のコンテキスト セネガル

セネガル共和国
République du Sénégal
国の標語:Un Peuple, Un But, Une Foi
(仏語: 1つの国民、1つの目標、1つの信念)
国歌:Pincez Tous vos Koras, Frappez les Balafons(フランス語)
コラを弾け、バラフォンを叩け

セネガル共和国(セネガルきょうわこく、フランス語: République du Sénégal [ʁepyblik dy seneɡal])、通称セネガルは、西アフリカ、サハラ砂漠西南端に位置する共和制をとる国家。北東にモーリタニア、東にマリ、南東にギニア、南にギニアビサウと国境を接している。また、ガンビア川の岸に沿った細長い国土を持つガンビアとも国境を接し、セネガルは同国を陸上から囲んでいる。これによってセネガルの南部のカザマンス地方は、残りの地域から隔てられている。西は大西洋に面し、カーボベルデと海上の国境を接している。領内にはアフリカ大陸最西端で...続きを読む

セネガル共和国
République du Sénégal
国の標語:Un Peuple, Un But, Une Foi
(仏語: 1つの国民、1つの目標、1つの信念)
国歌:Pincez Tous vos Koras, Frappez les Balafons(フランス語)
コラを弾け、バラフォンを叩け

セネガル共和国(セネガルきょうわこく、フランス語: République du Sénégal [ʁepyblik dy seneɡal])、通称セネガルは、西アフリカ、サハラ砂漠西南端に位置する共和制をとる国家。北東にモーリタニア、東にマリ、南東にギニア、南にギニアビサウと国境を接している。また、ガンビア川の岸に沿った細長い国土を持つガンビアとも国境を接し、セネガルは同国を陸上から囲んでいる。これによってセネガルの南部のカザマンス地方は、残りの地域から隔てられている。西は大西洋に面し、カーボベルデと海上の国境を接している。領内にはアフリカ大陸最西端で、カーボベルデの国名の由来となっているベルデ岬を抱えている。セネガルの経済的・政治的首都はダカールである。

詳細について セネガル

基本情報
  • 通貨 西アフリカCFAフラン
  • 呼び出しコード +221
  • インターネットドメイン .sn
  • Mains voltage 230V/50Hz
  • Democracy index 5.67
Population, Area & Driving side
  • 人口 16876720
  • 領域 196722
  • 駆動側 right
履歴
  • 古代諸王国

    旧石器、および新石器時代の遺跡が見つかっており、その頃から人類が居住していたことが分かっている。

    セネガル川の中流、下流域は9世紀以降、北アフリカのマグリブ地方のイスラーム王国との交易で栄え、ガーナ王国、テクルール王国(英語版)(トゥクロール族、800年代 - 1285年)、ジョロフ王国が成立した。とりわけ、テクルール王国にはアルモラヴィド(ムラービト朝)の影響で11世紀にイスラム教が伝来し、王侯貴族を中心にイスラム化が進んだ[1]。その後、マリ帝国(1240年 - 1473年)の影響の下で、14世紀から16世紀にかけてウォロフ人のジョロフ王国などの勢力が台頭した。

    植民地化の進展
     
    かつては奴隷貿易の拠点だったゴレ島の要塞。セネガンビアからも多くの奴隷が南北アメリカ大陸と周辺の島々へと連行された。

    公式な記録から判断する限りで、初めて現在のセネガルに相当する地域に訪れたヨーロッパ人はポルトガル王国のディニス・ディアスであり、1444年にこの地を訪れたディニス・ディアスは、訪問先のアフリカ大陸最西端の岬をポルトガル語で「緑の岬」を意味するベルデ岬と名付けた[2]。ディニス・ディアスはこの地から若者4人を拉致して本国のポルトガルへと連れ帰り通訳として教育し、この4人は15世紀当時のセネガンビアの諸王国を記録した、ヴェネツィア共和国の商人であったカダモストが1455年に行った探検を手助けした[3]。

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    古代諸王国

    旧石器、および新石器時代の遺跡が見つかっており、その頃から人類が居住していたことが分かっている。

    セネガル川の中流、下流域は9世紀以降、北アフリカのマグリブ地方のイスラーム王国との交易で栄え、ガーナ王国、テクルール王国(英語版)(トゥクロール族、800年代 - 1285年)、ジョロフ王国が成立した。とりわけ、テクルール王国にはアルモラヴィド(ムラービト朝)の影響で11世紀にイスラム教が伝来し、王侯貴族を中心にイスラム化が進んだ[1]。その後、マリ帝国(1240年 - 1473年)の影響の下で、14世紀から16世紀にかけてウォロフ人のジョロフ王国などの勢力が台頭した。

