Türkiye
トルコのコンテキスト トルコ
- トルコ共和国
- Türkiye Cumhuriyeti
- 国の標語:Egemenlik kayıtsız şartsız milletindir. (トルコ語:主権は無条件に国家にあり)
- 国歌:İstiklal Marşı(トルコ語)
独立行進曲
トルコ共和国(トルコきょうわこく、トルコ語: Türkiye Cumhuriyeti)、通称トルコは、西アジアに位置するアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパに位置するバルカン半島東南端の東トラキア地方を領有する共和制国家。首都はアナトリア中央部のアンカラ。
アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる。北は黒海とマルマラ海、西と南は地中海(西はエーゲ海)に面する。陸上国境は、西でブルガリア、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。
詳細について トルコ
- 通貨 トルコリラ
- 母国語表記 Türkiye
- 呼び出しコード +90
- インターネットドメイン .tr
- Mains voltage 230V/50Hz
- Democracy index 4.35
- 人口 85372377
- 領域 783562
- 駆動側 right
- 詳細は「トルコの歴史」を参照トルコの歴史
この記事はシリーズの一部です。先史時代青銅器時代トロイ 3000-700 BC原ハッティ 2500-2000 BCアッカド帝国 2400-2150 BCルウィ語 2300-1400 BCアッシリア 1950-1750 BCアカイア人 1700-1300 BCキッズワトナ 1650-1450 BCヒッタイト 1680-1220 BCアルザワ 1500-1320 BCミタンニ 1500-1300 BCアッジ(ハヤサ) 1500-1290 BCリュキア 1450-300 BCアスワ同盟 1300-1250 BCディアオキ 1200-800 BCシロ・ヒッタイト国家群 1200-800 BCフリギア 1200-700 BCカリア 1150-547 BCヘクサポリス 1100-560 BCアイオリス 1000-560 BCテュアナ 1000-700 BCイオニア 1000-545 BCウラルトゥ 859-595/85 BC鉄器時代ディアオキ 1200-800 BCシロ・ヒッタイト国家群 1200-800 BCフリギア 1200-700 BCカリア 1150-547 BCヘクサポリス 1100-560 BCアイオリス 1000-560 BCテュアナ 1000-700 BCイオニア 1000-545 BCウラルトゥ 859-595/85 BCメディア王国 678-549 BCリュディア 685-547 BC古典古代アケメネス朝 559-331 BCアレクサンドロス大王 334-301 BCカッパドキア 322-130 BCアンティゴノス朝 306-168 BCセレウコス朝 305-64 BCプトレマイオス朝 305-30 BCポントス 302-64 BCビテュニア 297-74 BCアッタロス朝ペルガモン 282-129 BCガラティア 281-64 BCパルティア 247 BC-224 ADアルメニア王国 190 BC-428 AD共和政ローマ 133-27 BCコンマゲネ王国 163 BC-72 ADローマ帝国 27 BC-330 ADサーサーン朝 224-651 AD中世東ローマ帝国 330–1453正統カリフ時代 637–656セルジューク朝 1037–1194ダニシュメンド朝 1071–1178ルーム・セルジューク朝 1077–1307キリキア・アルメニア王国 1078–1375ベイリク 1081-1423エデッサ伯国 1098–1150アルトゥク朝 1101–1409トレビゾンド帝国 1204–1461ニカイア帝国 1204–1261ラテン帝国 1204–1261イルハン朝 1256–1335黒羊朝 1375–1468白羊朝 1378–1501オスマン帝国オスマン帝国 1299-1922 • 青年トルコ人革命 1908 • 統一と進歩委員会 1913–1918トルコ共和国トルコ共和国 1923–現在 • トルコ革命 1919–1922 • ローザンヌ条約 1923 • ギリシャとトルコの住民交換 1923テーマ別東方問題アナトリアには旧石器時代(1万1000年から60万年前)からの遺跡が存在する。紀元前2000年末ごろから鉄を作る技術が中近東世界に広がった。この地域が鉄器時代に入ったと考えられる[1]。
国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島(小アジア)と最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブールは、古代からヒッタイト、フリュギア、リディア、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)など様々な民族・文明が栄えた地である。
