Canal de Panamá

( パナマ運河 )

パナマ運河(パナマうんが、スペイン語: Canal de Panamá 、英語: Panama Canal)は、中米にあるパナマ共和国のパナマ地峡を開削して太平洋と大西洋(直接にはその縁海であるカリブ海)を結んでいる閘門式運河である。

パナマ運河の規模は全長82キロメートル、最小幅91メートル、最大幅200メートル、深さは一番浅い場所で12.5メートルである。マゼラン海峡やドレーク海峡を回り込まずにアメリカ大陸東海岸と西海岸を海運で行き来できる。スエズ運河を拓いたフェルディナン・ド・レセップスの手で開発に着手したものの、難工事とマラリアの蔓延により放棄。その後、パナマ運河地帯としてアメリカ合衆国によって建設が進められ、10年の歳月をかけて1914年に開通した。長らくアメリカによる管理が続いてきたが、1999年12月31日正午をもってパナマに完全返還された。

現在はパナマ運河庁(ACP)が管理し、通航料を徴収している。国際運河であり、船籍・軍民を問わず通航が保証されている。

2002年の実績によれば、年間通航船舶数は13,185隻。通航総貨物量は1億8782万トン(いずれもパナマ運河庁調べ)。1隻通航するたびに約1億9,000万リットルの水を使用する。メガエルニーニョが発生しなければ、1日に通航できる船舶は36隻であるが、気候変動による水不足により、近年は1日平均24隻しか通航できない年もある。

前史

大西洋と太平洋とを結ぶ運河は、パナマ地峡の発見後すぐに構想された。アメリカ大陸の植民地化を進めていたスペイン国王のカルロス1世(神聖ローマ皇帝・ハプスブルク家のカール5世と同一人物)が1534年、調査を指示した。しかし、当時の技術力では建設は不可能であり、実際に建設されるまでにはこれから400年近い歳月が必要となった。また、外国による掘削は現場に本国の政治力を及ぼす必要があった。1671年、イングランドのヘンリー・モーガンが後に運河の入り口となるパナマ市を制圧している。

19世紀に入ると、産業革命や蒸気船の開発などによって船舶交通が盛んとなり、また土木技術の進歩によって運河の建設は現実的な計画となった。1848年にはカリフォルニアでゴールドラッシュが始まり、アメリカ合衆国東部から大勢の人々が西海岸をめざしたが、当時は大陸横断鉄道はまだなく、人々は両洋間の距離が最も狭まるパナマ地峡をめざして押し寄せた。これらの人々を運ぶため、1855年にはパナマ鉄道が建設され、両洋間の最短ルートとなった。ホンジュラスでも地峡鉄道を敷設する計画が立っていたが、米国の干渉により頓挫してしまった。

フランスの参入  着工記念メダル (1880年)
オスカル・ロティ製作[1]

1523年、エルナン・コルテスがカール5世にパナマ運河の建設を進言する[2]。コルテスの死後、彼のいとこであるアルバロ・デ・サアベドラ・セロン(英語: Álvaro de Saavedra Cerónが、運河建設を構想し、そのルートは、ダリエンルート、ニカラグアルート、メキシコのテワンテペクルート、パナマルート(現在のパナマ運河となるルート)のルートでの運河建設を構想するが、実現には至らなかった[2]。ドイツの自然地理学者であり外交官であったアレクサンダー・フォン・フンボルトは1799年から1804年、中南米に滞在しており、その時の経験を本にまとめており、本には運河の建設可能地を挙げており、パナマ地峡を利用したパナマ運河を建設可能と位置付けている[3]。実際に着工したのはスエズ運河の建設者フェルディナン・ド・レセップスが初めてである[4]。レセップスはスエズ運河完成後、パナマ地峡に海面式運河の建設を計画し、パナマ運河会社を設立して資金を募り、当時この地を支配していたコロンビア共和国から運河建設権を購入[4]。フランスの主導で1880年1月1日に建設を開始したが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題と資金調達の両面で難航した[5]。1884年の恐慌の一因となりながらも、1888年には宝くじ付き債券を発行し資金を賄ったが、1889年にスエズ運河会社は倒産し、事実上計画を放棄した[5]。1890年には運河の免許が更新されたが、1892年には上記の宝くじつき債券の発行を巡ってフランス政界で大規模な疑獄事件が発生[5]。パナマ運河疑獄と呼ばれるこの事件は当時のフランス政界を大きく揺るがすものとなった[5]。

アメリカによる建設  1913年、パナマ運河の閘門建設の様子 1906年、建設現場で蒸気ショベルを操作するルーズベルト。運河の建設には全面的にビュサイラス・エリー(英語版)の建機が使用された

パナマ運河会社の倒産によって、フランス共和国は運河建設から事実上手を引くこととなり、運河建設はアメリカ合衆国によって進められることとなった[6]。太平洋と大西洋にまたがる国土を持つアメリカにとって、両洋間を結ぶ運河は経済的にも軍事的にも必須のものであると考えられた[7]。