    植民地化の進展
     
    かつては奴隷貿易の拠点だったゴレ島の要塞。セネガンビアからも多くの奴隷が南北アメリカ大陸と周辺の島々へと連行された。

    公式な記録から判断する限りで、初めて現在のセネガルに相当する地域に訪れたヨーロッパ人はポルトガル王国のディニス・ディアスであり、1444年にこの地を訪れたディニス・ディアスは、訪問先のアフリカ大陸最西端の岬をポルトガル語で「緑の岬」を意味するベルデ岬と名付けた[2]。ディニス・ディアスはこの地から若者4人を拉致して本国のポルトガルへと連れ帰り通訳として教育し、この4人は15世紀当時のセネガンビアの諸王国を記録した、ヴェネツィア共和国の商人であったカダモストが1455年に行った探検を手助けした[3]。

    1549年にジョロフ王国(1350年 - 1549年)が、カジョール王国(ウォロフ語版、フランス語版、英語版)(ウォロフ語: Kajoor、1549年 - 1879年)やジョロフ王国(英語版)(Jolof Kingdom、1549年 - 1875年)などに分裂し、1550年にバオル王国(フランス語版、英語版)(1550年 - 1859年)が独立した。

    その後、ポルトガルに続いてオランダやイギリスの商人がこの地に進出したものの、1659年にフランス王国がセネガル川の中州にサン=ルイ商館を建設した[4]。1673年から1674年にかけて、イスラムのマラブー(聖人)がヨーロッパ人や、ヨーロッパ人に協力する在地の諸王国の奴隷狩りに対して反乱を起こしたが[5]、武力鎮圧された。そして、1677年にゴレ島をオランダから奪取した後、セネガンビア地域にはフランスの強い影響が及ぶようになった[4]。

    フランス植民地時代

    サン=ルイ島およびゴレ島は1815年のウィーン会議でフランスの植民地とされた。その後フランスはダカールなどの都市やダカール港などの開発を進め、さらに、ダカールとセネガルの北部のサンルイを結ぶ鉄道などの建設を進めた。

    1848年に奴隷貿易が廃止された。1854年にフランス軍のルイ・フェデルブ将軍が総督に就任すると、現地の諸王国を征服し(1859年にen:Battle of Logandème)、セネガル川流域をフランスの支配下に置いた[6]。1867年、en:The Battle of Fandane-Thiouthioune(マラブー戦争、Serer-Marabout Wars)。鉄道敷設により支配体制を強固にしようとするフランスの植民地化に対し、カジョール王国(ウォロフ語版、フランス語版、英語版)(ウォロフ語: Kajoor、1549年 - 1879年)のラット・ジョール王が抵抗を行ったものの、1886年10月26日にジョール王がフランス軍との戦闘で殺害された後、植民地化は更に進んだ[7]。フランスはこの後1890年よりカザマンス地方の征服を進め、1895年にフランス領西アフリカを確立し、ダカールはその中心地となった[8]。

    征服後、フランスは在地の有力者が所有していた奴隷を解放する一方でイスラムのムリッド教団を通じて農民に商品作物として落花生を栽培させる経済構造を樹立し、フランス化した都市部の「市民」(les citoyens)に本国への参政権を与えつつ、地方部の「従属民」(les sujets)を「原住民法」によって統治する植民地体制を確立した[9]。フランス植民地下でセネガル人は「セネガル歩兵」としてフランスの戦争に動員され、彼らは19世紀の西アフリカ植民地化戦争や20世紀の第一次世界大戦、第二次世界大戦、インドシナ戦争、スエズ戦争などに参加させられた[10]。

    第二次世界大戦中の1940年9月23日には、ヴィシー政権についたセネガル植民地政府軍とイギリス海軍との間でダカール沖海戦が勃発した。

    第二次世界大戦が終結し、世界的に脱植民地化の流れが加速してきた1958年11月にフランス共同体内の自治国となり、1959年4月にフランス領スーダン(現マリ)とマリ連邦を結成した。

    独立後
     
    ネグリチュードの文学者にしてセネガル共和国初代大統領、レオポール・セダール・サンゴール。

    1960年4月4日マリ連邦としてフランスから独立し、同年8月20日にはマリ連邦から分離しセネガル共和国として単独国家となった。同年9月6日にネグリチュード運動の文学者であり、セネガル社会党 (PSS) を率いたレオポール・セダール・サンゴールが初代大統領に就任し、アフリカ社会主義を掲げつつもマルクス=レーニン主義からは距離を置いた、親フランスの穏健改革路線を採用して1980年12月31日まで長期政権を維持した。サンゴールは、自ら国歌「コラを弾け、バラフォンを叩け」の作詞もしている。

