Mardi Gras in New Orleans

( ニューオーリンズ・マルディグラ )

ニューオーリンズ・マルディグラ(英: New Orleans Mardi Gras)はルイジアナ州ニューオーリンズのマルディグラで、リオのカーニバルなどと並ぶ世界で最も有名な謝肉祭(カーニバル)のひとつ。

 1907年。クルー・レックスによるフロート

マルディグラの慣習は、初期のフランス人植民者がフランス領ルイジアナに持ち込んだもので、最初に祝日として記録されているのは1699年である。ニューオーリンズでお祭りとしての行事が始まった日は不明だが、1743年の資料には、カーニバルの舞踏会の習慣がすでに行われていたことが記されている。マルディグラ・デーに催される路上での仮面行列は、法律によって禁止された年もあるが、禁止令がもちあがるたびに直ちに改正されたり規制が緩和されたりした。

1857年のマルディグラでは、ミスティック・クルー・オブ・コムスが最初のパレードを催した。コムスは最も古くから続いているマルディグラの団体だが、ニューオーリンズのマルディグラやそのパレードの創始者ではない。ただし、現在まで続いているいくつもの伝統は彼らが始めたもので、カーニバルに近代的なセンスを持ち込んだ最初のクルーであるともされている。

戦争とりわけ南北戦争と第二次世界大戦の間、また経済的、政治的、あるいは悪天候が理由で、部分的または全体のパレードが中止されることがあった。しかしカーニバルの祝賀儀式は常に慣行どおりに挙行されてきた。

1972年は、大きなパレードがフレンチ・クオーターの狭い通りを通った最後の年である。市政は、巨大なフロートと群衆への安全を心配して、その年を最後にクオーターでの大きなパレードを禁止した。

1979年には ニューオーリンズ警察がストライキを行い、すべての公式パレードはキャンセルされたり、ジェファーソン郡などの周辺地域に移動され、観光客は例年に比べて激減した。州兵が見守る中で、仮面とコスチュームをつけての祝祭はとにかく続けられた。州兵は人間や所有物に対する犯罪は防止したが、反道徳的な行為やドラッグの使用はまったく規制しなかった。そのためフレンチ・クオーターの ボヘミアン・コミュニティの中には、1979年のマルディグラが今までで最高だったと言う者もいる。

1991年、ニューオーリンズ市議会は、マルディグラのクルーも含めた社会活動団体は、人種・宗教・性別・性的嗜好に基づく差別を行わないことを公式に確約しなければ、パレードの許可やその他の公的な認可が得られないという条例を可決した。この条例の影響で、クルーのみならず他の私的な社会活動団体も、秘密主義の慣習を捨てて市の人事委員会にメンバーが誰であるのかを知らせなければならなくなった。それに抗議して、19世紀から続くクルーのコムスとモムスはパレードを取りやめた。プロテウスは1992年のカーニバル期間にはパレードを行ったが、その後はやはりパレードを一時中止した。しかしプロテウスのメンバーたちは最終的に市議会の決定に従うことを決め、スケジュールに復帰した。

のちに2つの連邦裁判所が、この条例はアメリカ合衆国憲法修正第1条の定める結社の自由に反し、法に従う団体のプライバシーの不当な侵害であるとの判決を下した。合衆国最高裁判所は、第5巡回区控訴裁判所の判決に対する市の上告を受理しなかった。

今日では多くのクルーがビジネス的な仕組みのもとで運営されている。つまり、フロートに乗るための料金を払えば基本的に誰でもクルーのメンバーになれる。対照的に老舗のクルーでは内輪の集まりに加わった新メンバーのデビューの場としてパレードや舞踏会を利用している。

 2006年のマルディグラ。FEMAをなじる参加者

2005年8月のハリケーン・カトリーナの被害に、多くの人はニューオーリンズのマルディグラの行く末を案じた。嵐のあと市の財政が基本的に破産状態に陥っていたこともあり、市当局はカーニバルの規模を大幅に縮小し、市役所の業務を減らすことを強く求めた。しかし多くのクルーは、例年通りパレードを行いたいし、行うことが可能だと言い張った。そこでクルーのリーダーと市の当局者との交渉の結果、縮小はされたものの当初の計画ほど厳しくはないスケジュールで妥協が成立した。

2006年のカーニバルでは、マルディグラの2週間前、2月11日土曜日にクルー・デュ・ヴューがマリニーからフレンチ・クオーターを通る伝統的なルートでパレードし、18日と19日の週末にいくつかのパレードが行われたあと、木曜日(23日)の夜からマルディグラ・デー(28日)までの6日間にほとんどのパレードが行われた。クルー・デュ・ヴューのパレードと、アルジェを通ったミシシッピ川西岸での2つのパレードを除くと、すべてのパレードは洪水の顕著な被害を免れた地域、すなわちアップタウンのセント・チャールズ通りからカナル・ストリートまでのルートに限定された。一部のクルーは中心街の伝統的なルートでのパレードを強硬に主張したが、その一帯は洪水の被害が深刻だったため認められなかった。パレードで路上にとどまっていられる時間や、夜のパレードの終了時刻も制限された。また、1979年以来初めて、州警察の警官や州兵が群衆のコントロールに協力した。

部分的に何週間も洪水に浸っていたフロートが多かった。修理してその痕跡を完全に取り除いたクルーもあったが、水の跡やその他の損傷をデザインに取り込んだクルーもあった。フロートの製作にたずさわり、それに乗った者のうち、嵐の余波によって顕著な被害を受けなかった者はおらず、たとえいたとしてもごく少数であった。家財道具のほとんどを失ってしまった者も多かった。しかし生きていることへの再確認の手段として、カーニバルにかける情熱は例年よりむしろ強まっていた。多くの衣装やフロートのテーマは通常より辛辣な皮肉で、破壊された街での生活の苦労や試練に言及したり、FEMA(連邦緊急事態管理庁)や州・連邦の政治家たちを物笑いの種にした。

伝統的な色 色の意味   正義 (紫色)   信頼 (緑)   力 (金)  ルイジアナ州立大学のユニフォーム

マルディグラの伝統的な色は紫色と金色と緑である。1892年に「レックス・パレード」というクルーが「色のシンボル化」というテーマを掲げてこれらの色を選び、それぞれの色に意味を与えたと言われている。毎年マルディグラの前から最中にかけては、紫色と緑色と金色の布が街じゅうにあふれる。

この三色がルイジアナ州立大学のスクールカラー(紫と金)決定に影響した。言い伝えによると、バトンルージュにある州立大のファンは、チューレーン大学(スクールカラーは青と緑)と試合をするためにニューオーリンズへやって来て、街で何色の応援グッズを買おうか迷っていた。紫と緑と金が街にあふれていたため、州立大のファンは三色のうち紫と金の物だけを購入して、チューレーンのスクールカラーである緑の物は買わなかった。それがそのまま州立大のスクールカラーになったという。

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