅は元旦に利用する乗客のために開通された。この区間にはまた現在一時的に建設が中止になっている中間駅であるベロモルスカヤ駅がある。 2018年2月、大環状線の第一区間(北西部分)であるデロヴォイ・ツェントル駅から3駅を経てペトロフスキー・パールク駅までが開通した。これは将来の第2モスクワ環状地下鉄線である。3月には、北部放射状線のリュビリーンスコ=ドミトロフスカヤ線がペトロフスコ・ラズモフスカヤ駅からセリゲルスカヤ駅までの3駅と共に開通した。8月下旬に、ソンツェフスカヤ線のラメンキ駅 - ラッスカゾフカ駅間の7駅が開通した。12月には新たにベロモルスカヤ駅がレチノイ・ヴァクザール駅 - ホヴリノ駅間に開業し、また大環状線北西部にペトロフスキー・パールク駅 - サヴョロフスカヤ駅の間に一駅加わった。 2019年6月上旬、新たなネクラソフスカヤ線の第一区間のコシノ駅からネクラソフカ駅までが開通した。同区間には4駅があり、区間の長さは6.9kmである。同6月末にはソコーリニチェスカヤ線のサラルィエヴォ駅からコムナルカ駅までが開通した。

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Florstein (Telegram:WikiPhoto.Space) - CC BY-SA 4.0
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