神倉神社

神倉神社(かみくらじんじゃ、かんのくらじんじゃ)は和歌山県新宮市の神社。熊野三山の一山である熊野速玉大社の摂社。境内地は国の史跡「熊野三山」の一部、および世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である。

熊野信仰が盛んになると、熊野権現が諸国遍歴の末に、熊野で最初に降臨した場所であると説かれるようになった(「熊野権現垂迹縁起」)。この説に従えば、熊野三所大神がどこよりも最初に降臨したのはこの地であり[1]、そのことから熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院と称された[2]。平安時代以降には、神倉山を拠点として修行する修験者が集うようになり、熊野参詣記にもいく度かその名が登場する。『平家物語』巻10の平維盛熊野参詣の記事に登場するほか、応永34年(1427年)には、足利義満の側室北野殿の参詣記に「神の蔵」参詣の記述が見られる[2]。

鎌倉時代の建長3年(1251年)2月14日には火災により焼失したが、執権の北条時頼より助成を与えられて再建された。中世の神倉神社は、神倉聖と称される社僧のほか、その下役の残位坊、妙心寺(妙心尼寺)・華厳院・宝積院・三学院の神倉本願四ヵ寺が運営にあたり(『紀伊続風土記』)、中の地蔵堂・参道・曼荼羅堂などの維持管理にあたった[2]。南北朝時代の動乱による荒廃の後はもっぱら妙心尼寺が勧進権を掌握した。享禄4年(1531年)付の古記録「神倉再造由緒」によると、神倉山の神社仏閣は持統天皇の時代に裸行上人により建立されたが、その後荒廃したため、延徳元年(1489年)に妙心尼寺の妙順尼が神倉神社の再興のための勧進を行い、さらに大永年間(1521年-1528年)から享禄4年まで弟子の祐珍尼らとともに諸国を巡って奉加を募り、これによって再興を成し遂げた(『妙心寺文書』)[3]。戦国時代から近世初期にかけても度々災害に見舞われているが、なかでも天正16年(1588年)には、豊臣秀長の木材奉行によって放火され、境内がことごとく焼失した。翌年には祐心尼のほか、金蔵坊祐信(当山派)および熊野新宮の楽浄坊行満(本山派)の2人の修験者の協力を得て西国9か国に勧進に赴いている[4]。

近世以降は、紀州徳川家や、新宮領主の浅野氏・水野氏の崇敬をあつめた。慶長7年(1602年)には浅野氏より社領として63石を与えられたほか、正保2年(1645年)には一年の祈祷料として、米3石6斗と燈明料米1石8斗が与えられた[5]との記録が見える。

 拝殿

『紀伊続風土記』が伝えるところによると、近世の境内には社殿と並宮のほか、崖上に懸造の拝殿があり、大黒天を祀る御供所、末社として満山社、子安社、中の地蔵堂などがあったが、明治3年(1870年)の台風で倒壊し[5]、その後荒廃したため、1907年(明治40年)には熊野速玉大社に合祀された。しかし、1918年(大正7年)、岩下に祠を再建したのを手始めに、昭和期に社務所、鳥居などが再建された[6]。現在は社務所に常駐の神職は居らず、熊野速玉大社の境外社の扱いである。朱印や御札などは熊野速玉大社の社務所で取り扱っている。御朱印には「熊野三山元宮」と記載されている。

^ 宮家[1992: 2] ^ a b c 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「Heibon_1997_191」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ 新宮市[1984: 971] ^ 新宮市[1984: 972] ^ a b 平凡社編[1997: 192] ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「Kadokawa_1985_294」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
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