高野山

高野山(こうやさん)は、和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある地域の名称である。周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの山上盆地に町並みが広がる。

「高野"山"」という名ではあるものの、地理学上の山ではない。高野山内は「一山境内地」といわれ高野山全域が寺の境内地とされ、境内の中に発展した町であり、元来は高野山全体と金剛峯寺は同義である。そのため高野山内の歴史、伽藍、文化財関連については、金剛峯寺で詳述している。

平安時代の弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。

現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)、大本山宝寿院のほか、子院が117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。

2004年(平成16年)7月7日、高野山町石道と金剛峯寺境内(6地区)、建造物12件が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。さらに2016年(平成28年)10月24日、高野参詣道(町石道を含み登録名称変更)として黒河道、女人道、京大坂道不動坂、三谷坂(丹生酒殿神社含む)が世界遺産に追加登録された。

816年  弘仁7年 7月8日 空海、高野山下賜を上奏し、この年勅許が下る。 892年  寛平4年 5月19日 九度山の慈尊院「弥勒仏坐像」(国宝)が造立される。後補裳先墨書銘:「寛平四年歳次壬子五月十九日造仏事己了」。 994年  正暦5年 7月6日 高野山大火。大塔に落雷、伽藍御影堂を残して全焼し、寺院にも類焼。 1086年 応徳3年 4月7日 金剛峯寺「仏涅槃図」(国宝)が描かれる。墨書銘:「応徳三年丙寅四月七日甲午奉写畢」。 1117年 永久5年~天治3年 4月15日 金剛峯寺「金銀字一切経」(国宝)が奥州藤原清衡の発願により書写される。 1145年 久安1年 10月23日 金剛峯寺「善女龍王像」(国宝)が定智によって描かれ、開眼供養される。 1149年 久安5年 5月12日 高野山大火。大塔に落雷、伽藍全焼。多くの仏像、仏画類が焼失。 1156年 保元1年 4月29日 金剛峯寺「両界曼荼羅図(血曼荼羅)」(重文)が絵師常明法印によって描かれる。平清盛の頭血を採り絵の具に和して描かせた。 1223年 貞応2年 金剛三昧院「多宝塔」(国宝)を建立。北条政子が源頼朝、源実朝の菩提のために、安達景盛に命じて建立。 1401年 応永8年 正月19日 伽藍西塔炎上、新御塔、文殊楼、本経蔵、正智院一切経蔵に類焼。多くの聖教類が悉く焼失。 1464年 寛正5年 7月3日 高野山大火。高野山衆徒、堂衆と西院、谷上、南谷で合戦し、谷中で11か寺を残して悉く焼失。 1486年 文明18年 4月8日 金剛峯寺「諸尊仏龕」(国宝)付属「銅製厨子」が製作される。 1521年 永正18年(大永1年) 2月12日 高野山大火。寺院より出火、大塔、金堂以下伽藍300余宇・塔婆19基、僧坊など3900余宇を焼失し、全山壊滅状態となる。 1594年 文禄3年 豊臣秀吉が高野山を参詣し、生母大政所の三回忌追善法要を行う。そのおり、連歌や能の会を催す。 1599年 慶長4年 3月21日 奥の院「経蔵」(重文)を石田三成が母の菩提の為に建立し、金剛峯寺「高麗版一切経」(重文)を同経蔵に奉納。 1599年 慶長4年 6月 正智院「高麗陣敵味方戦死者供養碑」(県指定)が薩摩藩主島津義弘、島津忠恒親子に依って建立される。朝鮮役における敵味方の戦死者を供養。 1599年 慶長4年 10月15日 清浄心院「佐竹義重霊屋」(重文)が佐竹為義重逆修の霊屋として造立される。 1604年 慶長9年・12年 蓮花院松平秀康及び同母霊屋(付属宝篋印塔7基)」(重文)が造立される。秀康の亡母(家康の側室)を祀るため、慶長九年に造立。また、慶長十二年四月八日には松平忠直によって、松平秀康(家康の子)の霊屋として、その隣に造立される。 1622年 元和8年 天徳院「天徳院庭園」(国の名勝)が小堀遠州によって造園される。 1630年 寛永7年 10月7日 高野山大火。大塔に落雷。暫くして塔腰部より猛火が起こり炎上焼失。伽藍諸堂をはじめ多くの寺院が類焼。 1690年 元禄3年 落雷により大門炎上。 1691年 元禄4年 千手院萬精院より出火、安養院まで延焼し89か寺が全焼。 1792年 寛政4年 2月16日 夜八ツ時、奥之院護摩堂より出火、焼失する。 1809年 文化6年 南谷から出火し、中門、勧学院一帯が類焼す。 1843年 天保14年 9月1日 高野山大火。壇上宝蔵の軒先から出火し、大塔をはじめ諸堂14棟が悉く焼失。 1863年 文久3年 現在の金剛峯寺「青厳寺本殿」(県指定)が再建される。万延元年(1860年)に焼失したことによる再建。 1869年 明治2年 3月29日 青厳寺・興山寺を合併して金剛峯寺と号する。 