しかし、運河のルートは「パナマルート」と「ニカラグアルート」の二つの案があり、議会がまとまるまでには長い時間がかかった[8]。ニカラグアルートはニカラグア湖を使うことで、掘削量を大幅に減らす利点があったからである。しかし1902年2月に、遠く離れたカリブ海のマルチニーク島のプレー山の大爆発(4万人死亡)が起こったことが大きく宣伝されたことから、ニカラグア湖内と周辺にも火山が数個あるニカラグアルートの不安が増大した[注 1]。しかし、同年、アメリカ合衆国議会でパナマ地峡に運河を建設することを決定した[9]。

パナマ地峡は当初は自治権を持つコロンビア領であったが、パナマ運河の地政学的重要性に注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下に置くことを強く志向した[10]。1903年1月22日、ヘイ・エルラン条約(スペイン語版、英語版)(英語: Hay–Herrán Treaty、スペイン語: Tratado Herrán-Hay)が、アメリカのジョン・ヘイ国務長官とコロンビアのTomás Herrán臨時代理大使との間で結ばれた[10]。

しかし、コロンビア議会はこれを批准しなかった[11]。こうしたことから、アメリカ合衆国連邦政府は、パナマ市にいた独立派の運動家と手を結び、1903年11月3日、この地域はコロンビアから独立を宣言して「パナマ共和国」となり、時のアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの政権は、10日後の11月13日に国家の承認をし、5日後の11月18日にはパナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し、建設工事に着手した[12]。

1905年にアメリカ資本による建設事業がスタートした[13]。合衆国中を資本が駆け巡り、同年から翌年にかけて全米手形交換所の総交換額は1.5倍に急増した。工事開始後、当初の数年間は疫病の流行などにより工事は遅々として進まず、海面式運河にするか閘門式運河にするかの建設計画さえ決定していない状態だった[13]

1905年に着任した主任技師ジョン・フランク・スティーブンスが人夫へのマラリアや黄熱病の感染を防ぐためゴーガス衛生局長と蚊の駆除に尽力し、その結果、疫病はほぼ根絶された[14]。また、スティーブンスは福利厚生にも気を配り、労働者たちの労働環境は非常に整ったものとなった[14]。1906年6月、閘門式運河が新運河には最適であるとの結論を下し、議会はその判断に従って閘門式運河案を決定した[14]。

1907年、現地労働者とワシントンの運河委員会との調整に悩まされたスティーブンスは主任技師を退職し、後任にはジョージ・ワシントン・ゲーサルスが就任した[15]。ゲーサルスは軍人であり、運河委員会には全て軍人が任命され、労働者に軍隊の規律を導入した[15]。ゲーサルスは労働者の不満を吸い上げる自由面接制度を整え、工事週報の発刊によって工事の現況を労働者たちにも可視化し、そして工事を地域別にすることで、各地域の競争意識を煽った。このため、工事のテンポはこれ以降格段に早くなった。1910年にはガトゥンダムが完成し、1913年にはダムが満水となってガトゥン湖が誕生した。一番の難工事であったクレブラ・カットの開削も完了し、パナマ運河は予定より2年早く1914年8月15日に開通した。

結局、この工事には3億ドル以上の資金が投入された。運河収入はパナマに帰属するが、運河地帯の施政権と運河の管理権は、アメリカ合衆国に帰属した。なお、ルーズベルト大統領は完成直前に死去した。

建設には、日本人の青山士(あおやま あきら)も従事。彼は帰国後、内務省の技官になり、信濃川大河津分水路補修工事や荒川放水路建設工事に携わった。

建設後も、特にクレブラ・カット区間で土砂崩れが続発し、一度は運河が完全にこの区間で埋まってしまったこともあった。さらに運河の幅自体も、この区間は難工事であったために狭く、そのため1927年よりこの区間の拡張並びに護岸工事が行われ、1940年頃に完成した。

両大戦

運河の開通した1914年は、第一次世界大戦開戦直後であり、このため運河利用は1918年頃まで低迷を続けた。しかし1919年に、第一次世界大戦が終結するとともに、運河の利用は激増した。1930年代後半になると世界情勢が再び緊迫し、大日本帝国との対立が激しくなる中、アメリカ合衆国連邦政府はパナマ運河の拡張案を成立させ、1939年に着工した。

この工事は別水路を作って、パナマ運河の通航可能量を増大させるもので、新規の閘門を作ることから「第三閘門運河」と呼ばれたが、第二次世界大戦中の1942年に拡張工事は中止された。しかしこの工事跡はその後も残り、21世紀に入って、パナマ運河拡張案が再浮上した時に再利用されることとなった。なお、1941年4月に、第二次世界大戦に入ったヨーロッパ戦況の激化を受けてアメリカとイギリス船以外の利用が禁止された。

日本軍による攻撃計画

第二次世界大戦時、大日本帝国海軍にはパナマ運河攻撃計画が存在した。1942年2月から9月にかけて日本海軍の潜水艦によって行われたアメリカ本土砲撃と、その艦載機によるアメリカ本土空襲が行われた際に検討されたことがあるが、この際にはアメリカ本土への攻撃が優先されたため、結果的に検討されたのみであった。

