ルアンパバーン郡(ルアンパバーンぐん、ラーオ語: ເມືອງຫຼວງພະບາງ)は、ラオス北部に位置する古都。市街地自体が文化遺産としてユネスコの世界遺産(ルアン・パバンの町)に登録されている。

ラオスの首都ビエンチャンからメコン川を約400キロメートル上流にさかのぼったナムカン川との合流場所に位置する。人口約60,000人。

古くは「ムアン・スワー(英語版)」と呼ばれた。 698年、ムアン・タン(英語版)(ディエンビエンフー)に攻められ、初代クーン・ロー(英語版)王がスワー侯国 (Rajadharani Sri Sudhana) を建国。 11世紀頃よりタイ名「シエンドーンシエントーン (Xieng Dong Xieng Thong) 」と呼ばれていた。 1353年、ラーンサーン王国の初代ファー・グム(英語版)王によって首都とされ、ラーンサーン王国の中心として栄えた。この時、パバーン仏(英語版)が贈られた。 1479年8月、ベトナム後黎朝の黎聖宗がラーンサーン王国へ親征し、5方向から軍を進めた。王都ルアンパバーンを破壊、現在のジャール平原にあたる地域に鎮寧府を設置し、7県を置いて統治した。 1548年、ラーンナー王国のセーターティラート王がラーンサーン王国の王にもなり、1551年にエメラルド仏を首都へ運んだ。 1560年、セーターティラート王がヴィエンチャンに遷都し、シエンドーンシエントーンは「ルアンパバーン」に改称された。この時、パバーン仏とエメラルド仏もヴィエンチャンに移された。 1707年からルアンパバーン王国の首都として栄えた。 1777年、トンブリー王朝がヴィエンチャンへ侵攻しシャムの属領とされ、パバーン仏とエメラルド仏を略奪してバンコクへ持ち帰った。 1782年、チャクリー王朝がパバーン仏のみを返還した。 1828年、再びシャムが侵攻し、パバーン仏を略奪してバンコクへ持ち帰った。 1867年、パバーン仏が返還された。 1885年、フランスがルアンパバーンに副領事館を開設。 1887年、黒旗軍により壊滅的な打撃を受け、それをきっかけにルアンパバーン王国はフランスの保護を受け入れた。 1905年、フランスによるルアンパバーン王国再編。 1945年3月9日、日本によるラオス進駐が開始される。 1945年8月15日、日本の武装解除を求めた中華民国のラオス進駐開始。 1946年5月13日、フランスがルアンパバーンを占領。 1975年のパテート・ラオによる共産主義革命が起こるまで王宮が置かれていた(政治上の首都は以前からヴィエンチャン)。
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