11月3日 高野山に神仏分離の通達が下る。 1870年 明治3年 西院如意輪寺をはじめ、南谷南院が焼失。 1872年 明治5年 興山寺全焼。 1879年 明治12年 千手院寂静院、普賢院、金剛頂院などが焼失。 1882年 明治15年 自性院他2か寺、谷上蓮金院等が全焼。 1884年 明治17年 高野山とその周辺の13か字が合併して高野村となる。この年、谷上の蓮金院焼失。2月 西院と恵光院から出火。50か寺、130戸に類焼する大火になった。 1888年 明治21年 3月23日 午前12時30分頃、一心院谷の南院裏山より出火、同院へ火移り、直ちに高祖院、東室院へと移り、続いて正塔院、六町院、幸福院、康徳院、福智院、蓮花院、宝積院、正覚院、金剛院、興山寺、◆覚院、定光院、西生院、無量光院、本王院、普門院、一乗院、光輪院、如意輪寺、金蔵院、愛染院、安楽院、安養院、巴陵院、三室院、普賢院、報恩院、明泉院、乗蔵院、圓満院、弥勒院、常住院、医王院、覚證院へと類焼。さらに五ノ室、千手院、小田原地区の上之段(現、高野山大学)の町家へも類焼し、午後5時頃鎮火。その時、金剛峯寺の屋根へも飛火して、一時は類焼するかと思われたが、かろうじて消し止めることができた。この火災によって、大寺21か寺、中小寺院30か寺、民家70余戸が焼失した。3月24日午前12時30分頃、蓮花谷の恵光院前、増福院より出火。直ちに大明王院、光明院、尭住院、常慶院、千蔵院、五大院、誠願院、持宝院、丹生院、岩本院、東根院、萬福院、蓮花三昧院へと類焼し悉く焼失。この時、蓮花谷民家も残らず焼失。東谷の奥之坊を除いて悉く皆焼亡し、午後5時頃漸く鎮火。両日の火災で、堂宇、仏像画像書跡什宝悉く焼失。この火災によって五大力菩薩像5幅のうち2幅を焼失(焼失をまぬがれた3幅は国宝)。什宝物焼失御届(有志八幡講)によると、勅額(後陽成帝宸筆「八幡大菩薩」、熊手八幡宮縁起、三社神号などが大明王院に預けられていたところ同寺類焼した際に焼失。両日の火災等にて明治初期に680余か寺あった寺院は明治28年になると130か寺まで減少し、廃絶した堂社は40軒を数え、現存するのは30軒に満たないほどとなった。 1906年 明治39年 高野山開創1100年記念大法会にむけて、実質的に公式に女人禁制が解除された。 1910年 明治43年 持明院全焼。 1911年 明治44年 龍泉院、泰雲院、徳善院全焼。 1915年 大正4年 3月1日 高野登山鉄道が大阪の汐見橋から橋本まで開通する。 1919年 大正8年 4月15日 高野登山自動車株式会社により、高野口駅より椎出までの間を乗合自動車の運行が始まる 1923年 大正12年 3月26日 夜八時頃、金剛峯寺木屋炎上す。 4月2日 正智院全焼。多くの宝物が焼失した。脇士文殊普賢木像二躯、舎利弗阿難木像二躯、四社明神木像一躯、不動明王木像一躯、阿弥陀如来木像一躯、脇侍観音勢至木像二躯、弁財天木像一躯、大黒天木像一躯、三宝荒神木像一躯、達磨図一幅、釈迦十六羅漢像(牧渓筆)三幅、八祖大師像一幅、両界曼荼羅図二幅、五字文殊像一幅、唐金四面器、八面器、仏具、真鍮仏具、護摩器、灯籠等仏具類多数、大般若経六百巻、弘法大師弟子譜、紀伊名所図絵七巻の39点焼失4月16日 午前10時頃、宝善院焼失。放火事件によるものと記録されている。檜皮がトタン葺きに改められるのをねらった、ブリキ職の犯行という。 1925年 大正14年 7月30日 大阪高野鉄道が橋本から椎出まで延長。 九度山から紀伊神谷にかけて、高野登山自動車会社が登山バスの運行を開始。 1926年 昭和元年 12月26日 午前6時30分、伽藍金堂が炎上。堂内本尊秘仏をはじめ旧国宝(重要文化財)の金剛薩た坐像、不動明王坐像、普賢延命菩薩坐像、虚空蔵菩薩坐像、降三世明王立像、金剛王菩薩坐像の諸尊が焼失。六角経蔵、孔雀堂、納経所類焼し午後二時鎮火。両明神御神体、快慶作孔雀明王像、金字一切経(荒川経)24箱は難を逃れ、霊宝館に移安。 1928年 昭和3年 6月18日 高野鉄道、高野下~神谷(紀伊神谷)間を70ヶ所以上の急カーブと23ヶ所のトンネルを掘って開通。 1929年 昭和4年 高野鉄道、神谷(紀伊神谷)~極楽橋間開通 1930年 昭和5年 6月29日 高野鉄道、極楽橋より山上までケーブルカーが開通する。 1932年 昭和7年 4月28日 電車が大阪より高野山まで直通となる。 5月23日 一乗院全焼。四時半火災。一乗院全焼漸く門を残すのみとなる。 1938年 昭和13年 6月23日 午後11時30分、正智院より出火。庫裡全焼。本堂及び会下半焼して零時30分鎮火。7月4日 降雨のため、明王院裏山崩壊、本堂及び位牌堂大破。 1940年 昭和15年 5月23日 午後3時、五坊寂静院出火。全焼。 1977年 昭和52年 4月18日 第28回全国植樹祭のために来県した天皇、皇后が行幸[1]。^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、146頁。ISBN 978-4-10-320523-4。 
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