 伊四〇〇型

これらの作戦が行われると同時に、大日本帝国海軍は更なる本格的なアメリカ本土攻撃を目的に、特殊攻撃機晴嵐を3機搭載した伊四〇〇型潜水艦からなる潜水艦の建造を進めた。しかし、1945年に入ると同盟国であるドイツ国の艦隊が壊滅状態になったため、不要となったイギリスやアメリカなどの大西洋で活動していた艦船の太平洋への回航が予想され、この回航を少しでも遅らせるために、これらの潜水艦とその艦載機でパナマ運河を攻撃することを計画した。

その後、アメリカ軍の爆撃機による日本本土空襲が本格化したため、これらに対する報復を目的に再度アメリカ本土攻撃に主目標が変更された上に、伊四〇〇号型潜水艦2隻が完成した後の1945年3月に沖縄戦が始まったことなどにより結局このパナマ運河攻撃計画は破棄され、最終的に南太平洋のウルシー環礁の連合軍艦隊の泊地へ攻撃目標を変更した。作戦遂行に向けて展開中の8月15日に同諸島沖合で終戦を迎え、その後、伊四〇〇型潜水艦はアメリカ軍により標的処分および自沈・解体され姿を消した。

この運河攻撃計画を実行するに当たり、日本軍はパナマ運河建設に関わった青山士に運河の写真、設計図の拠出を要求したが、青山は「私は運河を造る方法は知っていても、壊す方法は知らない」と述べたエピソードがある[16]。

なお第二次世界大戦中、アメリカ海軍の艦艇はパナマックスサイズで建造されている。これは、大西洋から太平洋戦線、またはその逆の転戦を容易にする為の措置であり、パナマ運河の軍事的要衝の証明である。

1950年8月4日、連合国軍最高司令官総司令部は1941年から禁止していた日本船の運河航行を許可した[17]。

返還

パナマ独立時の条約によって、運河地帯両岸の永久租借地にはアメリカの軍事施設が置かれ、中南米におけるアメリカの軍事拠点となっていた。アメリカ政府はここを拠点として、パナマに対する有形無形の干渉を続けたが、第二次世界大戦後になるとパナマの民族主義が高まり、運河返還を求める声が強くなっていった。1968年の軍事クーデターによってオマル・トリホスが権力を握ると、国粋主義的な方針を取るトリホス政権は運河の完全返還を強く主張するようになった。これを契機にアメリカ合衆国と返還をめぐる協議が始まり、1977年、ジミー・カーター大統領の時代に新パナマ運河条約が締結された[18] 。新条約では、恒久的に中立無差別な通航が保証される国際運河であることの再確認と引き換えに、まず1979年に主権をパナマに返還し、アメリカ合衆国の海外領土としての運河地帯を法的に消滅させた。その時点から20年間は運河の管理を両国共同で行うこととされ、1999年12月31日にアメリカは全ての施設を返還、アメリカ軍は完全に撤退した。

現在のパナマ運河は、パナマ共和国が管轄している。

通航量の増大や船舶の大型化の流れを受けて、2006年4月に運河拡張計画がパナマ運河庁より提案され、10月に国民投票により実施されることが決定された。総事業費6,000億円で、単独財務アドバイザーを日本のみずほコーポレート銀行が務めた。この計画は、既存の閘門の近くに新たに大型の閘門を増設する計画となっており、以前に別ルートとして計画されていた「第2パナマ運河計画」とは別物である。第2パナマ運河計画に関しては、鉄道貨物輸送との競合があり、その採算性から、計画の具体化がなされていなかった経緯があった。しかし、鉄道輸送では賄えない部分も残っているため、既存の運河を拡張する方法により、事業費を圧縮しながらも拡張するため、新たに提示され実施されることになったのが、2016年に完成したパナマ運河拡張である。

Panorama of Pacific entrance of the canal. 
パナマ運河の太平洋側入口のパノラマ。左側に太平洋及びアメリカ橋、右側にミラフローレス閘門が見える。
^ 裏面の画像 ^ a b 河合(1980年)、63-64頁。 ^ 河合(1980年)、64-65頁。 ^ a b 河合(1980年)、88-94頁。 ^ a b c d 河合(1980年)、94-98頁。 ^ 河合(1980年)、98頁。 ^ 河合(1980年)、100頁。 ^ 河合(1980年)、108頁。 ^ 河合(1980年)、110頁。 ^ a b 河合(1980年)、110-111頁。 ^ 河合(1980年)、111頁。 ^ 河合(1980年)、111-112頁。 ^ a b 河合(1980年)、142-143頁。 ^ a b c 河合(1980年)、143-144頁。 ^ a b 河合(1980年)、144頁。 ^ 在パナマ日本国大使館 パナマ運河の歴史 ^ 「日本船のパナマ航行許可 昭和十六年以来十年ぶり」『日本経済新聞』昭和25年8月5日3面 ^ 河合(1980年)、16頁。


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