    1981年1月1日にアブドゥ・ディウフ首相が第2代大統領に就任し、ディウフ大統領は1983年、1988年、1993年の大統領選でも勝利した。なお、ディウフは1982年2月に隣国ガンビアとセネガンビア国家連合を発足させたものの、セネガンビア国家連合はフランス領であったセネガルとイギリス領であったガンビアの体制の違い、主権問題、経済格差などの問題で対立し、1989年9月にガンビアとの国家連合を解消した。また、ディウフ政権下では1982年12月26日にカザマンス紛争が、1989年から1991年にかけて北の隣国モーリタニアとの国境紛争が勃発した(英語版)

    2000年3月19日の大統領選決選投票で、セネガル民主党 (PDS) のアブドゥライ・ワッド党首が当選し、同年4月1日に大統領に就任した。4月5日にワッド大統領は、ディウフ政権で外相などを務めたムスタファ・ニアスを首相に任命し、連立政権が成立した。

    21世紀

    2001年1月7日に新憲法案が国民投票で承認され、大統領任期を7年から5年に短縮、議会を一院制とし、議席数も140から120に削減され、さらに女性の土地所有権も認められた。国民議会選挙をめぐって連立与党内での対立が発生し、2001年3月3日にワッド大統領はニアス首相を解任し、後任にマーム・マジョル・ボイを任命し、同国初の女性首相が誕生した。4月29日の立法議会選挙でセネガル民主党 (PDS) などの政党連合「変革」が120議席中89議席を獲得し、進歩勢力同盟 (AFP) は11議席、セネガル社会党 (PSS) は10議席、民主刷新連合 (URD) は3議席を獲得した。また、2002年5月の地方議会選挙でも、与党連合 (CAP21) が安定した勝利を収めた。これにより、大統領選挙、国民議会選挙に続き、ワッド大統領はセネガル国民からの支持を3回にわたって獲得したことで、1960年以来40年間続いた社会党政権からの政権交代を完了させ、国内政治を運営する上で安定した政権基盤を築いた。

    2001年9月26日、ガンビア沖の海上でフェリー「ジョラ」が転覆した。事故調査委員会は乗員乗客1220人のうち、1053人が死亡したと伝えた。さらに、セネガル軍が現場に艦船や航空機を派遣したのが事故発生から12時間後と出遅れたうえ、フェリーは定員550人を大幅にオーバーしており、フェリーの設計も湖での航行用だったなど、杜撰な実態が明らかになった。サンボ国防相とサコ設備・運輸相は10月1日に責任を取って辞任した。ワッド大統領は11月4日にボイ首相以下全閣僚の解任を発表し、PDSのイドリサ・セック副党首が首相になった。セック首相はワッド大統領の有力な後継者と見られていたものの、2004年4月21日に解任され、マッキー・サル内務大臣が首相に就任した。2004年12月10日には死刑制度が廃止された。この他に、2004年12月30日には、セネガル南部のカザマンス地方の分離独立を狙うカザマンス民主勢力運動(英語版)との間で一応の和平協定締結されたものの、紛争の火種は残ったままである。なお、2004年は前年のセネガル、西サハラ、モロッコに於ける大雨によってサバクトビバッタの大量発生 (2004年)(英語版)が生起し、打撃を受けた年でもあった。

    2007年2月25日の大統領選挙でPDSのワッドが再び大統領に選ばれた。2010年にはセネガル共和国独立50周年を記念して、首都ダカールにアフリカ・ルネサンスの像が落成した。

    2012年の大統領選挙では、ワッド大統領の対抗馬として立候補したマッキー・サルが3月25日の決選投票でワッドを破り、第4代大統領に就任した。

    ^ 小川了「イスラームの国セネガル」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、30-31頁。 ^ 小川了「セネガルはいかに「発見」されたか」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、18-19頁。 ^ 小川了「セネガルはいかに「発見」されたか」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、19-21頁。 ^ a b 小川了「フランスによる植民地化はどのようになされたか」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、22-23頁。 ^ 小川了「イスラームの国セネガル」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、31頁。 ^ 小川了「フェデルブ総督が来た」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、217-218頁。 ^ 小川了「ラット・ジョール王」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、221-223頁。 ^ 小川了「フランスによる植民地化はどのようになされたか」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、24頁。 ^ 小川了「フランスによる植民地化の完成からセネガル独立への動き」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、25-28頁。 ^ 小川了「「セネガル歩兵」とはなにか」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、235-237頁。
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