一方、北アジアではトルコ(テュルク)系民族として突厥が552年にモンゴル系民族の支配から独立した。現在のトルコ共和国ではこれをもって最初の建国とみなしている。その後、東西に分裂し、中央アジアのアラル海東岸に割拠した西突厥の部族の一つから部族長トゥグリル・ベグが出て西進を始め、ボハラ地方を部族で占領しセルジューク朝を成立させた。さらに西進して1055年バグダッドに入城、アッバース朝のカリフよりスルタンに指名された。事実上アッバース朝に変わってセルジューク朝がメソポタミアの支配者となる。しかし、東アジアで覇権争いに敗れた契丹系の西遼が中央アジアに移動し、父祖の土地を占領すると、これと争い大敗して急激に衰退。のちにモンゴル帝国のフラグによる侵攻を受けて滅亡する。また中央アジアのトルコ系部族集団は、さらにウイグル系民族に圧迫されてイラン(ペルシャ)北部、カスピ海東岸の隅地に逃亡して歴史の記録から消える。
11世紀に、トルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族と対立・混交しつつ次第に定着していった。これら群小トルコ系君侯国はチンギスハーンの孫フラグのバグダッド占領、イルハーン帝国成立後もアナトリア西端に割拠して生き残り、その一つから発展したオスマン朝は、15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブールを都とし、東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てる。モンゴル系のティムールにアンゴラ(アンカラ)の戦いで敗れ一時滅亡するが、アナトリア南部の険によって抵抗し命脈を保った一族が、ティムールの死後にオスマン朝を復興した。
ムスタファ・ケマル・アタテュルク19世紀、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地ではナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立し、欧州列強がこれに介入した(東方問題)。帝国はオスマン債務管理局を通して列強に財政主権を握られ、第一次世界大戦で敗北した。こうしてオスマン帝国は英仏伊、ギリシャなどの占領下に置かれ、完全に解体された。中でもギリシャは、自国民居住地の併合を目指してアナトリア内陸部深くまで進攻した(希土戦争 (1919年-1922年))。また、東部ではアルメニア国家が建設されようとしていた。これらに対してトルコ人ら(旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人)は1919年5月、国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こした(トルコ独立戦争)。1920年4月、アンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)の下に結集して戦い、1922年9月、現在の領土を勝ち取った。1923年、アンカラ政権はローザンヌ条約を締結して共和制を宣言した。1924年、オスマン帝国のカリフをイスタンブールから追放し、西洋化による近代化を目指してトルコ共和国を建国。イスラム法(シャリーア)は国法としての地位を喪失。大陸法の影響を受けただけでなく、アメリカ合衆国などからの直接投資も受け入れることになった。
第二次世界大戦では中立を維持したが、末期の1945年になり連合国の勝利が確定的になると、その圧力により2月23日にナチス・ドイツと大日本帝国に対して宣戦布告した。第二次世界大戦後は、ソ連に南接するため、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、1952年には北大西洋条約機構(NATO)に、また1961年には経済協力開発機構(OECD)に加盟した。NATOとOECD加盟の間は西側陣営内で経済戦争が起こっていた(セカンダリー・バンキング)。1956年ごろ、ユーロバンクの資金調達先となったため外貨準備を著しく減らした。これを輸出で補うため単位作付面積あたりの綿花収穫量を急速に伸ばしたが、ソ連が既に1944年から輸出量を世界で最も急ピッチに増産していた。1952年に暴落した価格で南米諸国とも競争するも、機関化する1980年代まで外貨準備を十分に確保することができなかった。
国父アタテュルク以来、イスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化に邁進してきた(ヨーロッパ評議会への加盟、死刑制度の廃止、経済市場の開放と機関化)。その最終目標である欧州連合(EU)への加盟にはクルド問題やキプロス問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが障害となっている。
トルコ側もEU加盟よりは、レジェップ・タイイップ・エルドアン政権下の2010年代から2020年代にかけて、国内での反対派弾圧やイスラム回帰(アヤソフィアのモスク化など)、オスマン帝国旧領やその周辺に対するトルコの影響力拡大(新オスマン主義)を優先している。シリア内戦、リビア内戦、2020年ナゴルノ・カラバフ紛争に対しては派兵や傭兵の派遣、武器供与により介入している[2][3](「新オスマン主義」も参照)。
特にアルメニアとはナゴルノ・カラバフ紛争以外にも、アルメニア人虐殺への存否を含む見解の相違や、アララト山の領有権問題を抱え、緊張した関係が続いている。アルメニアの民族派は東南部を西アルメニアだと主張して返還を求めている。
2013年、MIKTAに加盟した。
^ 大村幸弘「和平条約と粘土板が物語ること」/ 大村幸弘・永田雄三・内藤正典編著『トルコを知るための53章』明石書店 57ページ ^ 【ニュースの門】帝国復活 トルコ大統領の野望『読売新聞』朝刊2020年11月16日(解説面) ^ 「新オスマン主義」「エルドアン大統領 支持の背景」『読売新聞』朝刊2017年4月26日